第17話 母と息子

 




【水鳥 麗 二回目】


 私はハッと意識を取り戻した。

 そこはまた木村君の家の前だった。自分の腹部を確認すると、そこに外傷はなかった。


 ――死んだのか?


 同じように自分の携帯電話を確認する。

 日付は平成××年9月28日。事件の約一か月前。まだ残暑があるのか暑かった。私は周囲を確認しながら、誰にも声が届かない場所へと移動する。


「ちょっと、白蛇。聞こえてるなら出てきて」


 私がそう言うと、白蛇は私の首に巻き付いていたようで姿を現した。


「なんだ、かしましいぞ」

「なんで何の相談もなしに事件当日まで移動させたの? 私、死んじゃったんだけど」

「それはお前の不手際だ」

「こんなの無効だよ。回数のカウント無しでしょ?」

「それは違うな。私はお前が繰り返し願っていた時間と場所へ移動させたまで。本来なら成しえなかったやり直しをさせてやっているのだ。それだけでありがたいと思え……」


 それだけ言って白蛇は消えた。


 ――確かに……否定できない……


 私はずっと、事件を止めたかった。止められるならなんでもすると願った。彼が幸せになってくれるなら、どんな道だって構わない。そう思っていた。

 事件がなかったことになればいいと願い続けていた。

 私との出会いがなくても、私が救われなくても、私は木村君が幸せになってくれたらそれで良かった。


 ――……普通ならありえない。だったら、その中で上手くやるだけだ……


 私は白蛇を責めることを辞めた。

 目の前のことに集中しなければならない。


 ――確か……症状が悪化し始めたのは一か月前くらいだって公判で指摘されていたはず……


 時間は日中の午前十時、日曜日だ。

 木村君が家にいるのは何曜日でも同じだが、日曜日ならお母様が家にいるはず。


 ――木村君、今……あの部屋にいるのか


 外から見える彼の部屋の窓を私は見つめた。

 インターフォンを押しても……木村君が出てくるとは考えづらいが、彼が出てくることを私は祈った。

 私はインターフォンを押すその数秒でどうするか色々考えた。

 症状が悪化してしまうのだから、やはり投薬しないと駄目なのかもしれない。しかし、自分が統合失調症だって思っていない木村君からしたら、毒を飲まされていると思ってしまうのかもしれない。

