第9話 第二部 義陽 第八章 滅びの跫音

          (一)


 水俣城みなまたじょうを守る深水ふかみ宗方そうほうは、館の上階から敵軍の様子を眺めていた。

 本格的な天守を備えた城は、織田信長が築いた安土城あづちじょう嚆矢こうしとも言われているが、中央から遠く離れた地方の城、しかもただの方面防御拠点の支城に、そんな立派な構築物は存在しない。それでも、本丸館の階上からは、結構な先まで見渡せた。

 島津は今回、大軍を用いての相良攻めにあたって、薩肥国境近くの海岸線の重要拠点であるこの水俣に、まず軍を差し向けてきた。

 ――要地の攻略とはいえ、それにしても何たる大軍よ。

 宗方そうほうは、目の前に広がる光景に呆れていた。

 島津は、先鋒の家久いえひさ軍三万一千、中軍を務める義弘よしひろ軍が同じく三万一千、本隊である総大将、義久よしひさの軍が五万三千、総勢十一万五千と号していた。話半分でも大げさに過ぎるとはいえ、それでも目の前には、万を超える兵が確かにいる。対する水俣の守備軍は、これも公称で、たったの七百ばかりであった。

ひがしのご兄弟には、振り回されましたな」

 背後から声をかけてきたのは、今は亡き勝軍斎しょうぐんさいが宗方に預けていった、荗季しげすえ休矣きゅういであった。相良の老職東長兄ながえの一族であり、義陽が軍監として派遣してきた頼兼よりかね頼一よりかずの兄弟は、それまで散々勇ましいことを言っていたのだが、島津が送り込んできた軍勢の余りの多さにきもを潰すと、さっさと己の故地である湯浦ゆのうらへと退散していった。

「何、あの兄弟に憤激してここに残ってくれた者もおる。最初から増援を連れてきてくれただけだと思えば、腹も立たぬよ」

 宗方は、気さくにそう答えた。ついでに、己の疑問を口にする。

「屋根のき替えは終わったのか」

 応じた休矣きゅういの答え方も、いくさを前にしたとは思えぬほど緊張のない口ぶりであった。

「それが、どうも竹が足りませぬでな。適当なところで、切り上げて参りました」

 水俣は、昔から重要地と見なされてきたために城の成立も古く、城内の構造物には萱葺かやぶきの屋根をもつものがまだ多数あった。休矣は、島津が攻城に火攻めを用いるはずと言い出し、燃えやすい萱から難燃性の竹への葺き替えを指揮していたのだ。

