二十八日目 スズメバチ

 そうそう。そう言えばヘラクレスオオカブトは羽田さんに引き取ってもらったんだっけ。

 俺は昆虫ゼリーを持ってかごに向き直ったとき、大事なことを忘れていたようだ。少し多めに持ってきてしまったゼリーに目を落とし、そして肩を落とした。


 ううん、そんなしょげてはいられないぞ! だって今日は待ちに待った夏休み最終日! ……じゃなかった、羽田さんと会える日だ!


 3匹いるかと思ってしまったことは忘れよう。そして、けっして俺は虫の世話を焼きたくて焼いているわけじゃないと、自分に言い聞かせるんだ! 今日の餌やりだって姉貴が居ないから仕方なく行っているわけであって、朝早くから好きでこんなことしてるわけじゃないんだ!


「ふぅん、ちゃんと餌あげてるじゃない」

「ぎゃ! 姉っ……! お、姉ちゃん!?」


 いつの間にか背後に寄って来ていた姉に、驚いて飛び跳ねる。どうして!? バイトで居ないって昨日の夜言ってたじゃんか!?


 いつもなら怒られるけども、今回はにやにやと少し笑っているようだ。その理由は、たぶん知ってる。


「ねねね、姉ちゃん……。今日って、バイトで朝から居ないんじゃ――!?」

「あー、昨日伝えたやつね。予定が間違ってたみたい。今日は休みだったわ」


 なんてこった! だったら俺は、昆虫ゼリーを持ってき損だったじゃないか! 姉がいるなら、朝からカサカサ動く虫どもと顔を合わせなくても済んだじゃないか!


「アタシが居ないと思ったら、自主的に餌をあげてくれるのねぇ。ふーん」


 絶対わざとだろ。この、人を試すような笑顔を浮かべているときは、良いことを考えていた試しがない。


 だって部屋も無音だったし、風呂だって入ってなかったし、つまりはこの人は俺が虫に餌をやっているのを見たいがために息を潜めて待っていたということか!? なんて無駄なことをしているんだ!


「なんだってそんな回りくどいことを!」

「さぁーてね」


 いや、絶対面白いからに決まってる。俺が虫にビビる姿を見て楽しんでるんだ。性格の悪い女よ、元虫姫候補。そんなんじゃ、いくらダイエットしてもモテないんだからな!?


「そう言えば、今日はアンタも予定あるんじゃなかった?」

「あー……、そうだよ。それじゃ、ひとっ走りついでに、もう出かけるよ」


 もう虫の側には居たくないし。何をしてくるか分からない姉の側にも居たくないし。少しばかりおしゃれをして柄物のシャツを着てみたけれど、それを他の家族に見られるのも恥ずかしいし。


 だから俺は宿題と借りた本を詰め込んだスクールカバンを持って、玄関に直行する。いや、正確には、直行しようとした。


「ちょっとアンタ、待ちなさいよ」


 姉が引き留めたのだ。何事かと振り返ってみたが、その続きは俺には関係なかった。


「最後まで責任もって一号と三号の餌を用意しなさい!」

「……無理!!」


 そう、関係ないんだ。今日最初の拒絶を吐き棄てて、俺は勢いよく門を潜る。いま思えば、あのとき少しでも出るタイミングをずらしておけば、もしかしたらその光景は見なくて済んだのかもしれなかった。


 耳元で騒音を立てるそれは、たくさんの昆虫の翅。スズメバチの大群だった。


「うぇ……!? おぉう!?」


 どうしよう。引き返す? これがスズメバチじゃなくて、豆柴だったらどんなに幸せなのだろう。俺もアイドル育ててみようかな。全員、スズメバチ。


 って、そんな冗談言ってる場合じゃないでしょ!? やっぱり引き返そう。と思ったその矢先、背後から低めの女性の声がささやく。


「幹也さん、愛しています」


 その愛の言葉は、できれば人間から聞きたかった。心臓が口から出るかと思ったよ! あなたはスズメバチの美女さんですね!? もうこんなことはやめて、と言おうとしたが、その前に彼女から続きの言葉が出る。


「いまこそあたしと幹也さんが結ばれるとき。あたし、人間になります!」


 俺は人間をやめるぞ! ジョジョ――ッ!!


