恩寵。—— 星空のビリー・ホリデイ

どうしてその先輩が私をかわいがってくれるようになったのか、実はあまりよく覚えていない。


始まりは、私の同期の女子が彼と同じ部署に配属になって、いっしょにと飲みに誘われたことだったような気はする。


気づけばその後、誰かと飲みに行く時、先輩はよく私も誘ってくれるようになった。



新人研修の時、講師として立っていた先輩。

仕事では受賞歴もあって、見た目もクールでカッコよく、どっちかと言うと近寄りがたいような憧れの人だった。


だから最初は、いっしょに飲みに行けること自体が恐れ多くて、私は必要以上にドギマギしていたものだった。


***


先輩はジャズが好きだった。


ジャズ——。

社会人になるまで、私にはほとんど馴染みのないジャンル。


おじさんが目を閉じ眉根を寄せて首を振りながら聴いてる難しい音楽、というイメージしかなかったのだけど、ボーカルがついた親しみやすいメロディの曲もあることを教えてくれたのが先輩だった。


一度だけ、小さいながらちゃんとしたホールで、いわゆるジャムセッションを楽しむようなライブに連れて行ってくれたことがあったけど、たいていは飲みに行ったついでに、繁華街の一角にあるジャズライブが売りのバーに行くという感じだった。


「彼女、ちょっとビリー・ホリデイを彷彿させるよね」


そこの歌姫を指して、先輩はそう言った。


ビリー・ホリデイって、どこかで聞いたことはあったけど。

そこで初めて、ビリーがジャズシンガーだったこと、そして、サザン・オールスターズの「星空のビリー・ホリデイ」は彼女のことを歌っていたんだってことを知った。



いつからか、「先輩=ジャズ=大人の世界」という図式が私の中に出来上がっていた。


純粋に音楽として見たら、断然ポップスの方が好きだったりしたのに、私は喜んで先輩とジャズバーへ行った。

アルコールの匂いと紫煙、軽快なリズムの生音とちょっとハスキーな歌声で埋め尽くされたその空間は、はち切れんばかりに大人の世界だった。


本当は、そこにいるのもおこがましい。

末席にちょっとお邪魔させてもらってるような場違いな私なのに、みんなあたたかく、そっと迎え入れてくれていた。


***


数年後のある日、私は先輩と一夜を共にした。


飲みに行ったはずだけど、どの時点から二人きりになってたのか。

そこはまったく思い出せない。


とにかく、断るなんてできなかったし、たぶん断りたくもなかったのだと思う。

一夜限りとわかっていても。


もしかすると、勲章でももらうみたいな気持ちだったのかもしれない。

私は誰にもその勲章を見せびらかさなかったけれど。



先輩はやさしく、とてもうまかった。

そんな小さな秘密を私だけが胸に大事にしまって、終わりのはずだった。

明日には何ごともなかったように、また普通の先輩後輩に戻るのだ、と思っていた。


***


次の日、出社すると、先輩が私のところにやってきた。


「おはよう」

ただそう言って、照れ臭そうにニッコリして、所在なさげにソワソワと去って行った。


もしかして、ただ私に挨拶しにきたの!?



その瞬間から、私の中の「憧れの先輩」は形を変えていった。



「俺が、たまきちゃんのこと、本気で好きになったらどうする?」


先輩がそう言ったのは、それからほどなくのことだった。


そんなこと、あるはずない。

そう思ったし、実際に口にもした。


私は驚き、かなり戸惑っていた。



さらに後日、会社の宴会が終わり、ゾロゾロと二次会の会場へ向かう途中で、私は腕を引っ張られて角を曲がり損ねた。


先輩だった。


「二人で消えようよ」


「えっ……」


戸惑ってるうちに一団は行ってしまったし、どこで誰と二次会をやっても大して違いはないようにも思われた。


けれど、先輩が向かった先はいつものジャズバーじゃなくて、またラブホテルだった。

二人とも、特定のつき合ってる相手がいるわけでもなく、別に問題はないのだけど、一回目よりは気が進まなかった。


まさか、本気で好きになってるわけじゃないですよね。


——私はそんな心配をしていた。



コトが終わったあと、先輩はいびきをかいて眠ってしまった。


帰りたいけど、どうしたらいいの?

起こすべき? 黙って出ていくべき?


迷いながら、ふと先輩の寝姿に目をやると、そこにはもう「私の憧れの先輩」はいなかった。


ベッドの足元には、私にお裾分けをしようと持ってきたという何かが入ってるらしい紙袋が置いてあった。

でも、まだちゃんと手渡されていなかったし、黙って出ていくのに、それを持っていくのははばかられた。


結局、だらりと横たわっていびきをかいている先輩と紙袋を残して、私は部屋を出てきた。



翌日、先輩は「ゆうべはごめん」と、また私のところに来て言った。


たぶん、それ以降の私が少し素っ気なくなってしまったせいで、先輩とはだんだん疎遠になっていった。


***


♪〜Billy 夢見るような lady 心に残る恋人

  So long お前のことが今でも忘れられない



クールでカッコよかった先輩。

こうなる前は、恐れ多いオーラをまとっていた人。


私の憧れの先輩は、消えてしまった。

たぶん、私への好意を匂わせた瞬間に。



先輩は、私なんかにこんなことをしたり、あんなことを言ったりしてはいけない人だった。

百歩譲って、あのまま黙ってかわいがっていてくれてるくらいだったらよかったのに。


私を好きになるということは、私に対して弱みを持つということだ。

それでは、先輩の価値が下がってしまう。


先輩はずっと、私より上にいてくれなくちゃ。

星のように、絶対に手が届かないくらいに。


私など超越したところにいて輝いているからこそ、憧れの人だったのだから。



私は、私を好きな先輩を好きにはなれない。

憧れと恋をイコールにはできなかった。


先輩と寝ることは、私にとって、ただ恩寵を受けるような種類のものだったのだ。


***


後年、先輩は私よりさらに年下の後輩と結婚した。

美人で仕事もできるその子を、セクハラやらパワハラやらから守っているうちに、そういう関係になったらしい。


それも、私から見ると本来のクールな先輩のイメージとはちょっと違っていて、普通の正義のヒーローみたいで似合わない気がしたものだけど。



ともかく、私じゃなくてよかった。



私だったら、先輩を夫として背負うなんてできない。

何より、いつか私が自分に不釣り合いな女だったんだってことに先輩が気づいちゃったら、私のことを捨てるかもしれない。


そんなことも思った。


***


♪〜胸にしむ blues いたいけな jazz で

  cry cry 酔いしれたままに



今でもこの曲を聴くと、先輩の眩しいオーラに浴していたころを思い出す。



「あの時は、ちょっと魔がさしただけですよね?


 私は誰にも言ってません。

(言えなかったというのもあるけど……)


 だからもう、なかったことにしてもいいですよね?」



あるいは先輩は、もう忘れちゃってるかもしれない。

それならその方がいい。



私にとって手の届かない "大人" の象徴だった、あのジャズバーの歌姫と、輝いていた先輩の姿だけを、この曲のうちに留めたいと思うのだ。



♪「星空のビリー・ホリデイ」サザンオールスターズ

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