十四日目 アブラゼミ

「最高にキモイ」


 そうですね。言葉を間違えました。痛すぎて半分泣いている。


「ご、ごめんなさい」


 というか服なら俺のものでも良かったはずだ。焦っていた俺はそのことに気付かなかった。だってヒモが、見えちゃってたからさぁ。それも必要なんじゃないかと思うじゃん。


「ちょっと濡れてるし! ……着替えてくる」


 ちょっとくらいなら別にいいじゃんか。左頬がまだジンジンしている。良い音だったよ、うん。姉ちゃん、平手打ちのチャンピオンになれる。ミヤマクワガタと良い勝負だ。


「って違う! 待って、姉ちゃん!」

「何よ!? アンタと話す暇ないの!」

「ぐっ……!」


 怖い。冷徹な顔で見下さないでください。でもちゃんと説明すれば分かってくれるかなぁ。羽田さんには優しかったし、たぶん大丈夫、たぶん。


「いや、その、羽田さんが、池に落ちちゃって……!」

「ハネダ、さん?」


 そういえば姉には羽田さんの名前を言ってなかったっけ。怪しがりながら俺を覗き込んでいる。


「あ、えっと、その、羽田さんは、この前来てた女の子なんだけど……。それで、着替えを! びしゃびしゃで!」

「あー、はいはい、分かった。シャツでも何でも貸してあげるから、ちょっと待ってな」

「あ、ありがとう!」


 何を言ってるのか分からねーと思うが、俺も何をされたのか……、いや姉は分かってくれたようだ。深い理由も聞かずに二階に上がってくれる。姉の背中に後光が見えた。


「はい、これ。適当に何着か詰めたから、好きに持って行って」

「ありがとうございます! 神様、仏様、お姉さま!」

「そういうの良いから、早く行きなさい!」


 やがて紙袋に詰まった衣類を持って小走りに降りてきた。助かるよ。その頃には俺も、自分の服で良かったんだな、って思い始めていたときだったけど、口が裂けても言わないことにする。殴られるから。


「ごめん、行ってくる!」

「あ、ちょっと。……アンタ、もうその子には近付かない方が良いかもよ」


 そうかもしれない。俺が近付くとロクなことが起こっていない。羽田さんには申し訳ない思いでいっぱいだった。少し離れた方がいいのだろう。前のようにただのクラスメイトに戻ればいいのだ。


 夏休みが終わればきっと元通りになるだろう。だからこれはひと夏の、淡い思い出になるんだ。


「黒木くん? 戻ってきたの?」

「あああ、あのっ! その、良かったら、着替え! 姉から借りてきたから!」


 池に戻ると羽田さんはすでに上がってしまっていたが、大きな葉で姿を隠している。自分でも気付いたんだろう。こういうときに限って、薄手の白いブラウスを着ているもんだからいけない。タイミングって、おかしなところで重なるんだなぁ、みきや。


 取りあえず紙袋を羽田さんに渡し、俺は後ろを向いて更に目を瞑る。一段落ついてみると、またハチが襲ってくるのでは、と身構えたがそれはなかった。

 着替えが終わったら俺は家へ帰ろう。あまり俺といると良いことがないだろうから。


「着替えたよ、ありがとう。お姉さんの服、けっこう過激だね……」

「ぶっ!?」


 あのバカ姉貴! これだけは面と向かって言える。……いや、やっぱ無理。


 羽田さんは普段の清楚な恰好とは裏腹、黒のへそ出しチューブトップに、ホットパンツだった。え? 何着か詰めたって言ってなかった? もしかして、全部同じ系統だったのだろうか。

 夏の間の姉の服を思い出してみたら、確かにそんなものしか着ていなかったような気がする。


「あ、あー……、その、変なので、ごめん」


 直視できない。姉は何を考えているんだろう。人には変な目で見るなと言っておきながら、そんなものばっかり持っている方が悪いだろ!


「気にしないで! ちょっと恥ずかしいけど、さっきよりかはマシだし。今日は、帰ろうか? せっかく勉強しに来たのに、邪魔してごめんね」

「そんな! 謝るのは俺の方だよ! 昨日から、ごめん。迷惑ばかり掛けちゃって」

「ううん! 私、黒木くんと一緒に居れて楽しいよ!? むしろ、昨日は何も出来ないで帰っちゃったの、ごめんなさい」


 お互いに謝りすぎて、しゅんとなっている。違うんだ、悲しい顔をしてほしくて言ったんじゃないんだ。もっと傷付けてしまうんじゃないかと不安になって、離れた方が笑っていられるんじゃないかって思っただけなんだ。


「俺の方はさ、ピンピンしてるから! だから、気にしないで!」


 そう、スズメバチに襲われてから背中の痛みは感じない。病は気から、ってホントだったんだな。だから気にしないでほしい。足と違って腕はそこまで重点的に鍛えているわけではないけれども、力こぶを作って元気であることを示した。