 いや違った。あなたが人間になるのをやめてください。ん? 待って、ほんとに!? 自分で言ってる意味分かってる!? それってつまり……、俺の、カラダを吸うってこと!?


「ちょっと、やめ――!」


 しかし俺の制止も聞かず、彼女は首筋に食らい付いてきた。立てるのは歯でも針でもない。柔らかな唇から伸びた、粘液性のある舌だ。


「お、おぅ……!」


 ぞぞぞ、と背筋が、言い表せられない悪寒と快感に動いた。これは虫ではない、そう言い聞かせるも、やはり俺の周りを取り囲んでいる者たちの存在を抹消するには至らない。


 俺の今年初めては、スズメバチに捧げてしまったようだ。


「幹也さん、嬉しいです! こんな甘美な蜜を、あたしにいただけるなんて……!」


 俺は止めようとしたはずなんだけどな。彼女は嬉しさからか舞い上がって、文字通り空中に浮き上って、ぶんぶん飛び回っていた。


「翅は、そのままなんだ……」


 しかしそんなことを言っている場合ではない。スズメバチは俺のカラダを離れた後も、人間の姿のままだった。つまり、もしかして、他の人にも見えるようになっちゃったってこと?


「これで幹也さんと婚姻できますね。元気なハチの子をたくさん産ませてください」


 にっこりと笑うが、その目には影が宿っている。ハチの子って、あの、白いむにゅむにゅしたヤツだろうか……?

 俺がたくさんの芋虫の父親になって、あやしているところを想像して、……もうこれ以上は無理だった。吐きそう……。


 だからごめんだが、俺は虫とは結ばれない。生理的に無理だから。


「えーっと、その、俺は、あなたとは――」


 じりじりと距離を取っていくが、奥底では笑っていない彼女を見ると寒気がする。俺の間合いを測っているようだ。逃げるのは分かっていると言わんばかりだった。


「あたし、考えたんです。結ばれるのは決まっていることですが、やはり現世でお互いを知るのも大事ですよね? でも、それって婚姻してからでもできることじゃないですか? だからまずは、幹也さんがあたしたちの巣に来ていただけないかと思いまして」


 行きたくない! むしろ、生きたい! そんなところに出向いたら、ハチに襲われること間違いなしだ! 間違いなく毒で殺される!


「いや、その、だからね……。っ、ごめん!」

「幹也さん!? ……追って!」


 思わず逃げ出してしまった。後ろから数えきれないスズメバチとひとりのスズメバチ美女が追ってくる。早く走りたいなら、後ろからライオンに追いかけられるイメージをするといいと聞くが、これはいい練習材料だ。

 もっとも、あのハチは嘘みたいで本物なのだけれど。そうそう、ちなみにライオンって主にメスが狩りをするらしいよ。だけどだいたいオスライオンで想像しちゃうよね。


「くっ……、はぁっ!」


 準備運動もせずに勢いよく走ったので、すぐに息が上がってくる。ハチってどうすれば回避できるんだっけ!? 池!?


 めちゃくちゃに走ったので、いつものランニングコースから大幅に脱線してしまっている。足を止めることもできず、考えがまとまらなかった。図書館までの道のりが思い出せない。


 しかし走り続けるのもできないだろう。どこか逃げ込めるところはないか……!


「お兄さん、そんなに急いでどこ行くん?」

「って、はぁ!?」


 いつの間にか俺に止まったのか、わき腹に現れたアブラゼミがのん気に話しかけてきた。コイツはどこにでもいるな! いまはお前の相手をしてる暇ないんだよ! 見りゃあ分かるだろ!?


「あちゃー。ウチが忠告してあげたのに、家出てしもたん?」


 はいはい、しもたんですよ! だけど次のアブラゼミの台詞には、救われる思いだった。


「ウチなら、あのハチの姉さん構ってあげられるけど、……力貸してくれるか?」

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