「もう少し早く気づき、事前にもっと竹を切らせて集めておくのでした。これだけ囲まれてからでは、もう外へ竹取りも出せませぬ。いや、申し訳のないことで」

 あまり申し訳なさそうには聞こえない口調で謝った。目を城外へ向けて敵情の観察を続けたまま、宗方が声だけで応じた。

「そのようなことを口にしてはおるが、そなた、実は前から少しずつやっておったな。こたびまでやらずに残しておいたところは、重要ゆえ、青竹を使いたかったのであろう」

 青竹は水分が抜けていない分、枯竹より防火能力が高い。切ったばかりであるほど、その効果は大きいのだ。

「ほう」

 風来坊のような男は、妙な返事をした。

「それに、全部葺き替えなかったは、敵に依怙地いこじになられて竹葺きの屋根に多数の火矢を射込まれるより、焼かれてもよいところは焼かせてやるつもり」

 今度は返事もない。振り返ってちらりと見ると、口の端を上げていた。

「何じゃ」

「いや、城守しろもり様は、なかなかあなどれぬと思いましてな」

「おだてるな。文弱ぶんじゃくの徒とて馬鹿にしておると、容赦はせぬぞ」

 全く怒っていない口ぶりでそう言うと、休矣は大げさに否定した。

「滅相もない。それに、文弱などとは心にもないことを。

 東兄弟のような戦さ慣れした者どもが、尻尾を巻いて逃げ出した城に残られて、これだけ平然となさっておられるとは、いやはや、なかなかの豪傑ぶり」

 ようやく宗方は向き直った。今言われたのは、自分でも不思議に思っていたことだ。

「軍監殿らは戦慣れしておればこそ、この先どうなるかがよく見えて、怖気おじけづいたのやもしれぬな。

 なに、実際に戦が始まれば、腰を抜かしてしまうかもしれん。そのときは、儂の代わりを頼むぞ」

「はて。それがしも勝軍斎様に教わった畳水練たたみすいれんばかりにござれば、そのせつはどうなることやら。

 まあ、城には吉賀江よしがえ丹後たんご殿らの強兵も残っておりますれば、そうなったら戦いは丹後殿らお任せして、二人して震えておりましょうか」

 宗方は、休矣のどこまでものんびりとした言い方に、苦笑するよりなかった。

 この荗季しげすえ休矣きゅういという男こそ、なかなか侮れるものではなかった。城に居つくや、好き勝手にいろいろなところに入り込んでは、この調子で誰とでも仲良くなってしまう。

 勝軍斎が連れてきた男だということは皆が知っていたが、話をしても、勝軍斎の「シ」の字も口にしない。宗方以外には、かの修験者とはただの顔見知り程度だろうと思われているふしがあった。

 勝軍斎が罪を得て斬られたときは、さすがに謹慎していたようだ。宗方はその折、気にはしながらも、近衛このえ卿にはべるために八代やつしろから動けなかったのだが、あの尊大な東兄弟からも気の毒がられて、いたわられていたということであった。

 城内の他の者どもの態度は、して知るべし、である。勝軍斎の冤罪えんざいが晴れたときには、この男のために涙を流して喜んだ者が少なからずいたと聞く。

 ――これも、勝軍斎ゆずりの誑かしの術か。

 そう、思わぬでもない。しかし、宗方は気にしなかった。

 ――たとえそうであったとしても、如才じょさいのないお調子者のお愛想と、いったいどこが違うのか。

 肝心なのは、この休矣という男が、ただの食わせ物だというわけではなく、実際の役に立っているということだ。

 周りから立てられたのか、当人がそのつもりなのを周囲からも認められたのか、気がついたときには宗方の幕僚か軍師のような顔をしていた。

 ところが、それが宗方にとっても心地よい。そう思わせるだけの働きをしてくれているからだが、今ではもう、この城の守りになくてはならない存在になっていた。

 ――生き残ることはむずかしかろうが、これで己にできることは全てやってから死ねそうだ。

 宗方は休矣という男を得て、そう考えられるようになっている。ただ、己を信頼してこの男を預けてくれた勝軍斎の遺志に応えられそうにないことだけには、少なからず後ろめたさを感じていた。


 そしてついに、島津軍の攻撃が始まった。頼みにしていた精兵、吉賀江丹後は、城の裏手を衝いて突撃してきた敵への反撃で奮戦し、緒戦で命を落としている。宗方も休矣も、隅で震えているどころではなくなった。城の端から端まで走り回り、声をらして、迎撃の指示を出し続けた。

 万を越える軍勢相手に、たった数百の守りで、よく闘ったほうであろう。土塁は切り欠かれ、城柵はところどころ破れている。糧秣はまだもつが、矢玉は尽きかけていた。何より、人の体力が限界に近づいている。

 通常の吶喊とっかんにも総力で立ち向かわねばしのげない状況なのに、夜襲への備えも省くことはできない。皆、頬がこけ、血走った眼ばかりが目立つ顔になるまで、そうときはかからなかった。

 これだけの大軍に囲まれていながら、義陽の本拠、鷹峰城との連絡はまだ取れていた。相良の当主義陽は、朴河内城ほうかわちじょうで行ったように救援部隊投入を企図しており、時期の打ち合わせを指示してくる。

 宗方は断った。主君の出陣を強くいさめ、自重を促した。これは、休矣も同意の上のことであった。

 密使がやすやすと出入りできるという今の状況は、義陽の突入を島津が待ち構えているということを意味していた。この城がいまだちずにいるのも、あるいは島津が義陽直卒軍の突入を呼び込むため、適当に手を抜いているからかもしれない。

