強国の第二皇子は敬愛する兄の婚約者候補を振り落としたい。

蒼月ヤミ

第1話 立ち位置。

『ザイル殿下! わたくし、殿下のことが大好きですの! ぜひともお嫁さんにして頂きたいですわ! だから、絶対に皇太子になってくださいませね!』


 今から十年以上も前、同じ年の頃の少女からかけられたそんな言葉で、聡いザイルは全てを理解した。自分という人間の、価値というものを。


 俺のことが大好き? 違うだろ。が大好きなんだろ。……いや、違うな。が、好きなんだろ。


 それはこの目の前の愛らしい少女だけではない。誰も彼も、自分と兄、二人を天秤にかけて、より皇太子の座に近い者に擦り寄ろうとする。見え見えの態度が可笑しくて、しかしもう、笑う気力さえない。

 皇太子という、未来の皇帝という立ち位置を約束された存在。そんな人物に媚びを売るのは当然といえば、当然で。けれど自分の価値が、未来の皇帝という立ち位置がなくなってしまったならば。

 自分の周りには、誰もいなくなってしまうのだろうか。

 敬愛する兄を皇太子に、果ては未来の皇帝にと望んでいながら、以前の自分は、そんなことばかり考えていた。


「……殿下。ザイル殿下? そろそろ公務の時間ですわ。起きてくださいませ」


 暖かな陽気が降り注ぐ、初秋の昼下がり。肩を柔らかく数度叩かれ、ザイルはぼんやりとした頭のままゆっくりと目を開く。「おはようございます、殿下」と声をかけてくる少女は、銀色の睫毛に縁取られた青い瞳を細め、優しく微笑んでいた。

 「おはよう、ラテルティア」と、ザイルもまた僅かに笑みを浮かべながら呟き、無意識に手を伸ばす。こちらを見下ろすラテルティアの頬を撫でれば、彼女は擽ったそうに「ふふ」と小さく声を漏らした。


「わりぃな、寝すぎたか」


「いいえ。申し訳ないとは思ったのですが、少し早めに起きて頂きました。先ほどから、ジェイル様がお待ちですので」


 柔らかなソファの上、ラテルティアに膝枕をしてもらった状態で横になっていたザイルは、彼女の視線が動いた方向へと顔を向ける。

 向かいのソファに腰掛けていたジェイルは、にっこりと笑ってこちらを見ていた。


「殿下。公務ですよ。公務。ラテルティア嬢が優しくても、仕事は仕事です。行きましょう」


「……うるせぇ。分かってるっての」


 毎度毎度のことながら、何と空気を読まない男か。

 思いつつ、深く息を吐きながら、半身を起こす。くわりと大きく欠伸をしていたら、ラテルティア付きの侍女が見計らったようにお茶を運んできた。ここはフィフラル帝国の中枢である皇宮の一角。ザイルの婚約者として、ラテルティアに与えられた内廷の一室である。

 「大体、毎日毎日、休憩の度にここまで来るのやめてくださいよ」と、ジェイルがぼやくように言った。


「殿下の執務室からここまで、結構距離があるんですよ。往復する暇があったら一人で休んだ方が良いんじゃないですかね」


「だから予定よりも早く仕事を終わらせてんだろうが。いつ誰が入って来るとも知れねぇ仮眠室で寝るくらいなら、ここまで来て、ラテルティアに膝枕してもらった方が良いに決まってんだろ」


「だから休憩時間に寝るのをそもそもお止め下さいってば。お菓子食べてお茶飲んで、ほっと一息つくぐらいにしてください。ラテルティア嬢も、面倒だったら直接言ってくださって構いませんからね。鬱陶しいから来るな、とか」


 ザイルの執務室がある外朝の一角からここまでは、決してすぐ近くとは言えない。まあ、国を動かすための政務が行われている、政務官であれば誰もが足を運ぶ外朝と、皇族が私生活を行うための内廷が近過ぎれば、そちらの方が問題だろうが。休憩時間の度に訪れるには、明らかに不向きな距離である。

 にも関わらず、ラテルティアが皇宮で過ごすようになってから、休憩時間の度に、ザイルは毎日その距離を往復していた。別に、膝枕をしてもらわなくても構わない。彼女の傍にいる方が、心身ともに休息できるからである。まあ、もっと端的に言うならば、ただ傍にいたいだけである。

 だがそれがラテルティアの負担になってはいけないと、ジェイルの言葉を聞いてふと納得する。隣国、ラティティリス王国から、このフィフラル帝国に嫁ぐことになるラテルティアとて、勉強や社交などに日々忙しくしており、決して暇ではないのだから。

 思い、少し彼女の様子を覗うように、「鬱陶しかったか?」と問えば、ラテルティアはきょとんとした顔になっていて。ついで、くすりと笑った。


「いいえ。こちらに帰って来られてから、ザイル殿下はいつもお忙しそうですから。わたくしは少しでも殿下と一緒にいられて嬉しいですわ」


 柔らかく笑って言う彼女に内心でほっとしながらも、その表情だけはにやにやと品のない笑みを浮かべて見せる。「何だ、淋しかったのか」とからかい交じりに言えば、ラテルティアは少し目を瞠った後、その視線を彷徨わせた。僅かに頬を染め、困ったようにこちらを見上げながら、「……少しだけ」と小さく呟く。

 殺す気なのだろうかと、真剣に思った。


「……結婚したい。一年が長い」


「あー、殿下。ほら、行きますよ。こういう時は、一端離れた方が良いですから。ほら、お仕事ですよー」


 両手で顔を覆って嘆き出したザイルに、ジェイルは呆れたような声でそう呟いた。隣に座るラテルティアが「ザイル殿下、大丈夫ですの?」とかけてくる声さえ可愛くて仕方がない。我慢している自分が、本当に偉いと思う。

 数度深呼吸を繰り返して、表情を取り繕った後、いつも通りの粗野に見える笑みを浮かべて「大丈夫だ」と返事をする。そんな些細な言葉に、ラテルティアがほっとしたように微笑むものだから。

 気付けば無意識にその頬に触れ、銀色の髪の隙間から、その白い額に口付けていた。婚約しているのだから、このくらいは問題ないだろう。自分の行動に後から思考が追いついて、そんなことを思った。


「今日の夜も、食事を共にしよう。組まれた予定も、あまり疲れるようだったら俺から言ってやるから教えろ。ランドル殿の結婚式に出席するために、ラティティリス王国に行って、帰ってからは、父上から頼まれた面倒事まで増えるからな。……無理すんじゃねぇぞ」


 すりすりと、白く柔らかい頬を撫でながら言えば、ラテルティアは嬉しそうに目を細め、こくりと頷いた。「殿下も、無理はなさらないでくださいね」と、首を傾げて言う様がやはり可愛くて、返事をするよりも早く、そっと唇を重ねる。未来の皇帝という立ち位置から完全に降りた、ただの第二皇子。そんな自分を求めてくれる存在が確かに、ここにいてくれる。

 正面に座ったジェイルが、うんざりしたような顔をしていることに気付かないふりをしながら、休憩時間の終わりに間に合わなくなるぎりぎりまで、ザイルは愛しい婚約者の傍らに居座り続けていた。

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