第14話 死と生

 




【水鳥 麗 十四】


 それから一週間後、群馬に帰った私は再度京都へ行くことを決めた。

 それまでに私は木村君の事件について調べた。

 検察側の求刑は死刑。弁護側は心神喪失で無罪を主張していた。

 死刑か無罪か、零か百か。


 ――そんな……死刑だなんて……


 死刑という文字が私の目に焼き付いた。そんなの絶対にダメだ。あれだけ酷い統合失調症で、公判を聞いている限りでも言っていることは犯行と一致していない上に、支離滅裂な部分が沢山あった。

 それに……自分に何度も会いに来てくれている木村君は、人を殺すような人間に思えない。

 まだしばらく調べていると、木村君の生い立ちについての記事を見つけた。

 それを見るのは木村君に後ろめたさを感じたが、私はそれを見た。そこには思ったよりも凄惨な過去がつづられていた。


「………………」


 イジメが原因で引きこもりになり、うまく生活できない状態になってしまったこと。

 長期間の引きこもり生活で暴れたりしたこと。

 母子家庭で母は家にいないことが多かったこと。

 統合失調症が原因で入院していたこと。


「…………ッ……」


 私は胸が潰れる想いになった。

 それで、この世界の木村君はひきこもりになってしまったんだと考える度、ずっと自分が患っている病を木村君に重ね、目頭が熱くなり涙が出た。

 精神疾患は今の日本ではろくに理解してもらえない。まして、統合失調症は尚更理解してもらえないことを私は知っていた。

 その孤独と、生きづらさを誰よりも。


「木村君……」


 ラファエルの言葉を思い出す。

 私は過去に木村君を救っている。だとしたら、今度も救えるはずだ。私は遺書を書き続けているノートを開いた。高校のときくらいに書いたものだ。


 〈僕のこの他者に対する異常なまでの救済欲求は、ある種のメサイアコンプレックスというものだと自覚している。大切な人の痛みを理解できなかった自分が苦しいと感じるあまり、僕はそれが酷いトラウマになっているのだろう。まして、自殺念慮のある自尊心の低い僕は、大切な人を助ける為なら命すら簡単に差し出してしまう。しかし、現実はそう簡単なものではない。命を差し出せば助かるなんて簡単なものであるなら、とっくに命を差し出しているだろう〉