 統合失調症の薬は副作用が強いものだったりするものもある。

 インターフォンを押して、仮にお母様が出てきたとしても私はなんと切り出せばいいのだろうか。


 ――友達……か? 歳からしても事件の年なら4歳差だ。しかし、中学から引きこもってしまった彼に友達というのはどうなのだろう。


 しかし、友達を装っても統合失調症のことについて触れるのは大変だ。

 あれこれ考えが巡るが、どれもこれもパッとしない。しかし、私は木村君の家のインターフォンを気づけば押していた。

 念入りに計画を立てる私としては、自分の衝動的な動きに困惑する。

 それもあるが、一体、何回私はこの家のインターフォンを押せばよいのだろうと不安がよぎる。

 それにしても、一回死ぬという体験をしたわけだが、いまいち何もピンとこない。自分が死んだと自覚するなんて、どう考えても異様なことだ。

 暫く色々考えて放心状態でその場に待っていると返事が聞こえてくる。


「はい、木村です」


 女性の声がインターフォン越しに聞こえた。恐らくお母様だ。


「あの、私は木村冬眞君の同級生の……」


 慌てて自分の名前を言いかけて、言葉を失った。

 自分の名前を名乗ることができない。契約の内容に自分の名前を名乗ってはいけないというものがあったことを思い出す。


「えーと……日隈ひすみと言います。失礼ですが、木村君のお母様でしょうか?」


 偽名なら名乗れるらしい。これでいこう。名乗らないのは不自然すぎる。


「はい、そうですが……」

「突然伺って大変失礼かとは存じますが、少々お話していただけないでしょうか」

「少々お待ちください」


 よし、ここまでは順調だ。

 咄嗟に好きなバンドのヴォーカルの名前を名乗ってしまった。ラファエルのヴォーカルの日隈ひすみ弥生やよい。まぁ、これでいくか。

 そんなことを考えている内に玄関の扉が開いて、お母様が出てきた。やはり、木村君自身の顔の整い方を考えると、やはり綺麗なお母様だった。


「はじめまして。日隈 弥生と申します」

「これはこれはご丁寧に。ありがとうございます。冬眞の母です」


 綺麗なお辞儀をしてくれた。


「冬眞のお友達ですか?」


 ずっとひきこもりなのだから、友達なんていないって解っているのにあえてそんなことを聞いてくるのは、それは希望的観測なのだろうか。


「えーと、顔見知り程度だと思います。冬眞君は私のこと覚えていないかもしれませんけど」

「こんな美人さんなお友達が居てるのは、初耳やわ」


 お母様は口元を押さえて上品に笑った。嫌味なのか、お世辞なのか、本音なのか判別ができない。


「あはは、ありがとうございます。……えっと、あの……久しぶりにこちらに来まして、懐かしく思い……冬眞君にお顔合わせできませんでしょうか……?」

「………………」


 お母様の表情がこわばる。


「冬眞は今……病気で、あまり人と会える状態やないんです……」

「そうなんですか……もし、お力になれることがあれば。私は医療従事者ですので」


 医療従事者という嘘をつくことは憚られたけれど、そうでも言わなければ会えそうにもない。医学的な知識は普通の人よりもあるつもりだ。

 木村君のことで、相当に勉強した。専門医ほどではないだろうが、私も十分に話ができる程度にはなっている。


「そうなんや。ありがとう。でも、身体の病気じゃなくて……心の病気で……」


 それは、お母様に言われなくても痛いほど解っていた。


「…………私は心理学科を出ているので、言ってくださればどんな病気なのか解りますし、ご家族の方が苦労なさっているのは解ります……」


 実際に、木村君が殺人を犯した後のお母様の苦労は計り知れない。そうならないようにしないとならない。


「木村君には当時お世話になったので……なかなかこっちには来られないのもあって、彼とお話したいです。良かったらまずお母様からお聞かせくださいますか?」


 ここまで食い下がるのは、少し不自然だと思うけれど、ここまで言わないと話せそうにもない。


「……そうやったん……ありがとうね。私自身、どうしていいか解らないことも多くて……」


 もう一押しだ。


「もしこの後、お時間があれば一緒にお茶でもいかがでしょうか。ゆっくり話を伺いたいので……もちろん、お母様がよろしければですが……」


 断られたら手も足も出なくなってしまうけれど、やはり礼儀としては強引に進めることはできない。ただでさえ今の私は不審者なのだから。


「良かったら入ってください」


 お母様は私を家に上げてくれた。入ったところにすぐに階段がある。私はこの上にいる木村君のことを考えると暗い気持ちになる。


「お邪魔します」


 私は自分の靴を揃えて家に上げていただいた。


「少し、待っててや」

「はい」


 和室の客間にて座って待った。

 調べた限りの情報では、逮捕前に木村君はガラスなどを割ったり、食器を投げ出したりしていたらしいけど……この部屋は特に何もない。

 とはいっても、その状態でずっと放置するわけじゃないから当然と言えば当然か。

 落ち着かなかった。上の階には木村君がいる。まだ1か月前だ。なんとかできるかもしれない。いや、なんとかしなければならない。

 もしこれで失敗したら、次は入院していたという時期……事件から一年前まで飛ぼう。


 ――……でも、それでどうする? 私はずっとその世界にいられない……


 カウンセリングもなにも私はできない。事件を食い止めるのはできても、結局木村君が幸せになる道を選ばないと何の意味もない。

 なら引きこもり始めたときか。引きこもる前か。


 ――でも、人生そのものを変えてしまうような選択をしてしまって良いのか?


