第8.5話 信頼に応えるには

 一頻ひとしきり話した後、ザイルはゼイラルを連れて、ラテルティアの部屋から去って行った。二人の背中を見送り、ラテルティアはソファにもう一度深く身を沈める。確かに、出会った頃からその粗野な口調には驚いたものだ。ウェグラル大陸一の大国の皇子だというのに、と。

 しかし社交の場においては、それに反比例するように彼自身は基本的に礼儀正しく、上の立場の者ほど自らに対する非礼に嫌な顔をする者も多い中、彼は周囲のそういった態度にもしばしば目を瞑ることが出来る人だった。それは、彼自身の大らかな性格がゆえかと考えていたけれど。話を聞いた今では、その稀有な育ちがあったからなのだろう理解できる。城下の者に、王侯貴族の礼儀など、最初から通用しないのだから。

 国家機密とされていると彼は言っていたけれど、もしラテルティアが誤って口にしたとしても、誰も信じないはずだ。フィフラル帝国の第二皇子が、城下の娼館で二年の時を過ごしていた、なんてこと。


 城から滅多に出ることのない、皇族の八歳の少年が、自分のことを誰も知らないような場所で二年も……。


 もし自分だったなら、耐えられただろうか。それどころか、自分の母を殺した者たちを捕えるための情報を手に入れようとする、なんて。そこまで考えられただろうか。


「……神童、というのは、ただ頭が良いだけでは得られない称号なのでしょうね……。本当に、奇跡ですわ……」


 ぼそりと呟いたラテルティアの手は、僅かに震えていた。

 ザイルはあの後、いくつかのことをラテルティアに教えてくれた。一つが、前々から彼が教えてくれると言っていた、彼を皇太子にしようとする皇帝クィレルの考えである。

 それについては、ザイルの母、ルミネアの死の真相を知ったラテルティアもまた、薄々勘付いてはいた。そして、おそらくはその通りだと、ザイルは言っていた。

 曰く、贖罪のため。

 ルミネアとザイル、そして弟のダリスに対する、後悔の形だったのだろう、と。


 ……皇帝でありながら、正式な夫でありながら、ルミネア妃を護れなかったという負い目。せめてもの償いであり、国母としてルミネア妃の名を残したかったのでしょう。今でも、正妃の座を空位にしたままであるように。


 ザイルを見ていれば分かる。この国の皇族は、とても愛情深いのだ。国民を含め、懐の内に入れた者を、大事に大事に慈しむ性質を持っている。だからこそ、護れなかったことが、悔しく、悲しかったのだろうと思う。ルミネア自身の考えに背いてでも、ザイルを皇帝とし、ルミネアの存在を残そうと考えるほどに。

 そしてそれを否定したのが、ザイルであり、ダリスだった。ザイルは自身が器ではないと理性的に考え、ダリスは愛するルミネアの意志を尊重した。そしてそれをクィレルが理解したからこそ、皇太子になったのはザイルの兄、エリルなのである。ルミネアの、望み通りに。


 ……お会いしてみたかった。ザイル様のお母様。話に聞くだけでも、フィフラル帝国の正妃に相応しい強さと、知性を兼ね揃えていた方。今でもなお、国民に、そして皇族の方々に愛されている方。


 彼女が息子の婚約者となった自分に会ったら、どんな反応をしただろうか。肖像画でしか顔も知らない相手を思いながら、ラテルティアは僅かにその青い目を細めた。

 ザイルに教えて貰ったもう一つの事柄が、ゼイラルへの連絡の取り方である。彼はザイルにのみ従う情報屋。調べたいことがある時は、自分に頼むと良いと、ゼイラル自身も請け合ってくれた。

 ゼイラルのことは、エリルも知っているけれど、情報の開示を認められたのは、ザイルの他にラテルティアだけなのだという。もちろん、エリルはエリルで別の情報元を知っているから必要がない、ということなのだろうけれど。それでも、ザイルの信頼の証のように感じて、少しだけ擽ったかった。


「ザイル様の信頼を裏切らないように、わたくしも役に立ってみせますわ」


 ぎゅっと拳を握りこんで、ラテルティアは一人、そう呟いた。手始めに、自分が今受け持っていることから始めなければならない。つまり、エリルの婚約者の振り落としを目的とした茶会である。

 本当の目的は別にあるのだと、それもまた、先程教えて貰ったばかりだが。


 あくまでもわたくしの仕事は、メラルニア嬢と彼女の父、キルナリス公爵の目をこちらに向けること。あの方々も、わたくしの開く茶会がただの茶会ではないとお気付きのようですし、その点では、問題なく進んでいると思うのですが。