「遺書も……もう六冊目か……いつになったら死ぬのかな……」


 私は鍵付きの箱に遺書をしまい、鍵をかけた。




 ◆◆◆




 京都拘置所に足を運んだ。

 会えるか会えないか、正直定かではないけれど、きっと会えると確信していた。

 物々しい建物で、そこに『京都拘置所』と大きく書かれている。中に入ると異質な空間だと私は感じた。

 電子機器はすべて入口で預けさせられるようだ。空港で通るような金属探知機を通り、係員に徹底的に身体検査をうける。面会の受付を済ませ、拘置所の待合室で待つ。

 中は古い病院のような雰囲気だ。古いソファが横方向に並んでいて、差し入れする窓口と面会の受付する窓口が部屋の両端にある。

 待っている人たちの半分以上は、刺青を入れていたり、いかにもな金色の時計や厳ついネックレスをつけていたりと、“その筋”の人たちだろうと私は畏怖の念を抱いた。

 私が入ると彼らは私の方を一瞥する。


 ――こんなところ、くることになるとは思わなかった……


 会えるかどうか、正直まだ信じられずに心臓がうるさかった。訳も解らず、手も震えた。


 ――拘置所って、調べた限りだと誰でも面会できるみたいだったけど……他人同士が会って何を話すっていうんだろう……


 心臓が握られているような緊張感の中、少ししてから私は面会室に呼ばれた。

 鉄の階段を登ると、奥に一列部屋がずらりと並んでいる様だった。

 緊張しながらも放送で呼ばれた面会室の前に私は立つ。


「はぁ……」


 息を吐き出して、ドアノブを掴んで捻り、面会室へと足を踏み入れる。

 武骨な番号の書かれている扉を閉めて中を見ると狭く埃っぽくて汚い部屋だ。中に入るとまだ木村君はいなかった。

 間に格子つきのアクリル板がある。誰もいない面会室に私ひとり。心臓の音がやたらにうるさい。

 少しして、扉が開いた。

 そして髪の長い青年が入ってきて、私と目が合う。

 やっぱり顔立ちはラファエルそのままだ。ただ、それよりも更に痩せている印象を受ける。肌は少し焼けていて、髪の毛は私よりも長く、胸のほうまで伸びていた。

 生気のない目をしていて、その様子を見て私は目頭が熱くなった。


「番号札を見せてください」


 刑務官の人が私にそう言った。私は自分の番号札を刑務官の人に見せて「いいですよ」と言われる。

 拘置所の面会など初めてだ。椅子に座るタイミングすら解らない。

 第一声も何と言ったらいいか解らず、二秒、あるいは三秒程度見つめ合う。


「は……はじめまして」


 ぎこちないにも程がある挨拶をした。ラファエルがあれだけぎこちなく私に接していた気持ちが私にも解った。


「はじめまして」


 私に対してハッキリとした声でそういった。真っすぐ私の目を見てくる。ラファエルと同じ様子を見ると、やはり同一人物なんだと感じた。

 頭の中で色々考えが巡るけれど、私の口からは第二声が出てこない。


「えっと……裁判の傍聴で知って、それで……会いに来たというか」

「…………あのとき、私のところまで走ってきた方……ですよね?」

「そう……だよ。よく覚えているね」

「なんだか……懐かしい感じがしたと言いますか……会ったことありますか? ごめんなさい、私は覚えていないのですが……」


 私は涙が出そうになった。しかしそこは懸命にこらえる。


「ううん、初対面だよ……君の記憶が正しい」


 何度も私を助けてくれたよ。何度も、私のところへきてくれた。そう、言いたい気持ちをこらえ、私は裁判の話を彼に振った。


「裁判で初めて知ったの。それで会いに来るのも、おかしいと思うかもしれないけど……」


 過去の私も、同じことを言っていたのだろうか。裁判の傍聴をしただけで会いにくるなんて、どうかしている。それがどういう因果か、命をかけることになるなんて想像もできない。

 自分の行動であるのに、全く予測ができない。


「あんな裁判ありえないですね。人権侵害も甚だしいです。水鳥麗さんもご存知かとは思いますが、国が事件を隠蔽しようとしているんです」


 木村君ははっきりとした口調で、徐々に私に話し始めた。うつろな目をしている。しかし、その話のほとんどが、統合失調症による妄想の話であった。裁判で話していた内容とかなり重複している。

 自分が置かれている状況のこと、自分はしていないということ、脳の実験に自分が使われていること、犯罪組織が自分を貶めたこと……等。

 聞いていて、堪えきれずに私は涙が出てきた。


「うっ…………ご、ごめん」


 私は慌ててハンカチをポケットから取り出して口元を押さえる。


「どうしたんですか? 大丈夫ですか……?」


 心配そうな顔をして、木村君は私の顔を見てきた。


 ――あぁ、どうして……どうしてこんなことになっているの……?


 私は声にならなくて、大粒の涙を流すしかなかった。木村君も困って私の顔をおどおどしながら見つめる。しかし、時間は有限だ。たった30分しかない。残り時間は十分を切っている。

 私は必死に泣き止んで、無理やり笑顔を作った。


「ごめんね……あの…………酷い状況だと思ってさ……」

「すみません……なんというか、泣いてくれる人がいるなんて思わなかったので、驚きました……」


 この木村君が、どんな気持ちで生きてきたのか想像しただけで、私は心が痛かった。ずっと独りで誰にも理解されずに生きてきたと思うから。

 私もそうだ。理解されずに生きてきた。理解してくれる人がいるなんて妄想は捨てて生きてきた。


「木村君、信じられる人はいる?」

「いないですね」

「弁護士の人も?」

「信じていないです。信じられるのは自分だけですね」


 またも私は涙で視界が歪んだ。若干二十歳そこそこの青年が、そんな悲しいことを言うなんて。私と重ねて見てしまった。その苦しさが解ったから余計に悲しかった。


「ご、ごめん。本当にごめん。泣くつもりはなかったんだけど」


 私が苦笑いをしながら涙を拭うと、木村君は何も言わずに私の方を見ていた。


「木村君は無罪になったら、何したい?」


 私は無罪が妥当だと思っていた。殺人を犯したのは変えようのない事実だ。でも、本人が正しく罪の自覚をしていないのに刑務所へ入れたところで、更生するわけがない。このままでは統合失調症が治らなくなってしまうような気がした。

 今しっかりと治療をしなければ。

 私の問いに対して、木村君はこう答えた。


「私は無罪になりたいのではなくて、全てを明らかにしてほしいんです」


 意外な答えに私は戸惑った。

 自分が殺していないという主張をしているのにもかかわらず、どうして無罪になることを望んでいないんだろうと。


「今回の事件で、人が亡くなっているじゃないですか。私も巻き込んでしまった加害者側としてここに居るわけですけど、すごく申し訳なく思っています。当たり前ですよね」


 ――巻き込んだっていうのは、自分がまきこまれている国の陰謀に巻き込んでしまったことに対して責任を感じているってこと?