 私は悩んでいた。木村君の人生そのものを根底から変えてしまうような選択をしてもいいのか私は解らなかったからだ。

 どこで狂い始めてしまったのか、とにかく今できることは、投薬をキチンとしてくれるようにお願いしないとならない。結局は投薬が重要だ。過去が変わって木村君が事件を起こさないで現在の自分につなげるなら、そこからならどうにでもなる。

 しかし、それまでに数年の期間が空いてしまう。

 不安に駆られている中、お母様がお茶を淹れてきてくれた。私は正座から脚を浮かせて頭を下げる。


「すいません、気を遣っていただいて……」

「ええよ、そんな堅くならんと。脚崩してや」


 そうは言われても、流石に足を崩すのは失礼だと思うので私は正座したままお母様に向き合った。やはり木村君と同じ、整った顔立ちをしている。

 木村君と向き合っているようで、なんだか心苦しさを感じる。


「あの、お母様……さっそくではありますが、どのような状態か教えていただけませんでしょうか……?」

「冬眞は『統合失調症』って心の病気なんよ……どんな病気か、日隈さんわかる?」


 誰に言われなくても、私が一番解っている。だって一番近くで木村君を見てきたんだから。


「はい、幻聴や幻覚……被害妄想を抱く病気ですね」

「そうや。私、冬眞が何を言っているのか解らへんねん……」

「冬眞君はいつごろから統合失調症になったんですか?」

「そうやね……おかしなことを言い始めたのは今から二年前やね……」


 十八歳からか……。公判での情報と相違ない。入院したのも同時期だ。


「二年前のいつ頃ですか?」

「んー、十月くらいやったかな」


 ――私は発病は事件の丁度二年前ごろ?


 もっと前から発病している可能性もある。


「誰かに狙われているとか、警察に見張られているとか……嫌がらせを受けているとか言い出してな。色んな人に相談したんやで。そうしたら病院連れていきやって言われて、病院に連れていったら即入院やった……。病名聞いたときは何の病気か解らなかったんやけど、お医者さんから説明受けて愕然としてな……。本人はなんのことや解らんかったみたいやったけど……。入院中に身内に不幸があった話をしても、淡々と話してて……」


 お母様の口から紡がれるその言葉たちは、徐々に苦しいものになっていった。


「それで、3か月入院しててな。良くなってきたって退院したんよ。その後しばらく通院してたんやけど、薬飲むの嫌がって通院するのも薬飲むのも嫌やって、今年の3月くらいに行くのやめたんよ」