 いつもならば、社交界シーズンが終わると同時に領地にあるカントリーハウスへと去っているというキルナリス公爵が、メラルニアと共にタウンハウスに残っているのがその証拠であろう。公爵位、侯爵位、伯爵位という高位貴族の令嬢ばかりを集めた、皇宮で開かれる第二皇子の婚約者主催の茶会。しかも皇帝自らの声かけで、稀に皇太子も姿を見せるときている。勘付かない方がおかしい、という程に、分かりやすい状態が作られているのだから。目を惹きつけるという点では、上手くいっていると思う。だからこの調子で、次の茶会に望むことがラテルティアに課された仕事なわけだが。


「……少し、気になりますのよね」


 ぽつりと、ラテルティアは机の上に広げられたままの資料を眺めながら呟く。別に何をしなければならないわけでもないのだけれど。

 一つだけ、茶会を始めた当初から気になっていることがあるのだ。それは、社交界に身を置く令嬢だからこそ、気付くこと。

 ほんの僅かな、派閥の綻び。


「シルビア。少しお願いがありますの」


 ザイルたちが出て行った後、再び背後に控えていた侍女にラテルティアがそう声をかける。幼い頃から自分の傍にいてくれた、信頼できる年上の侍女。

 シルビアはすっとラテルティアの傍まで歩み寄ると、「何なりと、ラティ様」と、他者が周囲にいる時よりも少しだけ砕けた口調で応えた。


「わたくしが今から言う令嬢たちのご家族や領地、経済状態について、少し調べてくださいませ」


 今まで通り、軽い調子でそう願い出る。ラティティリスにいた頃も、こうして彼女に調べ物を頼んでいたから。

 しかしこれまでと違って、シルビアは困ったように髪と同じ茶色の眉を下げる。「ラティ様、申し訳ないのですが……」と、彼女はその表情通りの困ったような声音で呟いた。


「まだこの国に来てそれほど経っておりませんため、個々人の詳細な情報を集めるには至っておりません。もちろん、誰もが知っている程度の情報であれば、まとめることも可能ですが」


 「如何いたしましょう?」と、続けたシルビアに、そういえばとラテルティアの方が思う。考えてみれば、まだラテルティアたちがこのフィフラル帝国に来てふた月半程度しか経っていないのである。その内のひと月半程が、ラティティリス王国からの行程。そう考えると、この国で過ごしたのは実質ひと月だ。

 シルビアの情報源は、書類や顔見知りの情報屋、周囲の人々の話だと言っていた。書類は何とかなったとしても、信頼できる情報屋の確保もまだ難しいだろうし、使用人たちの信頼を得なければ、貴族たちの裏事情などという情報も入りづらいだろう。何にしても、彼女に頼るにはまだ日数が足りていないのである。

 「では、分かる範囲の情報をまとめてください」と考えながら言えば、シルビアは静かに礼の形を取り、「承知しました」と応えた。


 ……ただの思い過ごしかもしれないですもの。ゼイラル様にお願いするにしても、分かる範囲で調べてから、ですわね。


 まだザイルやゼイラルの手を煩わせるには頼りない、ほんの少しの違和感。いざとなったら、早速ゼイラル様にお願いしましょう、と考えながら、ラテルティアはシルビアに耳打ちを始めた。

 王侯貴族の茶会という風習は、どこの国であってもそれほど変わりはない。もっとも、距離のある国同士ならばその限りではないが、隣り合う国同士であるならば、変化など本当に些細なものと言える。

 ラティティリス王国で鍛えられた、茶会の女主人役を危なげなくこなしながら、ラテルティアは先日から気になっていた令嬢たちの方へと視線を向けていた。

 良く晴れた日の、皇宮のサロン。いくつも用意された丸いテーブルに、令嬢たちが自分の仲の良い相手を誘って席につく自由な形式。その中心の先に座っているのが、やはりというべきか、キルナリス公爵家の令嬢、メラルニアである。彼女の座るテーブルには、当たり前だが貴族派の令嬢たちが集まり、楽しそうに言葉を交わしていた。漏れ聞こえてくる話によれば、ほとんどがメラルニアを褒め称えるような内容ばかりだったが。


 媚びを売るのは結構ですが、何をもって彼女が皇太子妃になると確信できるのか……。わたくしには分かりかねますわ。


 確かにその礼儀作法や仕種に教養、その容姿にいたるまで、全てにおいて、彼女は優れているといえるだろう。まあ、ラテルティアが傍にいれば、途端に態度が悪くなるのだけはどうにかして欲しいが。令嬢たちを従える様も、未来の正妃として申し分ない。遠目からは、そう見えるのだけれど。