 島津の思惑通りにさせてはならなかった。今義陽が討ち死にすれば、相良が滅びる。それでは、皆がこうして必死に持ちこたえている意味がなくなってしまう。

 また、鷹峰から密使が到着した。今度も救援軍の話かと思い義陽の手紙を開いた宗方は、読み終えて休矣にひとことだけ言った。

「包囲軍に降伏し、城を明け渡せとのご命令じゃ」


 大友宗麟そうりんが島津に敗れて領国へと引揚げた後、相良義陽の唯一の望みは肥前ひぜん(現在の佐賀県)の竜造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶとなった。肥前はもともと少弐しょうに氏が守護を務める国であり、竜造寺はその被官ひがん(家来)であったが、このころはかつての主君を圧倒し、一国をほぼ手中にしていた。

 義陽の支援要請に対し、擡頭たいとう著しい島津に圧迫を感じていた竜造寺は動き出した。まずは肥後北部を制圧し、島津と直接対峙する状況を作り上げようとする。

 ところが、肥後の中部北部は、名目上はいまだ菊池を吸収した大友氏の統括する地域であった。島津には手が出ない大友宗麟が、竜造寺の侵食には反発した。

 事態は、肥後北部を巡っての、大友対竜造寺の武力衝突になる。大友が日向で壊滅的な打撃を被ったとはいっても、それは遠征軍の話であった。領国へ戻れば、大族大友の力はいまだ侮れない。

 竜造寺の南下政策は、大友との戦いの中で停滞を余儀なくされた。

 相良義陽は、これにより最後の望みが絶たれることになった。竜造寺が大友に勝ったとしても、そのころにはもう、南肥なんひ三郡は島津に蹂躙じゅうりんされた後になろう。それでは、意味がなかった。

 義陽はついに、島津に膝を屈する決意を固めたのである。水俣開城は、相良が降伏の意思を示す手始めの行為であった。


 水俣城受け取りの島津の将は、朴河内城を夜襲で陥とした新納にいろ忠元ただもとであると通達された。実際の明け渡しを前にして、その忠元から使いが送られてきた。

「忠元、以前より溝口みぞぐち但馬たじま他七名に遺恨あり。城明け渡しに際し、この者ら八名を引き渡せ。さすれば、他の者にはいっさい手出しはさせず。安全なる立ち退きを約すものなり」

 これが、忠元が使わした使者の口上であった。水俣の守将深水宗方は、顔色一つ変えずに即答した。

「なれば、皆を出した後、ご所望の八名にそれがしも加わり、新納様をお迎え致そう。我ら枕を並べて討ち死に致すものなれは、槍を構えてご入城なされよとお伝えくだされ」

 降将のこの高言に、使者は憤然として帰っていった。次の口上を携えて戻ってきた使者の表情は、引きつっていた。

「新納様、先の口上をご撤回。水俣城の皆様は、お一人残らずお立ち退きくだされとのよし

 宗方は、初めてにっこりと笑った。

 宗方は水俣の城から立ち退いていく者たちの最後尾となり、全員の撤収を見届けてから悠然と駒を歩ませ始めた。いったんは遺恨を口にした忠元であったが、配下の兵らに厳しく命を発し、立ち退く者たちのうちに一人として傷付けられる者は出なかった。


          (二)


 この年の冬、相良義陽はついに正式に島津の軍門に降った。相良は島津麾下きか惣領そうりょう地頭に成り下がり、三郡のうち球磨だけを安堵あんどされた。

 残る八代と葦北は島津家に公収され、当主義久のすぐ下の弟、義弘の領地となった。これで相良家は、領土より海岸線を失い、内陸部へと押し込められることとなった。

 義陽は本拠としていた八代の鷹峰城を引き払い、かつて歴代の当主が住まいした球磨人吉城へと移った。

「拙者は老いましてございまする。もはや、気力も続きませぬ。老職の地位を返上し、隠居を致しとう存じます。どうか、お許しを」

 義陽の老職を長年勤め続けてきた東長兄が隠居を願い出たのは、領主補佐として相良家が今の苦境に陥ったことへの責任をとったのであろうが、確かに、実際の年より二十も老けたような消耗ぶりであった。

「長兄の跡には、深水宗方をてる」

 長兄の辞職を許した義陽は、その後に、近衛卿応接と水俣城防衛の文武両面で実績を残した男を引き上げた。

「この者、必ずやお家のお役に立つものと存じまする。それがしとともに、是非にもお使いいただきたく存じまする」

 登用の御礼挨拶に来た宗方からの申し出を受け、荗季しげすえ休矣きゅういの重臣抜擢ばってきも決めた。休矣が、勝軍斎より宗方に秘かに預け置かれた人物であると聞き、義陽は何を思ったであろうか。