 お母様はつらそうな顔をして、言葉を詰まらせながら話を続ける。


「最近…………一人で大声で怒鳴り散らして、暴れたりして……怖くて……私もどうしたらいいか解らんねん……」

「……」


 私は自分の服をギュッと握りしめた。木村君のつらさも、お母様のつらさも、私は少しは理解できる。


「私が彼と話をしてもいいでしょうか……話してくれるといいですが……」

「日隈さんが? 冬眞の同級生やんな? ……にしても、標準語上手いなぁ。京都出身とちゃうん?」

「あっ……えーと。私は母が群馬県の出身で、私も今は群馬に住んでいるんですよ。だから関西弁じゃないんです」

「あぁ、そうなんや。冬眞が覚えているとええな」

「ええ……もう覚えていないと思います」


 拘置所での私と木村君の過去の会話を思い出した。

 あんな場所で話しただけなのに、たった1日30分程度。それだけなのに彼との貴重な楽しかった思い出。

 もう、あの思い出は私の中だけの、ただの思い出になってしまった。木村君は覚えていない。私と話したことも、何も覚えていない。

 私は目頭が熱くなった。視界が歪む。


 ――駄目だ、泣いちゃダメだ。


 そう思う気持ちとは裏腹に涙が零れた。口元を押さえる。声をあげないように。


「えっ、どうしたん日隈さん!?」


 お母様は口元に手を当てる私をみて、焦って声をかけてくれた。


「いえ、大丈夫です。すみません」

「何で泣いてるん!? どうしたん!?」

「あの……すみません、泣くつもりじゃなかったんですけど……木村君が……その…………良くなってくれるといいなって思いまして」


 いいな。じゃなくて、そうしなければならないんだけれど。私が必死に泣くのを抑えようとしていると、お母様も暗い顔をして苦笑いをした。


「……ほんまにありがとうな。私の方が泣きそうやわ」


 私は涙を懸命に拭って、お母様の目を見つめた。


「……すみません。……お母様、正直に申し上げますと……しばらく薬を飲んでいない今の木村君は、顕著に症状が悪化しています。独りで暴れたりしているのが何よりの証拠です。このまま放置すると……大変なことになってしまうでしょう」


 殺人、傷害、死刑。これ以上『大変なこと』なんてあるのだろうか。これ以上大変なことなんて存在しない。


「木村君は治療が必要です。私が話をして説得をして、投薬治療をしなければなりません……協力していただけますか?」

「……そうやと思うけど、なんでそんな……冬眞のこと心配してくれるん?」


 その質問に、私は再び服を掴む手に力が入る。下唇を少し噛む。


「…………冬眞君は、私のこと救ってくれた人なんです」

「冬眞が?」

「はい……。私に、私がずっとほしかった言葉をくれたんです」


 他の誰でもない、木村君だったからこそ私に響いた言葉。生きていてもいいと思わせてくれた言葉。あんなに救われたのは、後にも先にもあの時だけだ。


「老婆心で聞いてもええ?」

「……なんだか、恥ずかしいですが……彼は、私にこういってくれたんです。『本当に話すだけでも、心の支えになってます。ありがとうございます』って……」


 拘置所で私にそう言ってくれた。その言葉の重みが私にはよく解った。

 ずっと引きこもっていて、家族と少し話す程度。そして事件になり拘置所へ。検察官と弁護士と話すのもおそらく最初だけ。その後ずっと独り、机に向かっていたのだろう。

 ただ、ひたすら本を読んでいたのかもしれない。

 お母様は面会にこないと言っていた。

 本当に、本当に話す人なんていなかったんだろう。一般面会はたった30分だけ。それですら、会いに何度も足を運ぶ私に対してそう言ってくれた。

 また、涙が出てくる。結局彼は死刑判決になってしまった。

 私を救ってくれたのに、私を救ってくれた木村君は死刑になってしまった。


「冬眞がそんなこと言うたん? ……やったら、日隈さんのことを覚えていてると思うで。心の支えなんて言うてたなら」


 憶えていてくれたら、どんなにいいか解らない。今の木村君は私のことを影も形も知らないと解りきっているのだから。


「……私、精神疾患があるんです。統合失調症ではないですけれど……。具体的な病名が診断としてついているわけじゃないんですけど、心理学科を出ましたし、自分の病気のことは自分が良く解っています」


 これが思い込みだと思うこともあるけれど。思い込みだったらどんなにいいだろうか。


「社会人として、多少不便することもありますが、日常生活が困難なほどではありません。でも、日本では精神疾患というのはまだまだ理解されないものです。それは痛感します。冬眞君は特に、統合失調症という病であるという事は、理解されなさを私よりも強く感じていると思います」