 木村君は目を逸らしてから、もう一度私の目を見て話す。


「犯罪とか、殺人とか、許せないじゃないですか」


 私はなんと声をかけたらいいか解らない苦しさで、胸がいっぱいになった。

 虚勢や嘘の類ではない。弱々しく紡ぎだされる偽りのない正義。


 ――本当に……どうしてこんなことになってしまったの……?


「早く……出られるといいね」


 涙を堪えられずに泣きながらそう言った私に、木村君は続ける。


「…………ここから出たら、人生やり直したいです」


 彼がそう言った後、終わりのアラームが鳴り響いた。言葉に詰まってあまり話せなかったけれど、30分はあっという間だった。

 私は名残惜しさと、磐余いわれのないやるせなさで涙が止まらなかった。

 ラファエルと木村君を比較しても、やっぱりこんなことは私は納得できない。


 ――もし君が、どうしようもない快楽殺人者なら、私は潔く君のこと見限れたのに。


「また……きてもいいかな?」

「大丈夫なんですか?」


 気遣う言葉。


 ――どうして自分はそんなギリギリの状態なのに、私を気遣うような言葉を言ってくれるの?


 たったそれだけの言葉なのに、胸が潰れそうなほどに痛い。


「うん。群馬から来ているから、なかなかこられないけど……」

「遠いですね」


 木村君は驚いて私の方を見た。そんなふうに、普通の会話もできるなんて余計に残酷だった。私の目には彼は普通の人に見えた。ただ、統合失調症なだけ。


「じゃあ、また」


 私は木村君に手を振った。彼は軽く会釈して、重々しい扉から出て行った。

 私は泣きながら拘置所から出た。

 涙が止まらない。息ができないほど苦しい。


 ――統合失調症の症状の幻覚と幻聴と妄想にずっと苦しんでいるのに、これ以上彼をどう苦しめようというの?


 人を殺したことは確かに許されることではない。でも、それは木村君のせいじゃない。望んで統合失調症になったわけではないのだから。

 過去の私が救おうとした理由も解る。こんなの、あまりにも誰も救われなさ過ぎる。


「結局……会いに行ったんですね」


 後ろから、先ほど話していた木村君と同じ声が聞こえてきた。

 ふり返ると、ラファエルがこちらを見ていた。先ほどの木村君よりはやはり血色も幾分かよくて、痩せているにしても病的には痩せていないような印象を受ける。

 私は涙で濡れた顔をラファエルに見せたくなかったけれど、私は彼の顔を見つめた。


「……泣いてくれるんですね」

「当たり前だよ……こんなの……」


 私は立ちすくんで必死に声を殺して泣いた。まるで自分を見ている様だった。

 私も一歩間違えたらあっち側にいただろう。私と彼の違うところは一体何だったのだろう。遺伝といえばそれまでになってしまうが、そんな簡単に片づけられない。

 ラファエルが私に近づいてきた。


「私は殺人を犯してしまいました……拘置所にいるのは仕方のないことだと思います」

「仕方なくなんか……ない…………っ! こんなの……あんまりだよ……」


 私はラファエルの身体を抱きしめた。

 細い身体。

 無性にその感触が尊く、酷く懐かしさを感じさせる。強く抱きしめると、折れてしまいそうな身体。でもこれは木村君であって木村君ではない。同じ人なのに、違う人。

 ラファエルは戸惑いながらも、私の身体を抱き返してくれた。弱々しい抱擁だった。


「麗さんは……そうやって私の為に泣いてくれました。だから……」

「助けたい……何とかしてあげたいよ…………」


 ラファエルは私の身体を離し、私の目を見て言った。


「駄目です。彼を…………私を見捨ててください」

「何……言ってるの……」

「前にも言ったかと思いますが……もう、私は麗さんに助けられました。別に私は、麗さんが美味しい料理を作ってくれなくても、たくさん話してくれなくても、少し意地悪をいう人でも、誰よりも優しいって知ってます。絶対に裏切らない人だって信じられます。私が誰のことも信じられなくなっていた時も、ずっと遠くからわざわざ来て話をしてくれました。それに、どれだけ支えられたか解りません。もうそれで十分です。これ以上踏み込んだら……また……」


