第8話 遠い過去のお話。

 皇帝、クィレルの執務室から一度自分の執務室へと戻り、ザイルはゼイラルと共にラテルティアの部屋へと向かった。すでに茶会は終了しており、彼女が部屋に戻ったと聞いたからである。

 ノイレスが執務室で眠っているため、ジェイルは部屋に置いてきたわけだが。ラテルティアに顔を見せておこうと連れてきたゼイラルがあまりに女受けする容貌のため、廊下を進む間中、女官や侍女たちの視線がいつも以上に鬱陶しかった。ジェイルもジェイルで端正な容貌なのだが、彼の場合はその友好的な雰囲気も相俟って、皆が親しげに声をかけてくるため、近寄り難いようにうっとりとした視線だけを向けてくるこの鬱陶しさとは、今まで無縁だったのである。まあ、ゼイラルは慣れた様子でそんな彼女たちに手など振っているわけだが。


「……相変わらずだな、お前は」


 ぼそりと呆れたように呟けば、ゼイラルは楽しそうに笑って「まあね」と呟いていた。

 ラテルティアの部屋に到着したザイルとゼイラルを、彼女の侍女であるシルビアがさっと室内に通してくれる。客間でもあるその部屋では、ラテルティアがソファに腰掛け、何かの資料に目を通している所だった。

 声をかけようとするシルビアを手を上げて止め、ザイルはラテルティアの元へと歩み寄る。すとん、と彼女の隣に腰掛けて初めて、ラテルティアはザイルがやって来たのに気付いた様子で。はっとしたように顔を上げた。


「ザイル様。ごめんなさい、ご挨拶もせずに……。おいでになっていらっしゃるのに気付いていなくて……」


 ラテルティアは慌てた様子で言葉を紡ぐ。驚かせようと思ったが、予想よりも効果が有り過ぎたらしいと笑いながら、ザイルはあわあわと両手を動かすラテルティアの頭をぽすりと撫でた。「大丈夫だ、落ち着け」と言いながら。


「俺が気付かれないように入って来ただけだ。集中してたみたいだったからな。……ああ、今日来た令嬢たちの資料か」


 ラテルティアが今まで読んでいた資料に目を通せば、どうやらそれは茶会に招待されていた貴族令嬢たちについて細かく書かれたもののようだった。「そうですわ」と言って頷くラテルティアを横目に、ザイルは資料に手を伸ばす。書かれている名前につらつらと目を通して、ふと気付いた。「皇帝派の令嬢ばかりだな」と、ザイルはぽつりと呟いた。


「だが、公爵家や侯爵家の令嬢は派閥に関係なく参加、ね。一つの派閥の人間を集めると、例え位が高くとも他の派閥の人間は居心地が悪いと思うが。それに、ラティ自身が招待客について何も知らないと揶揄される可能性もある。……何か考えがあって、か」


 元々が王太子の婚約者として社交に励んでいた令嬢である。自分が不利になるようなことを、わざわざするはずもない。

 ちらりとラテルティアに視線を向ければ、思った通り彼女はふふと、愛らしく笑っていた。


「貴族同士の交流というのは、どの国でも同じようなもの。今のわたくしは、まだ何も知らない隣国の公爵家の令嬢という認識のようですから、それならばその間にしか見えないものを見ておかなければ、と思いまして」


 楽しそうな様子で言うラテルティアに、「今の内に、見ておかなければならないもの、か」と続ければ、彼女はこくりと頷いた。


「派閥が違う相手が集まっていようと、正妃という立場の者は、その場を制する必要があると、わたくしは思うのです。本人の毅然とした態度でも良い、周囲を味方につける話術でも良い。誰かの影に隠れるような者であっては、正妃という立場は務まりませんわ」


「だからこそ、敵地に放り込むようなことをしてるわけだな」


 面白い趣向だと唇の端を持ち上げれば、ラテルティアはにっこりと微笑んで「はい」と応えた。

 しかし、次の瞬間には少しだけその肩を落とす。「ですが、少し思惑違いなこともありました」と、彼女は呟いていた。


「皇帝派の筆頭公爵家には、年頃のご令嬢がいないでしょう? 侯爵家のご令嬢がいらっしゃったから問題ないかと思ってこのような配置にしていたのですが、皆さんをまとめるということにあまり慣れていらっしゃらない様子で……。こっそりお話を聞いたところ、皇太子の婚約者という立場にもあまり興味はないと仰っておられました。婚約者候補の振り落としという意味では一歩前進なのですが、幸先が良いとは言えませんわね」