 ――誰のことも信じてません。信じられるのは自分だけです。

 ――みんな嘘つくし、誰も協力してくれないし。


 木村君の声が鮮明によみがえると、私はまた涙を落した。


 ――駄目だな、泣いてばっかりだ……


 その理解されない苦しみが、私には痛いほど解るから。統合失調症の苦しみ自体は解らないけど、それでも、その歳でそんな気持ちで生きているなんて悲しすぎるよ。

 泣き出した私に、お母様は戸惑っていた。


「あはは、ごめんなさい。感情的になってしまって……」

「ええよ、ええよ。そんな真剣に冬眞のこと考えてくれる子がいたなんて、私嬉しいわ」

「あの……無責任かもしれませんが、私……明日で群馬に帰らないといけなくて。だからずっとここで木村君を支えることができなくて……ごめんなさい。今日説得しますけど、今後もし、本人が嫌がったとしても投薬を辞めないでください。必ず信頼のおける精神科医に通わせてください」

「あら、そうやの? たまには遊びにきてや。冬眞もそのほうが――――」

「えっと……そうしたいんですけど……」


 来られるとしても、もうあと一度しか来られない。本当はそうしたいけれど。


「私……どうしても来られない理由があるんです。今も結構無理にきていると言いますか……理由は申し上げられないんですけど……」


 もし、会いに来られるとしてもそれは数年後の話になってしまう。現世に帰って会いに来られるならいいけれど、とにかくそれまで無事でいてくれないと話にならない。


「そうなんや……残念やなぁ。冬眞のことそこまで考えてくれる人がいたと思って嬉しかったんやけど……。日隈さん、冬眞のこと好きやろ?」


 お母様が少しニヤニヤしながら聞いてくる。私はお茶が本来入ってはいけないところに入り、盛大にむせた。


「ごほっ……ごほっ! お母様、何をおっしゃってるのですか!?」


 胸を叩く。苦しい。


「飲み屋で働いてたら人を見る目も肥えてくるんよ。日隈さん絶対好きやろ?」

「……えっと……その……好きですけど……」


 嘘もつけずにそのまま自分の言葉を言ってしまう。


「でも不思議やねぇ。ずっと冬眞のこと好きやったん?」

「……いえ、その……あの……」


 私がしどろもどろになっていると、お母様は笑った。


「冬眞をよろしゅうね」


 私は、少し心が痛んだ。お母様のことは良く知らない。でも、お母様は木村君を放置した。そうせざるを得なかったのは解るけれど。本当に木村君を支えてあげられるのはお母様なのに、ずっと木村君は拘置所で寂しい思いをしていた。


「はい。できることはします」


 私は木村君の部屋の前に来て深呼吸をした。私がノックしようとしたとき、中から叫び声がする。


「おいこら! お前なんやねん!?」


 と怒号が聞こえてきた。報道の通り。一人でいるにも関わらず、差し迫った緊迫した声が聞こえてきた。


「なにしてんねん!? うるさいんじゃ!」


 どんっ!!


 壁を殴る音。


 ――どうしよう、今はまずいか?


 そう考える間もなかった。私は時間がない。それに、そんな状態の木村君を思うと私は涙が浮かんだ。


「木村君……」


 中には聞こえない程度の声で木村君の名前を呼んだ。

 しばらくそのまま立っていた気がする。中から何の音も聞こえなくなったのは、それから10分くらいしてからだろう。私は意を決してドアをノックした。


「……木村君、ドア越しでいいから話を聞いて。私……日隈……弥生っていうの」


 偽名を言う言葉にも、その後の言葉が喉につかえる。まるで、声を出すこと自体を忘れてしまったかのように。


「…………木村君が脳のチップから聞こえてくる声に苦しんでいるの知ってる。助けたいの。ずっと教唆の声が聞こえてくるんでしょう? ……話がしたい。扉越しでいいから返事をして」