 ラファエルは珍しく多弁に私にそうまくし立てた。それでも私は納得できない。


「教えてよ……。あなたみたいに私が過去にさかのぼって木村君を助けるから……方法を教えて……死刑なんて絶対に嫌……」


 そこで私はハッとする。死刑と口に出したとき、私は思い出した。




 ***




「――――よって、被告人に死刑を言い渡す」


 裁判長がそう発した瞬間、私は立ち上がった。みんなが立ち上がった私を見る。ただ一人、私の方を向いていない人がいた。

 被告人、木村冬眞だ。


「木村君……」


 涙で視界が歪む。前方がよく確認できない。

 私はよろよろと被告人と傍聴人を遮る柵に手をかけた。

 そこで、崩れるように私は泣いた。私が声を漏らし泣き始めると、木村君は私の方をやっと向いた。でも、私は木村君の顔が涙で歪んでよく見えない。


「木村君……木村君…………ッ」


 消え入りそうな、まるで絶命寸前の蜉蝣が鳴くかのごとき声で、彼の名を呼んだ。


「どうして……木村君は…………」


 木村君がゆっくり私の方に近づいてくる。その間にすかさず刑務官が入り、私と木村君を隔てる。


「木村君……!」


 周りの目など、一片ひとひらも気にもならない。他の声も聞こえない。ただ、私に手を伸ばす木村君の手を、私は一瞬掴んだ。そして力いっぱい強く引き寄せる。

 そこで初めて木村君を抱きしめた。長い髪が私の泣き顔を隠す。木村君を強く、強く抱きしめた。もう、これが最初で最期の抱擁。


「このまま……二人で逃げちゃおうか……」


 木村君にだけ聞こえる声で、私はそう囁いた。


「麗さん……」


 木村君が私の名を呼んだ直後、刑務官に引きはがされる。涙で歪んだ視界。それでも、木村君も泣いているのが見えた。私たちの手はまだ離れきっていない。


「今までありがとうございました。短い間でしたけど……私は…………麗さんに支えられました」


 泣きながら、私に笑顔を向けてくる。そうして私と木村君の触れ合っていた手は虚しくも離れた。


「嫌だ、木村君、嫌! 『今まで』だなんて……言わないでよ……!」


 刑務官に手錠をかけられて、腰にひもを通されて木村君は連れていかれる。


「木村君! 木村君!! 連れていかないで!」


 私は柵を乗り越えて身を乗り出した。他の刑務官が私を取り押さえる。必死に手を伸ばすけれど、木村君には届かない。

 シャラシャラ……ネックレスがこすれる音、ブレスレットが、私が暴れて動くたびに軽い金属を奏でる。


「木村君……ッ」


 声が出ない。苦しすぎて、叫ぶ声も喉からまるで出てこない。枯れた声。息ができないほどの窒息感。

 出て行く扉の前で私の方をもう一度振り返る。


「さよなら……」


 その言葉が胸に刺さる。心臓がその言葉で止まったら、どれだけ楽だっただろうか。木村君の最期の、寂しそうな顔を私は見送らなければならなかった。

 取り押さえられている私は、暴れる気力もなく法廷の床に伏した。


 ――そんな顔、しないでよ。笑っていてよ。私の隣で、ずっと。ずっと。お願いだから。木村君……木村君……どうして君なの……君はずっと統合失調症で苦しんでいたじゃないか……なのに、どうして更に苦しむ未来を与えられなければならないの……――――