 ラテルティアはそう言って、困ったように笑う。当たり前だが、全てがこちらの思い通り、というわけにはいかないものだ。ザイルはラテルティアの肩を引き寄せて、「まだ初日なんだ。そう気を落とすんじゃねぇよ」と囁いた。


「……うわー、ザイルが女の子に優しくしてんの初めて見た。違和感が凄いね」


 よしよし、と宥めるようにラテルティアの頭を撫でていたら、聞こえて来た声にはっとそちらを振り返る。扉の前に立つ、堂々としたその姿。そういえば、すっかり忘れていた。

 「ゼイラル、こっちに来い」と、ザイルは彼を向かいの席に座るよう呼びかけた。


「ラティ、こいつはゼイラルだ。一応、俺が運営している研究施設の所属だな。研究者じゃなくて従者だが」


 言えば、ゼイラルは優雅な仕種で礼の形を取る。ただの従者だといったザイルの言葉にラテルティアが驚きの表情を見せる程に、完璧な仕種だった。


「で、彼女がラテルティアだ。俺の婚約者。あんまり近寄んな」


 ぼそりと付け加えれば、ラテルティアがくすりと笑った。対して、ゼイラルは呆れたような顔をしている。「男の嫉妬はみっともないって言うけど、本当だよねー」と、彼はその表情そのままの声で呟いていた。


「初めまして、ラテルティア嬢。お会いできて光栄です。……ザイルとは昔馴染みで、こうして砕けた言葉を使うことを許して頂いてます。驚かれるかと思いますが、気にしないでいただけると嬉しいです」


 ザイルの前ではまず有り得ない丁寧な口調で言うゼイラルに、ラテルティアはふわりと笑って、「こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ」と応えていた。

 そんな彼女の様子にほっとしながら、ザイルはラテルティアに室内の人払いを願い出る。ここまでの話は良いが、これから話すことは国家機密扱いのため、誰に聞かせるわけにもいかなかったから。

 ザイルの言葉を受けて、ラテルティアが仕種だけで部屋の中から使用人たちに出て行くよう指示をする。彼らは皆、恭しく頭を下げた後、素早く扉から外へと姿を消した。


「さて、人払いしたから気付いただろうが、この前の話の続きをしようかと思ってな。……長くなるが、聞いてくれ」


 言えば、ラテルティアは静かに一つ頷いていた。

 ザイルはそんな彼女に小さく微笑み、口を開いた。


「馬車の中で話した時に気付いただろうが、母上は十三年前、俺が八歳の頃に亡くなった。……料理に入っていた毒を口にしたことが原因でな」


 ラテルティアが小さく「毒……」と呟くのが聞こえた。表向きには流行り病で亡くなったとされていたから、驚くのも無理はないだろう。だがそれも、フィフラル国内であれば信じている者は少ない話ではあったが。

 ラテルティアに小さく笑って見せ、ザイルは僅かに目を伏せた。あの日のことを、ザイルは今でも覚えている。いつもは自分のことについて何かを言い合い、声を荒げる母、ルミネアと祖父、ティルシス公爵の姿。しかしあの日だけは、違っていた。

 あの日の午前中、母と自分の元を訪れた祖父は、自分に反発する母の説得を、早々に諦めたような顔をしていて。これ以上の問答は無意味だとばかりに、踵を返してそのまま帰って行った。

 母でさえも、実の父親が、なんて思ってもいなかったことだろう。皇帝に成り得るザイルを、祖父が自分の都合の良いように育てたがっていたことを彼女も知っていて、それについて毎回、顔を合わせる度に口論をしていたのだ。けれど、それだけのことで、と。それだけのことで、まさか、と。


 ……血がつながっているからと、全幅の信頼なんて有り得ねぇ。だが、まさか、本気で殺すなんて、なぁ。


「結果として言えば、母に料理を運んだ給仕の男が、母のワイングラスに毒を仕込んだんだ。母がワインを口にした途端、血を吐いて……。あっという間のことだった」


 すぐさま料理番や給仕、侍女などの使用人たちが集められたけれど、母の給仕を行っていた男だけは、どこを探しても見つからなかった。母に料理を出してすぐに、皇宮を出たのだろうとされている。ルミネアがワインを口にするのを、見届けもせずに。

 給仕の男は、数日前に雇われたばかりの者で。調べてみれば、紹介状も、そこに書かれた名前も全て偽装されたものだったという。どれだけ捜しても彼は見つからず、ルミネアは流行り病と表向きの理由をつけられ、葬儀が行われたのだった。