 ……他の令嬢たちは、あくまでも彼女の顔色を窺っているだけ。何というか、持ち上げられるのが好きな方、なのでしょうね。


 他の令嬢たちが彼女を褒めれば、嬉しそうに微笑むけれど、気に入らないことを口にすれば途端に機嫌を悪くする。彼女の傍にいない貴族派の令嬢たちは、一度でも気に食わないことを口にしたため、彼女が寄せ付けなくなった者たちなのだ。それでも、誰も何も言えない。相手は貴族派の筆頭である、キルナリス公爵家の令嬢だからである。

 いくら他が良かろうと、あれではと、ラテルティアは周囲に気取られぬよう、僅かに息を吐いた。


 それにしても、やはり……。


 視線をメラルニアから周囲に移せば、やはりいつもの違和感が訪れる。いくつもあるテーブルには、令嬢たちが派閥ごとに分かれて座っているのだけれど。

 その内の二つ。それぞれ、皇帝派と中立派のテーブル。他の皇帝派や中立派のテーブルは、メラルニアが機嫌を損ねる度にうんざりとした顔をしたりするのだが。

 その二つのテーブルだけは、様子が違う令嬢ばかりなのだ。


 何というか、そう、彼女の周りの貴族派の方々と同じ。……メラルニア様の機嫌を窺うような、当たり障りのない態度ばかりを取っておられる気がするのよね。


 もちろん、皇帝派、中立派の他の令嬢たちとも普通に話をしているのだけれど。何というか、それぞれの間に立っているようにラテルティアには見えるのである。数日前にシルビアに頼んだ調査対象の令嬢というのが、まさに彼女たちであった。どうしても、彼女たちの立ち位置が奇妙に見えるものだから。

 キルナリス公爵家に弱みでも握られているのか、それとも。

 貴族派という、味方とまではならなくとも、間に立つくらいには、公爵家から利益を得ているのか。


「ラテルティア様、あの方々がどうかされましたの?」


 あまりにじっと見ていたからだろう、同じテーブルについていた、皇帝派の令嬢が不思議そうな顔で訊ねてくる。ラテルティアはそちらに視線を向け、にっこりと微笑んだ。「いえ、少し不思議で……」と、何も知らない隣国の公爵令嬢を装いながら。


「あの方々は確か、皇帝派の方々で、あちらは中立派の方々でしょう? それなのに、他の皇帝派や中立派の方々と話すわけでもなく、むしろいつもメラルニア様を見ていらっしゃるみたいだから、どういうことなのかしらと思ってしまいましたの」


 「ごめんなさい。まだこの国に慣れていないものだから……」と、困ったように続けたラテルティアに、声をかけてきた令嬢は、なるほどというように頷いていて。

 「わたくしも詳しくは知らないのだけれど」と、口許に手を当てながら囁いた。


「あの方々は、こう言うと悪いのだけれど、お家が資金難な方々なの。歴史ある名家ばかりなのだけれど、それをひけらかして領地運営が上手くいかなかった方が多いみたい。あまり知られていないし、隠してらっしゃるみたいだけど。メラルニア様のキルナリス公爵家は今とても羽振りが良いから、羨ましいのか、それとも……ね」


 こそこそとした話に、「そういうことなのですね」と、さも驚いたように頷いて見せる。ある程度は、予想通りなのだが。


 彼女の話が本当ならば、別に羽振りが良くなったというわけでもないようね。


 それならば、本当にただキルナリス公爵の幸運にあやかりたい、と思っているだけなのだろうか。それにしても、やはり違和感がと、そこまで考えて。

 ふと、思い出した。数日前に、ザイルから聞いた話。国家機密となっている、彼の、過去の話。


「……二年経ったら」


「え?」


 思わず呟いたラテルティアに、先程の令嬢が不思議そうな顔をする。それに「いいえ、何でも」と言って取り繕いながら、再びラテルティアは違和感を持つテーブルの方へと視線を向けた。

 二年経てば、忘れ去られると言ったという。ルミネアに毒を盛った給仕に、ティルシス公爵は。だから受け取った金を使うのは、二年経ってからにしろ、と。


「同じ方ではないけれど。……もしかしたら」


 似たようなことを、相手に伝えているとしたら。二年という期日ではないにしても、何かしらの制限を。もちろん、何らかの利益を得ている場合ではあるが。


 ただお金を与えるにしても、そこまでキルナリス公爵に利のある相手ではないはず。シルビアに持ってきてもらった資料を見た限り、ですが。彼女たちがメラルニア様を意識しているのは間違い有りませんし、資金難以外にも、何か共通点があるかもしれませんわね。


 キルナリス公爵にとって、この上ない利益となるような。

 思いながら、ラテルティアは再び令嬢たちの会話に耳を澄ませた。

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