古びた薬莢へと根を伸ばし、勇気の花は咲き誇る。

 空が燃えている。黒に染められたこの世界が少しずつ松明の炎で焼かれていき、空には青と橙とが入り交じる。


 最初はロウソクのように暖かい、しかし儚げなその光が雲の中から溶け出して、そして次第にゆっくりとその勢いを増していく。


 この光の向こうではきっと今でも戦いが起こっているだろう。そこから逃げ出した私は、帰らなければいけないんだ。火薬と鉄の火で暖められ、そして照らされているあの場所へと。


 そろそろ起床時間だ。看守がまた鍵を開けに来る。朝食を取ろう。最近は食事の配給量が減ってきているし、質も心無しか落ちている気がする。ここももう戦場に近いから、物資の供給が滞っているのかもしれない。


 最近は、もっと後方の収容所へ輸送されるという噂も聞いていたし、兵士達がピリピリしていたのもそのせいだろう。


 どちらにせよ、ここでの生活が終わりを告げるのも、もう遠くないだろう。それまでに出来るだけの事をしなければいけない。少なくとも私が行った事に対する清算は、やってしまうべき事だろう。


 クラウスは、私を許してくれるのだろうか?私には彼の事が分からない。これまで彼を避けてきたから、許されなかったとしても、それは今までの怠慢の積み重ねで、仕方の無い事だ。いずれお互いに分かり合えるまで、歩み寄って、長い年月を掛けて晴らすしかないだろう。


 朝は過ぎ、太陽が真上を通り越して、空が薄暗くなっていく。結局、私はここまで来てまでクラウスと向き合う事を躊躇してしまっている。昼間の作業があるからと、後回しにして。夕食の時間だから、戻らなければならないと後回しにして。


 最後には向き合わなければならないのに、前に進むと決めたのに、どうして私の足は地面から離れないのだろう?


 薄っぺらい決心によって臆病を隠し、いまだ逃げ続けている私のせいだろう。今初めて対面する、この問題に対して失敗してしまう事を恐れて何も成そうとしないのは、私のせいだろう。


 だが、答えが分かっていたって、どうする事も出来やしない。私の内なる心は、はるか昔に殻に閉じこもってしまって、私自身でもどうする事も出来ないからだ。


 頭の中で色んな考えが出ては消えていって、からまってグチャグチャになって、私という存在が、どこか遠くの事に思えて、もうただ呆然と立ちすくむ事しか出来なかった。


 その時、何かおかしな音が聞こえてきた。行き場を失っていた私の心は、すぐさま身体の元へと戻っていく。


 音はかすかに、しかし、なんども繰り返して聞こえてくる。それを聞いていると、なんだか心がザワつくような気持ちになってくる。


 静かに、ゆっくりと音が聞こえた方へ向かっていく。音は近づくほどに大きくなっていき、次第にはっきりとその正体を明かしていく。


 最初はトン、トンと何かを叩く音。


 その次に、ボス、ボスと土や砂を叩くような音。


 更に近づくと、音はより一層鈍くなっていく。


 音の出どころまでもう少しだろう所では、叩かれているものがなにやら肉のようなものだと確信した。


 中庭に続く角からこっそりと覗いてみると、やはりそこではリンチが行われていた。


「───」


 しきりに何かを口走りながら囚人を殴っているのは、どうやらいつもの見張りの兵士のようだ。


 何度も何度もひどく力を込めて殴りつけて、殴りつけて、殴りつけて。この世の怨みを全てぶつけているかのように。


 酷いじゃないか。こんなに殴りつけたら死んでしまうじゃないか。


 ……逃げた方が良さそうだ。止めたって怒りの矛先がこちらに来るだけだから。気づかれないようにこっそり足を後ろに向ける。


 なぁ、恨まないでくれよ。私だって傷つきたくないんだ。


 振り向いて立ち去ろうとした時、兵士の肩からかすかに見えたその顔は、確かにそれはヨハンのものだった。


 ヨハンはひたすら殴られ続けている。何度も何度も何度も何度も何度も。


「え?」


 口から何かが漏れたようだ。でもそんな事はどうだっていい。


 ああ、止めてくれよ。ヨハンが、ヨハンが死んでしまう。そんなに殴ったら死んでしまうから。


 助けなきゃ


 足を前に踏み出して、そしてあいつを取り抑えよう。そうすればヨハンは助かるんだ。


 走り出して、走り出してあいつを殴り倒す。それだけの事だ。なのになんで体が動かない?足を前に出す代わりに私の脚はただ震え続けているだけで、どうしようもないまま突っ立っている。


 こうやって、子鹿のように震えながらじっと時が過ぎ去るのを待っている内にも、ヨハンの命はだんだんと死に向かっているというのに。


 私が臆病だから、これ以上傷つきたくないから、だから親友ですら見捨てるんだ。きっとそうだろう。


 私は愚かだ。ついさっきまで臆病な自分を乗り越えようと考えていただろうに、そうやって頑張った?いや頑張ってすらいないのかもしれない。どちらにせよ私が積み重ねてきたツケが今降り掛かっている。きっとこれからも続くだろう。


 前に走り出す事が出来ず、そして逃げ出すだけ振り切れている訳でもない。私はただ、その行為が終わるまでただ眺め続ける事しか出来ない。


 全てが終わった後で、周りに人が居ない事を確認した上でヨハンに近寄る。もう、私の知っているヨハンとはかけ離れた風貌に変わっていた。


 その顔を見つめていると、私が臆病だった事で、そのせいで全てを失ったと気づいた。気づいてしまった。


 急いでそこから離れて、口に込み上げるものを吐き出した。吐き続けて、腹の中に溜まっていたものが全て無くなって、それでも吐き続けて、きっと私の感情までも口の中から出ていった。


 横たわったヨハンの目が、大人になれと語りかけているように見えて、私は走り出した。体からほとんどのものが抜け落ちたせいで身体中が火照って、暑くなって、燃え始めて、ろくにバランスも取れないから揺れて、転んで、でも立ち上がって、また走って。


 気づけば私は見知らぬ場所に居た。周りは一面が草むらに覆われている。辺りを探しても、元来た道は見当たらない。そのまま草むらを歩いている内に、私は色を見つけた。

 赤く、空に向かって伸びた茎、点々となるほんのりと薄暗い緑の葉、そして紫と青とが入り交じった立派な花弁。


 そこにはボリジの花が咲いていた。


 花言葉は勇気。


 私は、アントンと、ヨハンの死を見届けた。恐ろしかった。私が隠していた臆病はさらけ出されてしまった。私は臆病を捨ててしまおうとしていたけれども、私は勇気を持つべきだった。


 人と、そして自分自身と向き合う勇気を。


 臆病な事を捨ててしまうことは、結局自分から逃げてしまう事だから、だからせめて私が私自身を納得させて、臆病を飼い慣らさなければいけないから。


 ボリジの花を摘み取って、ちぎれないようにそっとポケットの中に差し込んでおく。


 戻ろう。まだ私の成した事の清算は終わりきっていないのだから。


 歩き始める私の後には鎖が断たれる音が続いた。

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