 表情を暗くするザイルの腕に、ラテルティアの手が添えられるのを感じる。強張っていた身体が、ほっと、少しだけ緩んだ気がした。


「まさか給仕が自発的に母上を狙うわけもねぇ。その男に命じた黒幕がいるはずだった。だが、給仕はいつまで経っても見つからず、その時は黒幕が誰かも分からないまま、母上の葬儀が行われた。母上は皆に慕われていたから、国中が色を失ったような、そんな日だったよ。俺も、兄上や義母上と共に葬儀に出席して。……皆が目を離した一瞬の隙のことだった」


 ザイルが、その場から姿を消したのは。


「誰かに殴られたのを覚えてるが、誰だったのかは今も分からねぇままだ。気を失って、気付けば馬車の上で縛られてた。遠くで、殺す殺さないの話をしているのが聞こえたから、おそらく皇帝派の貴族の仕業だろうがな。兄上の邪魔になる前に、殺しておこうとでも思ったんだろ」


 手足を縛られ、目元と口許に布を当てられ、揺れる感覚と馬の蹄の音で馬車の上だと理解した。暗闇の中で聞こえた言葉はそんなもので、まだ幼かったザイルは、ただひたすらに恐怖に耐えているしかなかった。自らの死が目前に迫っていると、分からないはずもなかったから。動く馬車に身を預けることしか出来ないまま、一人息を殺して。

 唐突に、高らかな銃の発砲音が聞こえると同時に、馬車が停まったのだ。


「最初は助けが来たのかと思ったんだがな。実際は、積み荷を狙った強盗だった。まあ、おかげで、やつらが乱闘してる間に隙を見て抜け出せたんだが。皇宮を出てかなり馬車を走らせててな。今度は偶然行き会った人買いに、逃げた子どもと間違われて、捕まって。……売られた先は、城下の娼館だった」


「娼館……」


 呆然としたラテルティアの声に、思わず苦笑する。まあ、普通ならば皇宮の奥深くで大事に護られているはずの第二皇子が、娼館などに売られているとは思わないだろう。

 その経験があるからこそ、今の自分があると、ザイルは思っているけれど。


「子供の頃から、顔だけは良かったからな。娼館の下働きとして、将来は男娼として働かせるために買われたわけだ。で、そこで同じように買われていた、ここにいるゼイラルと出会った」


 顔を向ければ、ゼイラルはにっこりと微笑んで見せる。人を虜にする、艶やかで綺麗な笑みだった。

 そこでザイルは彼らの考えの通り、下働きとして働きだした。自分の手で働くなど初めての経験だったけれど、それはそれで面白かったと思う。ザイルの粗暴な言葉遣いも、その時の名残のようなものだった。


「前にラティが訊いてきただろう。何で、料理を残さないように、残す場合は手を付けないようにしてんのかって。……その時の経験からだな。俺が売られた先はまだ良い方だったが、それでも食うもんも少なくて。だからあれ以来、どうしても残したりすることを忌避するようになったわけだ」


「本当、いっつも腹減ってたからねぇ。あの頃は」


 ザイルにつられるように、ゼイラルもまた、苦笑交じりに呟く。今はもう、遠い昔の話のように感じる。

 腕に触れていたラテルティアの手が、少しだけ震えていて。ザイルはそっとその手に自らの手を重ねた。自分は今、確かにここにいるのだと、安心させるように。

 「まあ、それだけで終わる俺じゃねぇがな」と、ザイルは続けた。


「本当だったら、どうにかしてそこを抜け出して、助けを求めることだって出来たが、俺はそうしなかった。俺たちの売られた店は、当時からある程度の金持ち向けの店でな。貴族や商人が毎日のように顔を出してた。……そいつらが、店の姐さん方に話しているのを聞いたんだよ。まだ、母上を殺したやつは見つかっていないってな」


 耳を澄ませれば、沢山の噂話、裏話が聞こえてくる。客の相手をした後の娼婦たちの会話は、ザイルにはとても興味深いものばかりだった。

 だからこそ、思ったのだ。父も、叔父も、義母も、きっと母の命を奪った者を捜してくれているだろう。ならば自分も、少しでも、と。


「それから、俺はあらゆることに耳を澄ませていた。母のことだけでなく、貴族連中の弱みを握る意味でもな。ついでにその店の経営にも口出しさせてもらった。より貴族の客が増えるよう、店の内装をより良く見えるようにすることとか、姐さん方の待遇を良くすることとか。八歳の子供の言葉だからな。店主も耳半分で聞いていたが」