 楽しいって言ってくれたことが、ただただ嬉しい。


「ふふっ。黒木くんって面白いね」

「ていうか、邪魔したのは俺じゃね? 今日は図書館で勉強するつもりだったんだろ?」

「あー、勉強っていうか、今日は本を借りにね。結局本じゃなくて、服を借りちゃったけど。『虫めづる姫君』って知ってる?」


 何だそれ? 聞いたこともない。


「ここの高校の入試で出てたと思うんだけど……」


 聞いたことあったわ。すっかり忘れてた。ランニングだけの人生だったので、テストなんて適当に解いている。形ばかりでも入試は取りあえずやったはずだった。


 しかしそれがいったいどうしたんだろう。いまさらテストの見返しなんてことはないと思うが。


「私、その話が好きなのよ。だから今日は『堤中納言物語』を借りに来たの」

「……はぁ」


 ちょっと何言ってるか分からないです。すでに考えるのを止めているので、俺の目が離れていきそうだ。でもその恰好で図書館に入るのは勇気要るね、確かに。


「俺が、借りてこようか?」


 服はすでに乾いているし、ちょっとくらい泥が付いていても俺は気にしない。靴に沁みた水はまだじゅくじゅくと音を鳴らしているが、まぁ、少しの時間なら俺も図書館も問題ないだろう。母さんには怒られるかもしれないが。


「え、でも」

「気にしない、気にしない! どうせ学生はタダでしょ? えーっと、何だっけ? おまんじゅう物語?」

「『堤中納言物語』!」

「そうそう、それね! じゃあもう少しだけ待ってて!」


 それから二往復してやっとタイトルを覚えて、正確に言えば羽田さんが書いてくれたメモを頼りに、やっと本を借りることができた。俺知らなかったよ、本を借りるのに登録がいるのね。


 合ってるかどうか確かめて、羽田さんの笑顔を見れたとき、ほっと胸を撫で下ろした。もうお昼もとっくに回っており、昼食を理由に別れることにする。


 家に帰るとそうめんが待っていた。遠くでセミが鳴いている。夏だなぁ、ウルサイけどなぁ。でも気分は晴れやかだった。わだかまりがなくなったように感じて、俺は嬉しかったんだ。




 その夜、ウルサイ褐色水着少女が羽化するまでは。


「おはよう、こんにちは、こんばんは! ウチはアブラゼミ! 仲良くしたって!」


 しかも関西弁だ。どうしてこんなのが俺の服に付いてたんだろう?


「いやぁ、ウチもビックリしたわ! 今日、土から出てきてな、木に登ったと思ったらお兄さんの背中なんやもん! ここどこー!? みたいな!」

「あー、その、いつからそこに……?」

「いつからやろなぁ? でも今日からは確実やで? 昨日はウチ、土の中で寝てたし!」


 そんなことは訊いていない。池に落ちてからだろうとは思う。背中を見てみると、セミの抜け殻が引っ付いていた。


「あ、それウチの昔の服ね! もう要らんから、欲しかったらやるで?」


 要らねぇー! だって土の中に居たんでしょ!? ばっちい!


 だから水着なんだろうか? 健康的に焼けた肌に、白い水着がよく映えている。これが海やプールサイドに居たら、どんなに魅力的なんだろうか。

 水着なんて高校に入ってからはそこまで見てないよ。思春期なのにプールの授業はなぜかない。謎の学校方針に血の涙を流してやる。


「でもホントに、ここはどこなん? ウチは森に居たはずなんやけど……」

「あー、ここは俺の家で……。あとそれたぶん、木と間違えて俺にくっついてきたんだと思うよ」

「なんやて!? ウチが人間と木を間違えるなんて!」


 そうだよね。反応が初々しいな。森の虫たちが噂していることも知らないんだろう。俺も内容は知らないけど。


 羽化したてだからかな? 背中の翅がエメラルドグリーンに輝いている。髪も翅と同じ色のツインテールだ。


「んー、まあええわ! お兄さんからも美味しそうな匂いしてるし!」

「良くないよっ!」


 どうして虫どもはこう貞操がないのか。向こうもウルサイからこっちもつい声を荒げてしまう。するとバイト帰りの姉に見咎めらてしまった。


「うるさい」

「ご、ごめんなさい……」


 アブラゼミは背中に付いているので姉からは見えないようだ。ついでと言わんばかりに余計な忠告を言い放つ。


「そうそう、この際だから言っておくけど、あの子、羽田 橙子って子。アンタには合わないよ」

「う……、そりゃあ俺と羽田さんは釣り合わないだろうけど――」

「そうじゃなくて、……覚えてないの? そう、まだアンタは小さかったもんね」


 何だろう。確かに昔からそんなに記憶力は良い方じゃないが。珍しく姉は、俺の話し相手になってくれた。

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