秒針が動き出し、ナイフは研がれる

 草むらばかりだった風景は、元の硬質なコンクリートで出来た地面へと巻き戻る。靴と地面とが鳴らす音を聞いて、ようやく収容所に戻ってきたと実感した。


 戻ってこられたなら、この収容所で最後の精算を行おう。償いはこれからも私が死ぬまでずっとやっていかなければいけない事だ。だからこそ、この因縁の地で全ての区切りをつけよう。


 私はクラウスと向き合わなければいけない。今までクラウスから逃げ続けてきたから。過去の自分を打ち破るには、逃げ続けていてはいけないから。


 ヨハンが死んでしまった事も私のせいだから、クラウスは私を殺したいくらいに憎むだろう。


 ああ、恐ろしいな。


 立ち向かう恐怖もあるが、私が逃げ出してしまうのではないかと思うとこの上なく恐ろしい。


 クラウスの元へ行こう。この地で起きた事に、そして私自身に区切りをつけるためにも。


 朝が過ぎ、昼も間近になる頃。私はとうとうクラウスの前に立った。


 彼はとてもしかめっ面で私を迎える。いつもの彼の顔だ。


「クラウス、あなたに謝りたいんです」


 彼の眉がかすかに動く。そして僅かに首を上下させて肯定の意を示してくれた。


「よし。話してみろ」


 ブラウンの光が私を射抜く。その明るさの中に潜む、深く沈んだ泥濘が、私の手足を縛り取り、底無しの沼へと引きずり込んでいるような印象すら覚える。


 震えている手を掴む。私はもう逃げる事が出来ないのだから。だから一歩前に踏み出すんだ。


「私が逃げ出してしまったせいで、クルトが死んでしまったから、だから私は許しを請わなければいけません。到底許す事の出来るものではないでしょう。私が今まで積み重ねてきた失態ものしかかっています。ですが、それでもあなたに謝罪したいんです」


 私の思いを彼に伝えよう。私が彼に隠してきたものをさらけ出そう。惨めだろうとも、情けなかろうとも。


「私が臆病なせいで、クルトは死んで、そしてヨハンまでもが」


 彼の顔が歪む。私も、そして恐らく彼も、心臓を手で握られたような錯覚を覚えた。


「ヨハン?どういう事だ?詳しく話してみろ」


「昨日、ヨハンが見張りの兵士にリンチされてたんだ。それを、私はただ見つめていただけで、結局事の終わりまで何も出来なかった。見殺しにしたんだ」


 彼は俯いて、しばらく黙り込んだ。世界がしんと静まりかえって、その中には私達だけが居た。それは何十秒、何分、何十分も続いたように思われた。


「……そうか。そうだったのか」


 彼の目が私を突き刺す。戸惑い、怒り、恐れ。様々な感情が私の中に入ってくる。


「それで、お前は謝罪するとか言っていてたが、謝罪してどうなる?もう全て終わってしまったんだ。もう手遅れなんだよ」


 そんな事は分かっている。だけど、私は前に進まなきゃいけない。皆がしんでしまった意味すら無くなってしまうから。


「私は謝らなきゃいけないんだ。まずそうしなきゃ何も始まらないから。後の事は分からない。それに私はあなたに一度も謝った事が無いから。」


「お前のやってる事は子供がごめんなさいしてるのと同じようなもんだ。だが、それでも謝れた事は認めてやろう。まったく、もう少し早くお前が成長していればヨハンが死ぬ事も無かったんだがな。ザシャ、今までの借りは一生掛けて返せ。そうでも無ければお前も許した意味が無いからな」


 ようやく、肩の荷が降りた。私はようやくクラウスに償えるのだ。一生を掛けて、今までの事を全て。


 ただ、彼の顔が暗いのが気にかかる。ヨハンは彼の親友でもあったから、やはり悲しんでいるのだろうか?


 クラウスがうつむいたまま、またしばらく経ってから顔を上げて話し始めた。


「もうじき、収容所を移転するそうだ。奴らの本拠地により近い、戦火に巻き込まれない場所だそうだ。恐らく、移ってしまえば、国に帰ることは出来なくなるだろう。少なくとも、当分の間はなる」


 彼は一拍置いて、口を開け、少し躊躇ためらうような素振りをして、それからまた話し始めた。


「ザシャ、お前はここを抜けて国に戻るんだ。これが最後のチャンスなんだ。鍵の入手方法や脱出経路も考えてある。それを使って外へ出て、とにかく軍に保護してもらえ。そうすれば、もう安全だ」


 彼はそう言って、二枚の紙切れを置いて、振り向いて離れていこうとする。


「あなたはどうするんですか?その口ぶりじゃ、残るみたいじゃないですか」


 おそらくここに来てからずっと練ってきた計画だろう。それはクラウスだけでなく、ヨハンも連れて行く予定だったはずだ。


 後ろを向いた彼の顔は、一体どんな表情を出しているのだろうか?


「俺は残るさ。お前とは違ってまだここでやるべき事を残しているからな」


「ありがとうございました」


 視界の隅にかすかに見えた彼の顔には、きっと悲しみがあったのだろう。私はそれ以上何も言わずにこの場所を去った。


 私は一人になったのだ。アントンも、クルトも、ヨハンも、そしてクラウスも。もう周りには誰一人残っていない。これからは、私だけの力でやっていかなければいけないんだ。


 それから今後の事を考えていたら、あっという間に作業の時間になってしまった。急いで道具を取って作業場に出る。ヨハンを殴った兵士は見張りにおらず、更に兵士の数も心無しか減っている。


 他の囚人達も何一つ口には出さず、黙々と作業に取り掛かっている。


 まるで世界から人が消え、道具だけが動いているかのように、ただひたすらに作業音だけが聞こえる。


 道具を置いておき、静かに作業場から離れる。いつもは何かを持ち運びする時に、廊下にはポツポツと見張りやらなんやらが立っていたのに、今ではただ一人さえ見かけやしない。


 そのままもぬけの殻になっている看守室へ入っていく。いつもなら、必ず誰かが居て、鍵のかかった扉以外から入ろうとする狼藉者など、囲んで棒で叩かれてしまうだろうが、誰も咎める者もいない。


 クラウスに貰った紙切れの内の一つには、牢屋の鍵の予備について書かれていた。どうやって知ったかは知らないが、確かにそれに書いてある通りに鍵が置いてある。


 そこから私の部屋の鍵だけを抜き取って、またこっそりと元の場所へと戻る。


 誰とも会うことの無い廊下を歩いていると、遠くの方から乾いた音が響き渡る。砲撃の音だ。大きい砲とはいえ、ここまで音が聞こえるまで、戦火は近づいてきている。


 今夜、収容所を抜け出してしまおう。ここも、もう長くは持たないだろうから。予想以上に人員の減りが速いのだ。恐らく、もう機能不全寸前だろう。


 ここまで囚人の輸送も何もせずにいたのは不思議でならないが、抜け出してしまえば関係無い。


 心残りといえば、アントンから貰った拳銃、アレが没収されたままだという事だ。アントンから貰ったものなんてアレしか残っていないし、唯一の形見だった。それを簡単に放ってしまったなんて、あの時の私はやはりおかしかった。


 目を閉じて、出来る限り体力を温存しておく。戦場は近い。水も食料も必要ないくらいには。だが、体力はあるだけあった方が良いから、少しだけ眠ってしまおう。


 何も無い暗闇の中でだんだんと意識が溶けていく。今日はもう疲れたから、出来ればもう二度と目覚めたくないな。

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