 中から、何の音もしない。それでも私は語り掛け続ける。


「誰のことも信じられないのは解る……私もそうだから。でも私は君を傷つけたり、騙したりするつもりはないから。それだけは解ってほしい」


 やはり、中から何も聞こえない。


「木村君は……ずっとつらい思いしてきたの解るよ。その苦しみも少しだけは解る。時間がないの。お願いだから返事をして……話をさせて……」


 私は泣き出していた。今までの思い出が溢れる。

 拘置所で笑ってくれた木村君。話をしてくれた木村君。人生をやり直したいと言っていた木村君。細い身体、うつろな目、長い髪。


「人生やり直したいって言ってたじゃない……木村君……っ……うっ……」


 涙が溢れる目を、手で拭いながら訴える。

 少しすると、ガチャリ……扉が少し開いた音が聞こえた。涙で歪んだ視界で、その方向を見ると木村君が訝し気な顔をしながらこちらを見ていた。


「木村君……」

「……………………」

「突然、ごめん。訳解んないだろうけど、話を聞いてほしい。…………はじめまして」

「はじめまして……」


 私と君が初めて拘置所で交わした言葉。「はじめまして」。おかしな感覚に陥る。私は君のこと、こんなにも知っているのに。


「……私の置かれている状況が、お分かりになるんですか?」


 変わらない声。それに朗々と青年らしい声。またそうやって、初めて見かけた時のように綺麗な敬語で話してくる。


「教唆がずっと聞こえるんでしょう? 脳実験に使われて……」


 私がそう言うと、木村君は目を逸らして、そして私の目をまた見た。


「…………助けて……くれますか……?」


 縋るような声。苦しみ、疲弊して、どこまでも暗い深海の底でもがいているような、そんな状態。息をすることすら許されない。


「そのために来たの…………。私の言う事を理解してくれたら……助けられるかもしれない」


 予想よりも普通に話しをしてくれて、私は希望が見えた。


「木村君……少し世間話でもしない? 私のこと、全然解らないと不安でしょ?」


 私は苦笑いをする。私は君のこと、君よりも知っているけれど。


「ちょっと……どこか、外でもいいから座って話ししたい」

「…………入りますか?」

「えっ……入って良いの?」

「はい……少し待っていてください……」


 驚いた。絶対に部屋には入れてくれないと思ったから。

 一度部屋の扉を閉めて、何やら片付けるような音が中から聞こえてくる。


「……まだ散らかっていますが」


 そう言って木村君は扉を開けた。

 中は暗く、それに刃物やモデルガンなどが散乱していた。掃除もしていないようで、服やらゴミやらが散らかっていた。パソコンだけが煌々と光を放っている。

 さきほど片付けたような音は、一先ず私が入れる分だけのスペースを無理やり作っただけだったようだ。


「あはは、木村君。本当に散らかってるね」


 さっきまで悲しい気持ちだったのに、私は少し笑ってしまった。でも、片付けをする気力もない程苦しんでいるということだろう。


「すみません。片付けるので……」


 壁を見ると、そこら中の壁に穴が開いていた。ヒビも入っている。

 拘置所で初めて会ったときと同じ、あのときのぎこちなさ。


「私は日隈弥生っていうの。木村君のひとつ上。群馬からきてるの」

「群馬ですか? 遠いですね……どうして私のこと知っているんですか?」


 本当に、どうして私は君を知ってしまったんだろう。そんな自問が自分の中でフッと湧いては溶けていく。


「……かなり昔、知り合ったの。私は木村君のこと覚えているけど、木村君は覚えていないと思う」

「えーと…………いつ頃の話ですか?」

「そうね……いつだったかな」


 私は覚えている。

 あの日、君を初めて見た時のこと。法廷で君を見た時のこと。手錠をかけられている君のこと。


「覚えていないくらい前。木村君が私のこと助けてくれたんだよ。ほんの些細なことだったけど……私はそのときに救われたの」

「私がですか?」

「まぁ、そんな話はどうでもいいから、私の話をよく聞いてほしい」


 私は少し物をどかしてその辺の床に座った。


「木村君は、統合失調症って診断されて一回入院してたよね?」

「…………はい。でも私は統合失調症ではありません」

「うん。解ってる」


 やっぱりそう思っているんだと私は再確認する。


「処方されていた薬を飲むと、内臓がボロボロになるって理由で飲まなくなったでしょう?」

「はい……やはり薬を飲み続けると、副作用で身体に悪影響があると思うので……」


 確かに副作用があるだろうけど、副作用とうまく付き合っていく方が死刑になってしまうよりずっといいと私は思う。君は殺人も死刑も望んでいなかったのだから。副作用なら、医師にきちんと説明すれば、普通の医師であれば薬の調整もきちんとしてくれるはずだ。