 ***




 暗闇に白い蛇が浮かぶ。私に問う声。縋る想いで私は『契約』したことを思い出す。


「……そうだ、私……白蛇と契約したんだ……」


 私はラファエルの周りを見渡した。


「聞こえているんでしょう。出てきて」

「麗さん、ダメです。何をする気なんですか?」

「……今の契約者は木村君なんでしょう……? 呼んで。あの魔を」

「呼んでどうするつもりなのですか?」

「交渉したい」

「交渉って……これ以上あなたは何を差し出すというんですか!」


 言い争っていると、突然、ラファエルの声でも、私の声でもない声が聞こえた。


かしましいぞ」


 どこからともなく、ラファエルの身体から、眩しいほどの白蛇が姿を現す。


「契約違反者が交渉などと、傲慢にも程があるぞ、小娘」


 白蛇は首を大きくもたげて私を威嚇してくる。


「一部だけ思い出した……私の記憶を全部返して。話はそれからだよ。私にはまだ用事があるんでしょ? だからこんな回りくどいことをしている……違う?」


 白蛇は黙って私の周りをぐるりと囲んだ。今にも飛びついて私の喉を噛み切ろうとする勢いだ。


「ふん……私と契約できただけの娘よ。褒めてやってもいい。その傲慢さだけはな……」

「このままお互いに意固地になっていても、何の解決にもならないんじゃない?」


 私は冷や汗が出てきていた。これは、一か八かの交渉だ。この白蛇の気が変わらなければ現状打破はできない。


「それに……木村君に憑くなんて、契約違反じゃない?」


 白蛇はしばし私の言葉に思考を巡らせた後、紅い血の色をした果実をどこからともなく取り出し、それをゆっくりと渡してくる。


「これがお前の罪の記憶だ。くれてやる」


 私が手を伸ばしてそれを受け取ろうとすると、ラファエルは乱暴に奪い取った。


「駄目ですこんなもの――――」

「木村君」


 必死に声を絞り出して彼の真名を呼ぶ。


「木村君、それを渡して」

「渡せません、麗さんは私を忘れてくれれば幸せになれるのに……私が死刑になる未来を変えなければ……あなたは……」

「私の幸せを、君が勝手に決めないで……」

「そんなの……僕だって麗さんに僕の幸せを決められたくないです!」


 そう言われて私はハッとする。

 あぁ、そうか。善意の押し付け合いになってしまっているんだ。

 私が一番したくなかったことなのに、私は結局自分が嫌悪していた人間と同じことをしているんだ。そう気づく。同時に、裁判所へ行くときに引き留められたときに、彼に酷いことを言ってしまったことも思い出す。


「……僕が……麗さんにどれだけ救われたか……解りますか? ずっと独りで苦しんでいた僕に、唯一手を差し伸べてくれたんです。どれだけそれが嬉しかったか……死刑を言い渡されたときに僕は絶望しました。でも、それでも僕のために一生懸命になってくれた麗さんを思い出すだけで……僕は救われていたんです。なのに……命も人生も捨ててまで……僕に一時の幸せな思い出をくれました。でも、麗さんのことを思い出したとき、僕は……ッ……僕は……麗さんとの思い出だけで……良かったのに……」


 木村君は泣き出してしまった。大粒の涙を拭いもせずにハラハラと、長い睫毛が涙で濡れる。瞬きするたびにその涙はあふれ出していた。


 ――本当は『私』じゃなくて『僕』って一人称なんだ。そっちの方がずっといいよ。変に大人びた話し方しているの、聞いていてつらいもの。


 私は木村君に歩み寄って、また抱きしめた。木村君の長い髪の毛を優しく撫でる。


「ごめん……覚えてないけど、でも……きっと大好きだったんだね。そこまでして助けたいって思う価値が木村君にあったんだよ」

「僕は……そんな大した人間じゃないです……中身も全然伴っていないですし……」

「……泣かないで。笑ってた方がいい」


 私が身体を離すと、木村君は涙を乱暴にぬぐって、無理やり笑った。その下手な笑顔を見て、やっぱり過去の私は間違っていなかったと確信する。


「木村君、それを渡して」

「……嫌です」

「大丈夫、私のこと、信じているんでしょ? なんとかするから。ね?」

「…………けど……」

「木村君、私の目を見て」


 無言で私の目を見つめてくる。泣いた後の赤い目。涙の跡がまだ残っている。


「私は『頭が良くて、いつもしっかりしてる』んでしょ? そう言ってくれたじゃない。大丈夫だから」


 まるで子供をなだめるかのように木村君に言い聞かせる。

 恐らく、大人びた話し方をしているけれど、中身はまだ純粋な子供のように素直なのだろう。今までの挙動や言動からそう感じる。

 木村君は納得していない様子だったけれど、渋々と手に持っている果実を渡してくれた。


「ありがと」


 シャラン……私が左腕を木村君を撫でようと上げると、つけている銀のブレスレットがこすれて音がする。私は彼の髪を撫でると、彼の少し硬い毛質を感じた。

 果実を食べ始める。甘い、濃厚な罪の味がする果実。

 その罪を食べ終わると、私はすべてを思い出した。

 本当の私の過去、捻じ曲げられて歪んだ私の過去。優しい母さん、私を虐待する母さん。木村君と初めて会った日、木村君が死刑を言い渡された日。木村君を助けに過去にさかのぼった記憶。そしてラファエル……木村君に助けられてきた今までの記憶。

 目の前にいる木村君を見つめると、私の目から再び涙が溢れた。


「どうして君は……私に会いに来ちゃったのかな……」


 それは堂々巡りの迷妄だった。

 けしてその迷妄に出口はない。永遠に囚われた罪と罰の繰り返し。




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