「貴殿も島津の庇護下に入った上は、お子を預けてはいかがか――いや、無理強いするものではないが、義久公への忠義を示すには、格好の手立てかと存じましてな」

 島津から相良に、質を差し出すよう、婉曲えんきょくな表現ながら有無を言わせぬ要求が行われた。もう、相良家に抵抗するすべはない。

 二人いる義陽の息子のうち、長子を出すつもりで伺いを立てた相良に対し、島津の意向は、「両者共に差し出せ」というものであった。

 薩摩に送り出す前、義陽は二人の息子を共に元服させた。父自ら与えた偏諱へんきは、長男が「忠房ただふさ」、次男が「頼房よりふさ」というものであった。見聞した家臣たちは戸惑った。

――相良家代々の<長>も、父と自らに共通の<義>も入らぬ名乗りを、なぜご主君はお二人に選んだのであろうか。

 特に次男に選んだ名には、義滋の代に老職でありながら国政を壟断した上村頼興一族を想起させる<頼>の字を使っているのだ。

 これについて、義陽は周囲へ何の説明もしなかった。ただ淡々と儀式を執り行い、息子二人を薩摩へと送り出した。

 島津は、護送されてきた二人を、島津の本拠である鹿児島の御内みうち(島津本城)近辺には迎えず、薩肥国境の薩摩側にある出水いずみに館を新造して入れた。

 国境とはいえ、境を越えた北側の葦北も、今は島津直轄の支配地である。重要な客人を遇するに十分な体裁が整えられてはいたが、辺境の地に置かれたそれは、「相良が背けばいつでも斬るぞ」と、脅しつけるための獄舎であった。


 かつて相良の領地であった八代に、騒動が起こった。東山城守やましろのかみは、相良が統治していた時代から引き続いて八代統治の実務を担っていたが、配下である村山むらやま一族に襲撃され命を落とした。

 島津の新政策に難色を示した山城を除くため、新国主義弘が裏で使嗾しそうして行わせたことだった。ついで、山城の片腕であった執事頭の東為伯いはくも、八代諸氏に囲まれ、自刃する。背景は、山城のときと同じであった。

島津は自国において、君主の一方的な都合で各地の地頭を頻繁に動かしていた。次の戦の焦点となりそうな地の近くに戦上手の将をもっていき、もともとのその地の地頭は戦地からはずれた土地に移す、などといったことである。

このとき八代で行われたことも、主たる目的は、対阿蘇、対竜造寺戦争への備えであった。

 山城、為伯の後だけではなく、多くの地頭が薩摩、大隅より移殖され、もといた者たちは見知らぬ土地へと追いやられた。残ったのは、島津の顔色を伺い迎合することを憶えた者たちばかりである。八代の街道には、嘆きの声をあげながら荷車を押す士分とその家族の姿がいくつも連なった。

 こうした話が耳に入ってきても、今の義陽には何もしてやることはできない。八代は、もう己の支配する地ではないのだから。島津に臣従する身には、その命に従う者を黙って見ているほかはなかった。


 義陽は静かに日々を送り、誰に対しても、激する様子はいっさい見せなかった。

 ――神妙に身を慎んでいる。

 もし島津の間者が入り込んだとすれば、そう報告していたものと思われる。

穏やかな、しかし全く笑顔を見せない主君を、側に仕える近侍の東左京進さきょうのしんは自責の思いで見つめていた。

 今のこの状況は、勝軍斎ひとり生きていたところで何ら変わらなかったであろう。しかし、そうであっても己の罪が消えるわけではない。

 少なくとも、あの修験者がここにおれば、ご主君の表情はもう少し明るく、豊かなものであったろうことは、間違いないと思われた。

 主人に見えないところで、左京進は血の出るほどに唇をかんだ。

――俺は結局、島津の諜者ちょうじゃに乗せられ、利用されたのか。

 あの尼が島津とつながっていることは、もってきた話から当然判っていたことだった。それでも、島津の得になるよりご主君のためになるに違いないとの確信があったから、話に乗った。己で書いた筋書きを基に、尼と島津を動かしていたつもりであったが、実はもう、既に相手のたなごころの内であったのか……。

