4. 蝶に焦がれて

 エリンダス王国で生活をしていくためには、金を得る必要がある。この世は貨幣経済、物々交換で成立する世界ではない。田舎なら自給自足できるかもしれないが、そういった生活をカーミラが望んだことは一度もない。今人生について考えているときも、そんな選択肢を本気で検討しようとは思わなかった。


 一夜が明けた。昨晩はあまりに多くの情報が流れ込んできた気がする。雇用されていた支配人に契約を切られた。やけ酒をあおっていたら辛辣な女に論破された。並べ立てればそれだけのはずなのに、カーミラに与えた心理的ショックは大きい。特に、女に言われた言葉は頭を強い力で思い切り殴られたような衝撃だった。

 見たくないものを直視しろと言われた気がした。


 ベッドから身を起こし、カーテンを引けば穏やかな朝の陽ざしが部屋に射し込んでくる。太陽の光を浴びることは精神面にも肉体面にも良い、と諭してくれたのはどこの誰だったか。あるいは教訓のように昔から語られている通説なのかもしれない。どっちでもよかったが、日光を浴びてあたたかくなる身体は不思議と軽く感じられたし、昨日までの嫌な気持ちも単純なものでふっとどうでもよくなった。根拠の定かではない通説を真に受けるのも存外悪くないのかもしれない。

 あとは何をするといいと言っていただろうか。寝起きの頭でぼんやりと思い出してみる。酒場で行きかう品の話も、昼間の市場でのおばさんたちの雑談も。飼っている犬が雨の日の前はよく庭を駆け回るとか、南部の農業地帯が不作でここ数週間で野菜が値上がりしてしまっているとか、マジックバーのなんとかというマジシャンはひよっこで時々手品に失敗するとか。とりとめのないことをすべて思い出す。記憶の欠落した部分も含めて、今の自分には関係なさそうなことも全部掘り起こした。それに意味を見出すのはテーブルにカードを並べてからでいい。カーミラは今、それをしたい気分だった。


 蝶の羽化成功率は一パーセントにも満たないのだと、以前客の一人が話していたのを思い出した。カーミラを蝶に喩えた人がいたからだろうか。どんないきさつでそんなことを話してくれたのかは思い出せないけれど、その客は虫の生態に詳しいらしく、そんなことを得意げに話していた。

 いわく、蝶が卵から孵って羽化できるまでの確率がその程度だと。百匹生まれても一匹羽化できるかどうか。そのパーセンテージが他の虫と比べて高いのか低いのか、カーミラにはよくわからない。卵生生物がたくさんの卵を産み落とすのは成体になるまでに命を落とすことが前提になっているからというのは聞いたことがあるし、弱肉強食のサイクルに組み込まれている以上想像に難くない。

 羽化に失敗した蝶を見るとき、その客はとても胸が痛むのだそうだ。幼虫でも蛹でも命を落とすことは悲しいに違いないが、あともう一歩というところで未成熟な状態で変態が完了しないのが、まるで手負いの獣を見ているかのごとき心地なのだとか語っていた。蛹から出てきた蝶はすぐには飛べない。時間をかけて羽根を伸ばし、自由に飛んでいける身体へと生まれ変わっていく。そのあと一歩のところで階段を落とされるような、心臓を撃ち抜かれるような、強い絶望が残るのだと。

 羽化不全に陥った蝶は、地面に落ち、じたばたともがく。うまく飛べない羽根を動かして、いたずらに体力を消耗して、最後には短い命を更に縮めて生涯を終える。


「きっと君はきちんと羽化できた蝶なんだよ。踊り子として表舞台に立てず、夢破れる蛹たちは把握できないほどいたんだろうから」


 果たして、自分の羽根はきちんと伸びているのだろうか。それとも世の中の理不尽な要求に羽根をむしりとられ、寿命を迎えるのを待つだけなんだろうか。

 窓の向こうに視線を向ける。アパートメントの三階からは王都の街並みがよく見える。どこぞのリゾートホテルみたいなキャッチコピーこそないけれど、活気ある大通りの様子や遠くの海も見通せる。

 窓を開けてみれば風に揺られる木の葉の擦れ合う音が聴こえた。木にとまっているのだろう鳥のさえずりが聴こえた。こういったなんてことはない当たり前の風景を注視することはほとんどなかった。自分もそこそこ疲れていたのかもしれない。他愛ないことに安らぎを感じてしまう程度には。


 蝶でもひらりと飛んでくればいいのに、とカーミラはぼんやり思った。そうしたら運命じみたものを感じてまた頑張れる。そんな無責任なことを考える。だけど待てども蝶が窓辺に姿を見せることはなかった。

 ご都合主義の運命は訪れない。奇跡だっておいそれと起こらない。それをカーミラは知っている。そんなものに期待するだけバカなのだと。待っていても機会は訪れることなく、ただ逸するだけなのだ。


「……よし」


 窓辺で蝶を待ってしばらく、カーミラは大きく息を吐きだした。飛べない蝶。羽化不全。不慮の事故で飛ぶことを奪われた。飛べなければ死期が早まる。その場から動くこともままならず、誰かの手を借りなければどこにも行けない。人間の介入があれば、二度と自然界には戻れない。

 カーミラの羽根はまだ伸びている。奪われたのは餌場だけだ。

 餌場なら、飛んで探せばいい。吸える蜜を求めてどこへでも。腹を満たすために飛ぶのが蝶だ、美しく舞うために飛ぶのではない。カーミラも食べるために飛ぶけれど、蝶じゃない。蝶になりたかったけど、食べるだけじゃ満たされなかった。カーミラは人間なのだ。


 食べたいし、美しく舞いたい。どっちかじゃなくてどっちもとる。プライド上等、意義なんて後付けで構わない。全部黙らせればいいだけの話だ。

 終わり良ければ総て良し、という言葉もある。優美な羽ばたきとは言えないかもしれないが、見た目が綺麗ならそれでいいじゃないかとカーミラは笑った。

 新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んで吐き出す。蝶は結局一匹も来なかった。

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