「そうだね。副作用はきついと思う。私も薬飲んでいたときがあったから、その苦しさは解るよ。副作用の種類は違うだろうけど」

「………………」

「でもね、処方された薬を飲み続けないと君はもっと酷い状態になってしまう。最近、声がよく聞こえるようになったでしょう。君の脳のチップの問題は、まず薬で抑制しないと解決することはできない。副作用については医師に都度報告して調整してほしい」

「………………」


 木村君は目を逸らして黙り込んだ。これは、気が進まないときの反応。


「嫌なのは解ってる。私が嘘をついていると思う気持ちも解る。突然現れて、訳わかんないかも知れない。でも、信じてほしい。私には……時間がないの」

「薬は……飲みたくありません…………そんなすぐに信じられないです……私は命を狙われているんですから」


 公判のときに「命を狙われている」と言っていたことを思い出した。こんなに追い詰められているのに……彼の周りの人間は、これがどの程度重篤な状態なのか解らないのだろう。

 いや、解ったとしても、どうしたらいいか解らないのだ。私だって解らないことはある。


「……そうだよね。それでも、さっき暴れていたのは声がずっと聞こえるからでしょう? このままいくと……君はそのうち人を手にかけることになる」

「私がですか? 犯罪とか殺人なんて許せないです。そんなことをするとは考えられません」


 私だって、初めて会った君が人を殺している人には見えなかったし、信じられなかった。そんなところ、想像できない。でも、君は確かに人を手にかけてしまった。

 私もその狂気に一度命を奪われた。


「……だって、教唆に従わなければ危害を加えられたり、それに感情や感覚をコントロールされたりするんでしょう? 木村君の意思や思想とは関係なく、このまま悪化したらそうなってしまうと思うよ……」