 簗瀬やなせの嫌われ者に無理矢理印を押させた口書を手渡されて以降、あの尼の姿を見かけたことはなくなった。

――ご主君と共に球磨に戻ったからには、二度と会うことはあるまい。

 それでも、いま一度つらを付き合せたい。引き据えて、己が一体何をさせられたのか、あの尼の口から聞かずにはおられない。

 聞いたからといって、今さらどうなるものでもないのは判っている。それでも聞けば、これより己のなさねばならぬことが、見えてくるような気がしてならなかった。


 義陽は、周りが見るほど勝軍斎のことを惜しんではいなかった。むしろ、あの修験者がそばにいたころの自分がどうかしていたのだと、今では思っている。

 今の己自身の境遇にも、相良の処遇をどうすべきか、いまだ島津が家中で散々に論議していることにも、心は動かない。それがなぜなのか、義陽は、薩摩に送り出すために改めて息子二人の顔を眺めて、初めて気が付いた。

 ――己が相良の家を継いだことが、既に間違っていたのだ。

 これを次代に引き継ぐことは、間違った状況に手を入れないまま、先へと引き伸ばしていくだけにしか過ぎない。

 ただ、正統な血筋に返したくても、もうその系統は絶たれてしまっていた。己の、実の父であろう上村頼興によってだ。

 ――ならば、この球磨も、誰が治めてもよいではないか。それが島津であっても、全く構うことはなかろう。

 元服させた二人の息子の偏諱に<長>も<義>も使わなかったのは、だから義陽にすれば当然のことである。人として、己が息子に愛情をもてないとは思いたくない。

 しかし、このように育った自分が、子を愛するすべを本当に知っているのか、その確信も持てなかった。元服させてから送り出したことは、義陽が己の心の内を確認する作業でもあったのだが、やってみて判ったことは何もなかった。

 今はただ、その日その日を送っている。そうしていれば、次に何を為すのかは、こちらが何もせずとも向こうからやってくる。ただそれを待っていればよかった。


 島津より義陽に宛てて、出陣の通達が来た。

「先兵となりて、阿蘇を討て」。

 修辞の文言を除けば、書かれていることはそれだけだった。

 しばらく瞑目めいもくして考えに沈んだ義陽は、左京進を呼ぶと、出陣の触れを出すように告げた。

 目指す相手は、甲斐宗運そううん。阿蘇のお家を支える脊柱せきちゅうであり、義陽にとっては、他家でもっとも信頼し、交誼のあつい部将であった。


          (三)


 友好関係にあった阿蘇と相良が何かの連絡を取り合おうというとき、阿蘇からの使者は常に甲斐家が勤めてきた。重要な場面では、阿蘇の老職である甲斐家当主が、わざわざ自分で動くこともたびたびあった。

 甲斐家当主来訪の際には、相良では先代義滋よししげのころより、老職ではなく、領主自身が対応した。

 家中よりは、格をたがえているとの非難が上がったこともあるが、相良二代の当主はまったく意に介すことがなかった。義滋も義陽も、甲斐の当主の人柄を好んだからである。相良家と甲斐家には、領主と、隣領の領主の老職という付き合いではなく、対等の友誼ゆうぎが成り立っていたのだ。

 相良義陽と甲斐宗運は、不戦協力を誓い合う神盟しんめいを立てていた。島津からの命を受けた義陽は白木しらき神社に参内さんだいし、その域内で宗運と取り交わした誓紙せいしを焼いた。

 戦に先立ち、相良から甲斐に使者が送られた。宣戦の布告である。

「交誼を断ち、軍を発す」

 相手の虚を衝き奇襲することが何ら卑怯と思われなくなったこの時代に、義陽は堂々と、起請文きしょうもんの破棄と自軍の侵攻開始を告げさせた。

「馬鹿な。まさかに」

 甲斐宗運は、それでも、信じなかったという。宗運が腰を上げたのは、物見が相良軍の阿蘇侵入を報告してからだった。

 たとえ信ぜられずとも、物見を配した。配下に触れを出し、戦の支度をさせた。

 宗運は、義陽の友であると同時に、阿蘇の老職であった。

 宗運は阿蘇山へ使いを出し、神池しんちに義陽との誓紙を沈めさせた。己は千光寺せんこうじ参籠さんろうして戦勝祈願を行う。後は、躊躇わなかった。軍をまとめると、真っ直ぐに進軍を開始した。

