そこはとなく、漂うにおい

永瀬文人

第1話   そこはとなく、漂うにおい

これは一体、どういうこと?

麻由はショルダーバッグの紐を握りしめ、目を見開いたまま立ち尽くす。

朝の通勤電車には、およそ似つかわしくない光景だ。吊り革に掴まった人々が、一斉に手や袖やハンカチで口元を押さえた。スーツ姿で埋まった座席から、唸るような声が噴き出す。

「何て、においだ」

「苦しい。鼻が痛くて、鼻の奥が、壊れそうだ」

車両中の乗客が、てんでにのたうち廻っている。

手持ち無沙汰で、麻由は辺りを見廻し、大きく息を吸い込んだ。

苦しい? どういう訳で、一斉に全員が。鼻が壊れそう? どうしてまた、急に。におい? ……何も、しないではないか。

音をたて、大きく揺れて電車が停まった。

「安全確認のため、停車いたします。只今、車内に不審なにおいが……」

麻由の隣に立っていた男が窓を開けようとし、すぐさま周りの乗客に押さえつけられた。

「開けるな。においは、外から入って来るぞ」

「いいや、違う、においは中で湧いて、こもっているんだ。閉めきったままとは、たまらない。開けろ」

「やめろ、殺す気か」

必死の形相で押し問答をするうち、もみ合う彼らの手が吊り広告にぶつかった。そこに連なっている派手なゴシック体の文字に、麻由は見入る。

……異臭が日本列島各地を襲う!

……続々報告! におい発生の恐怖

……次はあなたの街? におい来襲!

目の前の光景が、見出しに続く週刊誌の頁のようだ。

やがて、咳き込んでいた人は目尻の涙を拭い、鼻をつまんでいた人は身を起こし、麻由の隣の男は冷静さを取り戻した。

電車が、再び動き出した。


「においは原因不明のままですって。相変わらず」

社員食堂の大型テレビの周りに、人の輪が出来ている。そばを通る麻由の腕を、誰かが引っ張った。

「麻由、今朝の電車で遭ったんだって? 例のにおい事件。ついに身近でも起きるなんてね」

「だから、遅刻だったのか。どうよ、具合は?」

興味津々、怖々心配、生の体験をした人間が居ることに気づいた社員は、テレビそっちのけになった。

「それで、どんなにおいだった?」

五人、六人と、麻由の周りに人垣が出来始める。

「俺もあのにおいに取り巻かれたことがあるよ。先週、旅行先でさ。全く、あんなにひどいにおいはないよな」

麻由の正面に立った男が言い、同意を求めるような視線を寄越す。

あんなに、ひどい、におい? 麻由は答えに窮した。

一群は、連鎖反応のように頷いた。

「そりゃ、災難だ。他人事じゃないよ」

「そう、今、ここでも起きるかも」

「わたし、マスクを買いました。いつも持ち歩いているんです」

「え、何処に売っていたの? どの店も品切れよ」

人波にもまれ、麻由は曖昧な顔で困惑している。


アパートの部屋に帰ってまもなく、電話が鳴った。実家の母だ。

「ニュースを見て、びっくりしたわよ。麻由の使っている通勤電車と同じ路線でしょう? 気をつけなさいね、危ないから」

また、においか。何を、どう気をつけると言うのだろう。

「麻由、聞こえている? ……あなた、まさか、今朝、乗り合わせてはいないわよね」

「ううん」

母の声のトーンがはね上がった。

「乗っていたの! 大丈夫なの、あなたっ」

麻由は深呼吸した。台所のコンロにかけた味噌汁の薫りが鼻腔をくすぐる。

 受話器の向こうの、さらに遠くから、何だ、どうしたんだ、麻由からか? という声が聞こえる。父だ。

意を決し、麻由は言う。

「お母さん。それは、どんなにおいなの?」

息を呑むような沈黙があり、それからややあって、大音量の言葉が受話器から吐き出された。

「冗談を言っている場合じゃないでしょう! においを嗅いだなら、とにかく病院へ行きなさい! 明日の朝、一番で!」

見幕に圧され、麻由は上の空で電話を切った。

日本全国をじわじわと侵略するにおいの謎? 住民はスーパーへ殺到、酸素ボンベの異常な売れ行き? 被害者らの体験談「形容しがたく、たとえようもなく、何とも言いようのない、ひどいにおい」……?

麻由は苛々と、見出しの踊る新聞を床に叩きつけた。

何を騒いでいる。ふざけるにも程がある。においなど、一体、何処にあると言うのだ。

夕飯の薫りは素晴らしい。鯵の焼ける香ばしさに腹が鳴るくらいに。

そう、麻由の鼻は極めて正常、においの嗅ぎ分けなど朝飯前だ。

それなら、一体、何故?

記事の「におい」が、日本を闊歩している。姿は見えず、あやふやで、ただ人々の口から口へと確実に語られて、形を成していく。

漂ってきた焦げ臭さに、麻由は我に返った。台所へ飛び込むと、既に鯵が黒焦げだった。おかずが台無しだ。

ため息を漏らし、麻由は財布を手にコンビニを目指して外へ出た。アパートの階段を一階まで降り切ったところで、大声が聞こえた。

「あ、居た! あそこだ!」

カメラやマイクを抱えた連中が次々に駆け寄って来て、麻由を取り囲んだ。目の眩むようなライトに容赦なく照らされ、麻由はそこから抜け出す気力も萎えた。

「においの被害に遭われたとの情報を頂いて、やって参りました。どうですか、その後の体調は?」

「病院の検査は受けられました?」

「電車の中で、においがした時の様子を詳しく聞かせて下さい」

立て続けにフラッシュを浴び、麻由は朦朧とした。

最前列の男が言った。

「それで、どんなにおいでしたか?」

人々の、目。そばだてる、耳。熱気に包囲され、麻由はうわ言のように呟いていた。

「それは……ひどいにおいです。全く、不審で、形容しがたくて、たとえようのない、何とも言い難い……」

どよめきが起こり、彼らは満足げに帰って行った。

あとには、麻由だけが取り残された。

今のがきっと、また真新しい記事となり、明日の日本を駆け巡るのだ。

とっくに陽の落ちた道路。そこにある筈の麻由の影も判別できない。ただひたすら呆然と、麻由は佇んでいる。


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そこはとなく、漂うにおい 永瀬文人 @amiffy

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