 結局、その耳半分で行ったことが上手く当たり、ザイルの予想通り、店には貴族や金持ちの客が増えることになった。当時、下働きの中でザイルと最も仲が良かった、一つ年下のゼイラルは、ザイルよりもずっと聞き上手だったため、彼にも遊び半分で話を聞いてくるよう頼んだものだ。

 そうこうしているうちに、二年もの月日が経っていた。


「事が動いたのはそれからだったな。母上が命を落として二年が経った頃、……店に一人の男がやって来たんだ」


 貴族という風でもない、かといって羽振りの良い商人のようでもない。しかしやけに金に余裕がある男のようで、一日に二人、三人の娼婦を買うこともあった。

 その男の話を娼婦たちに聞いた時に、全てが動き出したのだ。


「二年待てと言われていたんだとさ。その男は。……去る高貴な方に、毒を盛ったことで得た金を使うのは、二年待ってからにしろ、ってな」


「それは、つまり……」


 息を呑んだラテルティアに、翳りのある笑みを浮かべてみせる。「お前が思ってる通りだ」と、ザイルは呟いた。


「その男が、母上に毒を盛って姿を消した給仕だった。……やっと見つけたと思ったよ」


 その後は簡単だった。店を買い出しと言って抜け出し、皇宮に向かった。城下といえど、十歳の子供が向かうには遠い道のりだったが、その頃にはすっかり下町に慣れていたザイルは、大した危険に晒されることもなく、皇宮の外までたどり着いて。

 皇族にのみ知らされている抜け道を使い、皇宮に入ったのである。


「最初に会ったのは兄上だった。二年前に見た時よりも随分と痩せていたけれど、俺も変わらなかっただろうな。どうにかして手紙でも送れたらと思ったが、誰が母上を殺した相手か、俺を殺そうとした相手か分からない以上、下手なことも出来なかったから。……ずっと捜してくれてたんだと。父上も、叔父上も。だが、第二皇子が姿を消したなど公に出来るはずもなく、捜索は難航していたようで。……第二皇子の死亡を公表する直前だったらしい」


 「間一髪だったよ」と、冗談交じりに言うが、ラテルティアはとても笑うことなど出来ないでいた。

 それから解決までは早かった。皇帝クィレルと宰相ダリスの指示のもと、ザイルが二年間過ごした店に来た給仕から、ティルシス公爵の名があがったのだ。給仕はティルシス公爵から、二年経ったら、皇族の連中も諦めていると言われたらしかった。二年も経てば、さすがに娘の死も忘れ去られるだろうと。彼の誤算は、彼が思っている以上に、彼の娘が愛されていたことなのだろう。ザイルが攫われ、下町の娼館に身を寄せた挙句、母の死の真相を知る人物に行き当たったことも。

 店にはザイルも足を運び、ゼイラルを自分の部下として連れて行くことにした。仲が良かったこと以上に、彼の情報取集能力の高さを買っていたから。もちろん、彼を買うために店が払った金額以上の金を渡して。

 馴染み深いあの店は、今でもゼイラルの情報源の半分を占めているという話だ。毎回彼が店を訪れる度に、娼婦ではなく情報に過分な金を支払うことで、多種多様な情報を仕入れているのだった。


「そうこうして、全てが終わった頃、俺はさすがに気が抜けてぶっ倒れてな。ティルシス公爵が捕まったことも、公爵家の人間や事件に関わった者たちが処刑されたことも、随分後に知らされた。……そうして初めて、俺は母上の墓参りが出来たってわけだ」


 明るい口調を意識して、そう締めくくる。「だから何か情報が欲しい時は、こいつを頼ると良い」と言って笑って見せれば、ラテルティアは泣きそうな顔で笑った後、ぎゅっとザイルの腕にしがみついてきた。「良かった」と、小さく呟きながら。


「ザイル様が、ここにいてくれて、良かった……」


 囁くように呟かれた言葉。

 母が死んだ時も、連れ攫われた時も、娼館に売られた時も。いつ死んでもおかしくなかったと、ザイル自身も理解している。淡々と語った言葉の間に、口にしなかった様々な事件も、数限りなく溢れていたから。

 話を聞いたラテルティアは、それに気付いたのだろうか。ほろほろと流れ出した涙が、それを如実に表しているような気がした。


「……涙もろいよな。お前」


 ぼそりと呟いた声は、目の前のゼイラルが変な顔をするくらいには優しい声音だったけれど。自分を思ってくれる彼女の気持ちに胸が温かくなるような、そんな感覚に陥りながら、ザイルは自分の腕に顔を押し付けて泣いているラテルティアの頭に、ことんと自分の頭を載せた。

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