 ――決戦の地へ。

 日付と場所は義陽から申し入れがあり、宗運は応諾していた。これよりは、互いに正々堂々と戦うのみであった。


 義陽は、出陣の儀式も白木社で行っている。自ら作った祝辞を巫者ふしゃである尾形おがた惟勝これかつに読ませ、神前に祈った。このとき、相良の当主は「己に死を与えられんこと」を祈ったという。

 礼拝を済ませ、社殿より下がろうとした義陽の目に白い影が映った。目を凝らしてみれば、はたを織る少女の姿であった。少女は機織り具に挟まれ、カッと血を吐いたところで忽然こつぜんと掻き消えた。

 社殿の外に整列する将兵を除けば、あたりには人影も少なく、ただ日の光がしらじらと照らしているばかりであった。

 義陽は、何事もなかったように拝殿を降り、将兵の前に立った。かれてきた馬にまたがると、出立しゅったつの合図のさいを振った。

 軍勢に号令が掛かる。先陣から少しずつ部隊が動き出したところで、騒ぎが起こった。大将の義陽が馬上で振り返ると、急に吹き出した風に軍旗があおられて、社殿に植えられたくすのきの枝に巻きついていた。

 旗持ちの兵が旗竿を振り動かし、なんとかはずそうとするがはずれない。仲間が手伝い、木に登って取り払おうとする者もあったが、枝と複雑に絡んでしまったのか、どうしても離すことはできなかった。

 出陣の機先を遅らされ、義陽は苛立った。隣で騎乗する左京進を呼びつけた。

「構わぬ。強く引かせよ」

「は、しかし……」

 命ぜられた東左京進は、門出かどでで軍旗に傷がつくことを畏れてためらった。

「やらせよ」

 義陽の硬い声に、ようやく騒ぎのもとへ向かった左京進は、旗持ちに持ちにその命を伝えた。

 最初は遠慮がちに、やがてだんだんと強く、旗が引かれた。突如、大きな音が鳴り響いた。軍旗の破れる音であった。

 軍勢の中より、悲鳴ともうめきとも聞こえる声が上がった。旗布はほとんど枝に残り、旗竿はたざおはただの長い棒になってしまったように見えた。

 そこまで見た義陽は、何もいわずに向き直り、馬を歩ませ始めた。

 物頭ものがしらどもが慌てて、再出立の声をあげる。相良の軍勢は、そうしてようやく決戦の地へと動き出した。

 辺りには、旗を楠の枝に巻きつけた風がやむことなく吹き荒れ、晴天の景色の中で、狂女のような哄笑を撒き散らし続けていた。


          (四)


 球磨の山に囲まれたある森の中に、忘れ去られ、もうほとんど朽ちてしまっている古い堂宇があった。

 堂宇に続く道はすでになく、鬱蒼うっそうとした木々と下生したばえに覆い隠されている。建物そのものも、崩れ落ちて草木にうずもれ、もう元が何であったか推量もつかぬほどの有り様だった。

 その、朽ちた板切れと樹木と雑草の塊の中から、何かの音が漏れ出していた。

 聞く者とてないそれは、人の笑い声であった。こみ上げてくる喜びを押さえきれない笑いは、背筋を凍らせるほどの狂気に満ちていた。

「嬉しや、嬉しや。ついに、わが願いの叶う日がきたぞ。この懐かしき社にて、そを祝うことになろうとは、何たる身の幸運よ。

 相良よ、滅びよ。球磨人吉の者どもも、同じ運命じゃ。まずは、義陽。そして、その足軽ども――そうじゃ、お子らを忘れてはならぬのう」

 堂宇であった廃屋の中から漏れ出す笑いは、いつまでも続いた。そこからは、山の獣も虫も怖気をふるって寄りつかぬほどの、強い妖気が漂い出していた。


 相良義陽の第一子、忠房の好みは闘牛である。父との触れ合いをあまり知らぬ相良当主の長子は、牛と牛がぶつかり合う勇壮さに気持ちのり所を求めた。八代にいたころより、忠房は闘牛を頻繁にもよおさせ、牛の勝ち負けを見ては喜んだ。

