シンデレラのアイシャドウ


 何日探しても『老人と海』は見つからないままでいる。溜息が出そうなのをこらえてその後に読もうと思っていた『アルジャーノンに花束を』を手に取る。貸出カウンターへ向かえば、ちょうどワダさんが本を借りているところだった。青と淡い桜色の本を先生から受け取ったワダさんは、私の視線に気づいたのか、「これ、知ってます?」と私に話しかけてきた。

「いや、みたことがある表紙な気がして」

 嘘ではなかった。確かにその表紙も、題名も、なぜか知っている気がした。気のせいかもしれないけれど。


「先生、ついに同じ本好きな人に出会えましたよ、ついに」

 溢れるみたいにニコニコしたワダさんが嬉しそうに先生に話しかけた。声が弾んでいるようで、少しだけ申し訳なかった。ワダさんが手に持っているその本が、本当に私が知っている本なのかも、その本を私が好きだったかも私はわからないままだった。そんな私のことを知らないまま、先生も良かったねと笑う。

「ワダさんが敬語使ってるのちょっとだけ不思議な感じするんだけど」

「そんなことはないですって。先生ひどい」

 軽口を叩きあう二人を眺めていると、ワダさんは突然こっちを向いて右手を差し出した。

「和田満知です、よかったら仲良くしてください」

 また、鳶が私を捕まえる。目が離せないのはその光彩のせいなのか、それとも私がこの瞳の奥を知りたいからなのか、自分でもわからなくなってしまった。差し出された手をとったのは誰?

「横山柯怜です、こちらこそ。タメだから敬語はいらないです」

「わかった。ねぇ、カレンっていいね、似合ってる」


 サクサクと進んでいく会話にどこかでついていけていない気がした。なのにカウンターから少し離れた場所に移ってまで私は彼女と話そうとしている。

 私と彼女の呼ぶカレンはもう分離した存在みたいだった。この前はごめんね、けがはしなかった?そう謝ったのは私で、「ミチって呼んでもいい?」と聞いたのはカレンなんだと思う。私はもうすっかり彼女に侵食されているみたいで、それもどこかでいいななんて思っている。

「ほら、六限始まるよ。帰らないと。」

 手を叩いて私たちを教室へ向かわせようとする先生が牧羊犬みたいに見えた。生徒がバタバタと図書室の扉から出ていく。私たちは羊?そう思うと笑いそうになる。時計を見れば本当にチャイムが鳴る三分前を切っていて、慌てて図書室を出た。ミチは早歩きのまま階段を降りていく。

「さっきの先生、ボーダーコリーみたいだったね」

 笑いながら駆け足になっていくミチを追いかけながら私も笑ってしまった。

 私もさっき同じこと思ってた、そう言いたかったけれど、それを言う前に教室に着いてしまった。一つ奥の4組の扉を開くミチがよく響く声で「またね」と手を振った。

 またねと返す前にミチは教室に入っていく。

 変だ。私はワダミチと仲良くしようなんて思ってもいなかったのに、彼女からの言葉に反応したいと思っている。ぐいぐいと私の中を知ろうとするミチを、どこかで許してしまいそうになった。それが私にとって最悪の選択だとしても。


 戻ってきた教室はいつも通り騒がしくて、教科書をロッカーから出しているとチャイムが鳴った。社会科の陣川先生が毎回遅刻してくるからか、まだ机に突っ伏して寝ている子や仲のいい子のところで喋っている子もいる。

 席について借りてきた『アルジャーノンに花束を』の表紙を開いた。少し古いせいか焼けた紙の上の文字は博物館に飾ってある読めない消えてしまった言語みたいだった。私よりも長生きそうなその本を読む前に先生がやって来てしまって、仕方なく本を中に仕舞った。


 陣川先生の少しだけつまらない授業を聞き流しながら、窓の外から見える車と走行音に耳を澄ませる。風が吹いて木の葉の擦れる音もした。体育館からは楽しそうな声が響いてくる。朝は雨が降っていたのに、嘘みたいな青空が広がっていて、ジェットコースターみたいな1日だと思った。

 ふと、まるでミチのためだけにずっと前から在るみたいに淡く発色していたアイシャドウのことを思い出す。

 近くで見ないとわからないくらいに薄く色付いた桜色は、細かく入っているラメが瞬きの度にほんの少し、きらめいていた。天頂辺りで光る太陽が窓の外のアスファルトに出来た水溜まりの肌を反射させるのが見えて、カーテンを静かに閉めた。


 あの色はひどくミチに似合っていた。シンデレラにガラスの靴があったように、ぴったりと。

世界はまるでミチのためにあるのだと言いたそうな桜色が、なぜか無性に腹立たしかった。

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