二十九日目 アブラゼミ&ムネアカオオアリ

「はぁっ、え……、ホントに!?」


 息も絶え絶え、藁にもすがる思いだ。不敵な笑みを浮かべて、もったいぶっていた。やっぱムカつく。いまは関係ないけど、ウルサイのもムカつく。


「少ししか時間稼ぎできんかもやけど。それでもいいならひとつ、条件がある」

「条、件……っ!?」


 言うことはだいたい分かってる。それでも他の選択肢はないかと探りを入れてみた。汗で前が見えないのをいいことに、こいつらは何か変なことをしてくるに違いないだろう。


「見たところ、あの姉さんにカラダを舐められたんやろ? だったらウチにも舐めさせてぇや!」


 くっ! 足元見やがって! けれどいまはコイツにすがるしか方法はないのか……!?


「……もうイヤとは言わせへんで?」


 俺の体力だって限界に近いし、またいつ襲ってきても良いように温存もしたい。仮にも俺は長距離選手なのにぃ!

 悔しいが、虫の世界には虫に頼るしかないのだろうか。


「ぐうぅ……! っ、分かったよ! 舐めさせればいいんだろ!?」


 本当はめっちゃイヤだけど! セミの口って痛そうだ。でも毒針で刺されるよりマシかなぁ。カラダに穴が開きそう。


「よっしゃ、交渉成立やな!」

「あっ、いや、待っ――!」


 刺されるところを想像して、やっぱりやめてほしいとお願いしようとしたが遅かったらしい。アブラゼミはシャツの裾をたくし上げ、俺の腹筋めがけて顔を押し付ける。あひゃ! くすぐったい!


「んっ」


 エメラルドグリーンのツインテールを掻き上げて、俺のカラダを堪能する体制に入った。ハリのある唇が、へそ近くのシックスパックに触れたかと思ったら、ちゅうっと吸われる。


 そんな経験したの初めてだ! まだ手も繋いだことないのに!


「ふふっ! ごちそうさま。美味しかったわ。やっぱりウチはお兄さんのこと、めっちゃ好きやで」


 イタズラっ子のようにウインクをしたアブラゼミは、俺から離れると一目散にハチへ向かっていった。やはり彼女も人間のままだ。こんなところ他の人に見られたら通報されるぞ……。もしかして俺が一番お縄に近いのかもしれないと考えるだけで、より一層逃げ足は速くなった。


 しかし、いまはそんなこと考えている暇はない。俺は早いところ安全な場所に向かわなければ!


「ハチ姉さん! おいたはそこまでやで!?」

「貴様は……、アブラゼミ! 邪魔をするな!!」


 ハチから遠ざかることで正常な思考を取り戻したのか、ようやく自分が走っている道が分かり始める。ありがとう、アブラゼミ。俺のために尊い命を散らせ。


 欲を言えば相打ちでもしてくれないかと思ったが、よくよく考えればセミには武器がない。それに昨日の敵は今日の友っても言うじゃん? もし仲良くなって一緒に追われてしまえば、俺が瀕死状態になってしまう。


 大丈夫、セミファイナルの状態なら、何とかして俺が助ける。それくらいはしてやろうという気持ちに、ようやくなれたよ。


 しばらく走って、やっとあのコンビニの前まで辿り着いた。店に入ると迷惑をかけるだろうから、入口の冷気だけ味わうことにする。

 少し余裕が出てきたので後ろを振り返ってみたが、ハチは襲ってきていなかった。うまいこと惹き付けてくれているようだ。


「お兄ちゃん? どうしたの?」


 またお兄ちゃん攻撃か。しかし子どもは可愛いもんだ。目の前に突出している触角さえなければの話だが。


 足にしがみついているロリっ子に汗を垂らすまいと、額をシャツで拭う。あ、いけね。これ一応おしゃれのために着てきたんだけどな。もうすぐ月が替わるというのに、まだまだ暑かった。


「ムネアカちゃんか。お兄ちゃん、ね、実はいま、ハチに襲われてるんだ」

「もしかして、あの怖いお姉ちゃんのこと……?」


 なんてことだ。こんないたいけな幼女を怖がらせてしまった。でも大丈夫、きっと君には危害を加えることをしないから。狙っているのは俺だけで、だけどもし他の誰かを傷付けるようなら俺は許さない。