 相良の若き嫡子を慰めるために、近隣より一頭のこうしが牽かれてきた。犢といっても、もう成獣とかわらないほどの体格にまで育っている。

「これは立派な」

 忠房は、自分の目の前まで牽かれてきた黒々とした塊に歓声を上げた。

「先々は大関にもなれるのではと、期待されておる犢にござります」

 鼻面に結んだ手綱を手にした牛飼いが、うやうやしい態度で言上した。

「頼房にも見せてやりたいものじゃ」

 近習を振り返りながら、義陽の長男は望みを口にした。弟の頼房は、今日はやまいとて床に臥したままだった。

「お元気になられましたら、ご覧いただきましょう」

 近習は、穏やかな表情を崩さずに言った。頼房がただならぬ症状にあることは知っていたが、まだ幼い兄にそんなことを伝えて心配させる必要はない。

 牛飼いが、忠房の気持ちを引き立てようと口を出した。

「若様。これは、大関にもなれそうなほどの力持ちながら、気は優しく大人しゅうございます。どうぞ、お近くでご覧くだされませ」

 牛飼いは、忠房が八代の鷹峰城にいたころからご用を命じている熟達者である。近習も、牛飼いの誘いに異論を差し挟むことはなかった。

 廊下のきざはしを下り、き物を引っ掛けた忠房は、恐れることなく自分よりも大きな犢に近づいた。感嘆の声をあげながら、抱きつき、顔を寄せ、ついには背に跨ろうとする。

 周囲の者も、皆が微笑みながら若き主の楽しむさまを眺めていた。

 犢の様子の急激な変化に、気づいた者が何人いたであろうか。いずれにせよ、ハッとしたときにはもう遅かった。

 黒い獣は、前に回ってきた相良の長子を角にかけて宙に舞い上がらせ、背後に落ちたところを後ろ足で蹴り上げ、さらに振り向いてのしかかるように踏みつけると、最後にもう一度角を突き立てた。

 牛を抑えるような暇などないほど、一瞬の出来事だった。

 周囲にいた者どもは凍りついた。ようやく動き出す者が現われたのは、倒れて動かぬ忠房の躰より犢が離れた後であった。

「若様っ」

「忠房様っ」

 一瞬にして、館の庭は騒然となった。

 最初に角にかけられて地に落ちたところで、忠房はもう糸の切れた傀儡くぐつ(操り人形)のように見えた。牛飼いが犢を抑えて引き離し、皆が駆け寄ったときには、すでに息はなかった。

 館の中庭から引き立てられていく犢の眼は、何者かに怯え、狂気にいろどられていた。口からは泡を吹き、戻された牛舎の中で、己が角にかけた者にじゅんずるかのように死んだ。

 昼日中であったにもかかわらず、松虫が、相良家嫡男のあっけない最期を嗤うように鳴いていた。

 中庭の騒ぎにも気づかぬまま、頼房の病臥する部屋より出てきた薬師は深刻な顔をしていた。義陽の次男の病は、疱瘡ほうそうであるように思われた。

 この時代の疱瘡は不治の病であり、若年者が罹患りかんした場合の死亡率は極めて高い。救かるかどうかは、本人の運と体力次第であった。

 その夜、頼房は高熱を発し、人事不省じんじふせいに陥った。兄の死を知らぬままの呻吟しんぎんである。全く予断を許さぬ重篤な病状だった。

 そこへ、嫡男の忠房宛に、父の義陽より文が届いた。出陣の直前にしたためられたものである。文は、「義陽が忠房に家督を譲る」と告げていたが、読むべき人は、もうこの世にはいなかった。

 虫どもの哄笑は、夜になって一段と高まった。まるで、野辺のべ送りをする坊主どもの読経の声に聞こえぬでもなかった。


 事態の余りにも急な展開に、忠房の訃報ふほうも頼房危篤の報せも、義陽がおもむいた戦場には届かなかった。藤原南家ふじわらなんけの流れを汲むと自称する武家の名門、相良氏の命運は、こうして今まさに尽きようとしていた。












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