(約2800文字) その四 fruits 【終】

「まったく、とんだアマちゃんだぜ。せっかく勝てた戦いを、自分から捨てるなんてよお」

「なんで……どうして……」

 血が流れる足を押さえ床を転がる少年が、信じられないといった表情で口にする。少年の言葉に対して、それこそ信じられないといったように、男が言った。

「なんで? どうして? そんなの最初から言ってるじゃねえか⁉ オレは絶対に天使になるんだよ! そのためならなんだってする! 誰かを裏切ることなんてわけはねえ! 親や恋人や親友だって殺してみせる! テメエをダマすくらい朝メシ前だぜ!」

「そんな……そんな……せっかく分かり合えたと思っていたのに……」

 心の底からクダラナイというように、ペッと、男が床にツバを吐いた。

「分かり合えた? 正真正銘のバカだなテメエ。そんなもん、天使になるためにクソの役にも立ちゃしねえじゃねえか」

 男が言い放った冷徹な言葉に、少年は首を落とし、ウッウッ……と悲し気なすすり泣きをする。だが男に容赦をする気などまったくない。少年の元までたどり着いて、ニヤリと悪魔的な笑みを浮かべる。

「その足の傷じゃ逃げられねえよなあ。天井は開いてる。また毒ガスを出したとしても、もうムダだぜえ」

 ナイフを持つ手を、男が高く掲げた。

「せめてもの情けだ。一撃でその脳天にブッ刺して楽にしてやるぜ。切れ味の悪い安物のナイフだが、それなら苦しまずに死ねるだろうしなあ。ま、痛みで泣き叫ばれてもウルセエだけだからな」

 雲間から差した太陽光によって、ナイフがギラリと光る。邪悪な笑みをたたえた男が、すべての力を切っ先に込めて、そのナイフを振り下ろした。

「死ねエエエエ!!!!」

 ナイフが少年へと迫る。あとほんの数秒で彼の脳天を貫こうという、その刹那、心の底から悲しそうに、こんなことはしたくなかったというように、少年がぼそりとつぶやいた。

「成長するんだ、サクランボ……!」

 ぴょこん。先ほど少年が足元に捨てたサクランボの種から、小さな芽が出た。その芽は瞬く間に――それこそナイフが少年を貫くよりも速く、時間にして一秒にも満たない一瞬で――立派な樹木へと成長し、その勢いによって、直上に立っていた男の身体を空高く押し上げた。

「ナ、ニイイイイイイイイ……………………ッ!!!!!!!!」

 倉庫の天井を飛び越えて、男の身体が地面へと落下する。天使候補生として鍛え抜いた身体と、落下の直前にとっさにした受け身によって、打撲による全身の痛みこそあったが、男はなんとか生きていた。すぐさま自分がいる場所を確認する。

 戦場となるのは少年が通ったドアが現れた場所から半径1キロメートルの範囲内だ。つまるところ彼らが戦っていた倉庫内が戦場ということになる。開いた天井から倉庫の外へと飛び出した男がいまいるのは、その半径1キロメートルの戦場から、目算して、およそ50メートルほど離れた場所だった。

 戦場範囲から外部に出た場合のタイムリミットは、10秒。その時間内に戦場に、倉庫内に、戻れなければ、問答無用で敗北してしまう。

 ……まだ負けてない……! まだ大丈夫だ……!

 痛みなんか構ってやれるか! 男はすぐさま立ち上がり、倉庫の入り口へと全速力で駆けだした。これくらいの距離、オレなら7秒もあれば充分だ!

 倉庫の入り口まで残り数メートル。まさにいまたどり着こうとしたその瞬間、足首に何かが絡みつき、男は地面へと転がった。見ると、それは何かしらの植物のツルや枝だった。

 それらのツルや枝は地面から生えているのではない。いや、地面と男の足首を繋いでいるという点では同じだが、『地面から生えたそれらに足を取られた』のではなく、『足首から伸びたツルや枝が地面へと根を下ろしている』のだ。

 切迫した状況だったため、男はこのことに気が付いてはいない。知っているのは少年だけだ。成長したサクランボの樹木で男を押し上げる際に、その足首に樹木の破片をまとわりつかせ、この土壇場でツルや枝へと作り変えたのだ。

 タイムリミットまで、残り3秒。

 足首にまとわりついている邪魔なツルや枝を払いのけようとするが、それらは強固に男の足と地面を繋いでいて、離れない。そうだ! ナイフだ! だがさっきまで持っていたナイフは、上空へと飛ばされた衝撃によって手放していて、いまどこにあるのか分からない。

 タイムリミットまで、残り2秒。

 クソがあ! ナイフだ! ナイフはどこにある⁉ 周囲を見回した男はそのとき思い出した。懐にもう一本、ナイフがあるじゃねえか! 急いでそのナイフを取り出して、足首に絡みつく植物たちを切り刻んでいく。すべて切り裂いて、男はすぐさま立ち上がった。

 タイムリミットまで、残り1秒。

 残り数メートルの倉庫の入り口まで、男は飛びつくように駆け出した。その入り口には足と腕から血を流し、悲愴の表情を浮かべた少年が、事の成り行きを見守っていた。

 ……とことんバカなやつだ! 戦場に戻ると同時に、テメエをブチ殺してやるぜ!

 入り口にたたずむ少年を瞬時に殺せるように、疾走しながら、男が手にしたナイフを真っすぐに伸ばした。

「殺してやるぜエエエエ…………ッッッッ!!!!」

 そのとき、男は見た。視界の端、地面に落ちている小さな物体を。それはナイフ。上空に押し上げられたときに落としてしまったナイフ。それはここに落ちていたのだ。

 ――倉庫の入り口の真正面に――

「……俺を……守ってくれ……フルーツたち……」

 悲しみに満ちた表情をうつむかせて、小さく、少年はつぶやいた。

 地面に落ちていたナイフが淡く光り出し、次の瞬間、まるでその場所だけジャングルになったように、数多の果物を実らせた多種多様な樹木群が出現していた。男が突き出していたナイフの切っ先は、男の進攻を妨げた樹木群の一本に突き刺さった。

 ゼロ。

 タイムリミット。オーバー。


 勝敗は決した。


 戦いに勝利したはずなのに、少年の心に喜びは湧き上がってこず、代わりに湧いてくるのは、対戦相手に裏切られたという絶望、最後の最後まで対戦相手と分かり合えなかったという悲しみだった。

 開いた天井から差し込んでいた暖かな太陽の光は、いつの間にか分厚い雲に閉ざされ、届かなくなっていた。

 暗色に満たされる倉庫の、入り口前をふさぐ樹木に額を押し付ける。

 ……ざッけんなッ! こんなのオレは認めねえぞッ! 出てきやがれクソガキいッ! ブッ殺してやるッ! すでに決まってしまった勝敗の結果に男が怒声をわめき散らすのが、樹木の幹にナイフを何度も突き立てる音が、どこか遠くから聞こえてくるような錯覚を感じていた。

 樹木に額を押し付けながら、少年はただただ涙を流し続けていた。

 そして少年の身体は淡い光に包まれ、この戦いによって負ったすべての傷を完全に回復して、元いた神聖世界へと帰還していった。




 ――少年と戦った天使候補生の男がその後どのような顛末てんまつを迎えたのか、少年は知らない――




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