「大丈夫だよ。心配しないで?」

「でも……。ムネアカはお兄ちゃんが心配だよ!」


 ここへきて幼女の優しさは身に沁みる。あぁ、この子がもう少し大人で、虫じゃなかったらなぁ。昆虫ばかりに好かれるのも苦しいもんだ。だって抱き締めることもできない。……主に俺の意識次第で。


「カブトムシとミヤマクワガタのお姉ちゃんは知ってるの?」

「え? いやぁ、知らないと思うよ?」


 急にどうしたんだろう。ムネアカちゃんは神妙な面持ちをして地面を睨んでいる。いつもあいつらが俺の周りにいるから一応訊いてくれたんだろうか。そいつらが俺やムネアカちゃんを助けてくれるとでも言うのか?


 しかし今回助けてくれたのはセミだ。確かに決定打に欠けるが、そこまで心配しないでほしい。いざとなれば俺だって、自分の身は何とかして守る。


「なぁに、心配することはないよ。いまアブラゼミのお姉ちゃんが戦ってくれてるんだよ。ムネアカちゃんも早く巣にお帰り」


 疲労で、いくらか優しくなっているようだ。おー、いまならもしかしたら抱き締められるかもしれない。虫とか虫じゃないとかどうでも良くなってきたぞ。


 あっ、でも追いかけてるのも虫か。うん、じゃあやめよう。


「お兄さん逃げて!」

「――えっ!?」


 噂をすれば何とやら。まだ倒されていないことにはほっとしたが、迫ってくる二匹の少女たちには緊張を隠せなかった。もう来たのか。虫は速いな!


 どうすればその高速が俺にも出せるんだ。翅を生やせばいいんだろうか? だったら俺と虫の子は陸上で大活躍だな!


「邪魔するな! 小娘が!」

「行かせへんで!? 早う逃げ!」


 アブラゼミはスズメバチの腰に巻きついて、何とか食い止めている状態だ。


「やばっ! もう逃げないと! ムネアカちゃんも、早く帰ってね!」


 だけど幼女は、なぜか俺の足を掴んで離さなかった。必死に首を横に振って行かせまいとしている。怖いんだろうか。どこかの茂みにでも置いてやれる時間はあるか。

 そう考えていたが、その否定は違ったらしい。


「お兄ちゃん、ムネアカにもお兄ちゃんのカラダ、吸わせてください!」

「うぇ!? いま言うことじゃないでしょ!?」


 子どもは無邪気さがチャームポイントだ。それは昆虫の社会でも変わりないのだろう。でもちょっとは空気読んでよ! 俺、殺されちゃうよ!


「ムネアカ、人間になれるなら、助けを呼んでくる! お願い、ちょっとでいいから!」

「えっ!? いや、だけど……」


 二匹がもみ合っている姿を見て、自分も人間になれると思ったのだろう。額に汗して必死な表情で訴えている。いや、でもそんな。さらに事案を増やすことは避けたいし……。


「何しとんのっ!? はよ、っ、行け!」


 でもあのアブラゼミは、少しずつ弱ってきているようだった。けっこう息が上がっている。ここで見殺しにはできないか。


「分かった、ムネアカちゃん。君に託す! 俺のカラダを吸いなさい!」

「ほんとに!? ありがとう!」

「あっ、でもちょっとだよ!? ちょっとだけだからね!?」


 うまく言いくるめられた感もあるが、しかたない。こうなったら二匹吸わせるも三匹吸わせるも一緒だ。


「お兄ちゃん! 大好き!」


 大きく口を開けると、ちょこんと見えた八重歯が可愛い。その牙が俺の太ももに振り下ろされたかと思うと、はむはむちゅっちゅされる。こいつ……、甘噛みしながら吸ってやがる!


 知らなかった。俺の皮膚って意外と伸びるのね。しばらく引っ張られていたが、ちゅぷ、と勢いよく離された。


「見せられないよ!」


 うっとりと目を細めて頬を染めている。思わず声を上げたが、こんなところ誰かに見られたら俺もムネアカちゃんもヤバい。子どもがそんな顔しちゃ駄目!


「じゃあ、お兄ちゃん! ムネアカ、行ってくるね!」

「お、あ、あぁ……。頼んだぞ!」


 しかしこれで助けが呼べるというものだ。誰を呼んでくるか分からないし、この子を野に放してはいけないような気もするが、助けてくれるならその後のことは考えないようにしよう。


 ムネアカに短く別れを告げて、俺は再び走り出した。

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