「……日隈弥生さんは、誰も信じてくれない私の状況のことをよく知っていますし……、何者なんですか?」


 ふと、自分が木村君にとって、なんなのか解らないことに気づく。恋人でもなく、友人というのが一番近いだろうか。


「んー……私も、なんだろうね。解らない」


 自分が何なのか、自分でも説明が付けられない。魔と契約し、精神を保ち続ける私は、化け物なのだろうか。


「私、今日しか君に話ができない。だから、今日なんとしてでも説得しないといけないの」

「どうして今日だけなんですか?」

「……群馬に帰らないとといけないから。そしたらもうしばらくは来られなくなっちゃって……本当は木村君の今の状態を放置したくないんだけど……」


 本当だったら、状態が良くなって、投薬の管理も本人やお母様ができないなら私が管理したいくらいだった。突然服薬を辞めると、離脱症状で苦しむことになる薬もある。


「…………国が幇助している犯罪組織を止める手伝いをしてほしいのですが……」

「……解った。でも、それはまず木村君が薬を飲んで頭の声をおさえてからになる。約束を守ってくれたら……二年後、また会いに来るから」


 ちょうど、中間だ。

 私が現世で二十四歳の頃にはもっと頻繁に会いに来られる。こっちに住んでもいい。近くで見守っていたい。

 それまで、どうしても持たせなければならない。


「二年ですか? 随分先ですね……」


 私にとってはすぐのことだが、木村君にとって二年は長い年月になるだろう。


「……木村君、人生やり直したいって言ってたじゃない。薬飲んで落ち着いたら、君の人生考えないとね」


 私は時間を確認した。まだ時間はある。

 時間を忘れるように、他愛のない会話を木村君とした。拘置所で話した内容とも重複する内容だったり、別のことも木村君は歯切れが悪くも話してくれた。

 そうしている内に徐々に木村君も打ち解けてくれて、普通に話をしてくれるようになった。あの時と同じ。

 木村君は、誰に言っても信じてもらえなかったのだろう。

 拘置所で徐々に私のことを信用してくれたのと同じように話をしてくれた。それだけ、今まで誰にも話せなかったのだと思うと痛ましさが募る。

 こんな状況での話でも、話ができることがこんなに嬉しいなんて。

 私は話していて嬉しい気持ちと、それからどうして死刑になってしまったんだという悲しい気持ちが織り交ざり、度々言葉に詰まった。


「……木村君、ずっと言えなかった言葉を言ってもいい?」

「……?」


 私は口を開きかけたが、これを今の木村君に言っても仕方ないと思い、口をつぐんだ。

 左腕のブレスレットの位置を調節するために私は左腕を軽く振った。シャラシャラ……軽薄な金属音が短く響く。


「ううん、なんでもない。……あのね、木村君。私、ずっとずっと、木村君が幸せになってくれることを祈り続けてきた。だから……幸せになって」

「…………」


 木村君は困ったように視線を泳がせた。

 もう少し話をしていたかったけれど、言葉を交わすたびに私と木村君との距離は開いていってしまう。楽しかった思い出も、全部木村君は過去に遡るたびに。

 そもそも、過去から順当に行けば良かったかなと思った。

 イジメがあったときまで戻った方がいいだろうか。気が動転していたせいか事件から遡っていっているけれど……でも、そんなに過去から人生に干渉したら、人格そのものすら変わってしまいそうで。そうしたら私が愛した木村君ではなくなってしまう。


 ――でも、それで木村君が幸せになってくれるならそれでもいいのかもしれない。


「私はね、今の木村君が好きなんだ。それって、今までの経験があってこそだと思う。つらいこととか沢山あったと思うけど、それがなかったら今の木村君にはなってないと思うから。まぁ、根本的なところの繊細さとかは、変わらないと思うけど」


 木村君は黙って私の話を聞いていた。


「幸せになってほしいなんて言いながら、今の木村君が好きだから。私、わがままだよね」


 私が苦笑いすると、木村君はいつも通り困ったような顔をしていた。相変わらず抽象的な話をすると黙る癖は変わらない。


「何言ってるか解らないと思うけど、それでも薬の件は約束守ってほしい。解ってくれた?」

「……はい。解りました」


 素直な子で良かった。少し強情なところもあるけれど、根本的なところでは良い子だと私は再確認する。


「うん……じゃあ、私……そろそろ行くよ。もっと話していたいけど、でも……」


 ずっと、話していたい。だってこんな風に話すのは初めてだったから。制限時間はあるけれど、明らかに30分よりも長い。間に仕切りもない。第三者もいない。

 でも、私と木村君の間には埋められない時間の壁がある。統合失調症の病の壁がある。君が正気に戻ってくれたらどんなにいいだろう。そんなことを私は考えた。


「お母様を困らせたらいけないよ」


 私は木村君にそう告げて、木村君の部屋を後にした。去り際に手を振ったら、会釈して私を見送ってくれた。


「冬眞どうやった……?」

「一応、薬を飲むことを承諾してくれました。もう、明日から病院に連れて行って再度飲ませてください。私は……そろそろ帰りますから」

「もう帰ってしまうん? 食事でも……」

「いえ……遅くなってしまいましたし、気遣っていただきましてありがとうございます。また、しばらく来られないですけど、寄らせていただきます。冬眞君とお話できて良かったです」


 お母様に薬を飲ませることを念を押して、私は木村君の家を後にした。


「……2年後に行くか……これで3回目」


 私は目を閉じて意識を集中する。これでうまくいくことを信じて。




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