3.

 素早く反応し、一歩目を踏み出すことができた。

 ようやく練習の成果が出たことに一瞬だけ凱斗は喜んだ。しかし、それがこんな局面とは……と一転自嘲する。

 自分の右肩には化け物の口から伸びた細長い管が突き刺さっている。

 よりにもよって右肩か。

 現実味のない現実を漠然と受け入れながら、凱斗は心の中で毒づいた。

 内野手で右打席に立つ凱斗にとって、右肩への負傷は致命的なものになりえる。化け物の口先は深々とその右肩をえぐっていた。

 これでもう、野球はできないかも知れない。

 そう思うと自分の先ほどの行動を少しだけ後悔しそうになる。

 でも多分後悔はしない。いや、絶対にしない。するはずがない。むしろここで踏み出せていなければ一生引きずるに違いない。

 化け物に対する恐怖心よりも切迫した強い想いが凱人にはあった。

 羽花への想い。

 ずっと秘めている想い。

 出会った頃からの想い。

 ただ凱斗には野球という追い求めるものがあった。

 自分自身、不器用な人間だと凱斗は思ってる。だからこそ羽花への想いを断ち切り、野球に専念する道を選んだ。

 強くなること。巧くなること。それが自分自身の評価としてフィードバックされること。そのすべてを叶えるまで、凱斗は羽花への想いを封印すると決めていた。

 その想いが立ち向かう勇気となった。だからこそ足が動いた。動いてくれた。恐怖に打ち勝ち、前に出ることができた。上等じゃないか。凱斗は自分自身を珍しく褒めた。故に大事な右肩を負傷した。それも良し、だ。

 だが、この負傷が代償となり羽花の安全を担保するわけではないことを凱斗は重々承知していた。

 強い痛みが凱斗を襲う。だが意識を失うほどではない。化け物が目の前にいる以上、羽花が危険に晒されている以上、まだ倒れるわけにはいかない。

 痛みに耐え、歯を食いしばる。

 が。

 管の中を赤いものがゆっくりと化け物の方に移動していくにつれ、身体から力が抜けてゆくのを凱斗は感じた。失血に依ることは明らかだった。

 胸の熱さとは裏腹に全身の血と体温を奪われ、凱斗は耐えきれず膝を付いた。身体が悪寒で震え始める。

 くそったれ。

 ここで倒れたら意味がない。

 拳を握る。

 だが、吸引を続けた管から何かしらの液体が逆流し始めると凱斗の身体は即座に悲鳴を上げた。

 先程までの悪寒が消え、今度は経験したことのない極度の熱発が全身を駆け巡る。

 小さな嗚咽と共に、凱斗の意識は暗転した。


 涙人は凱斗のくぐもった声を聞いて動けなくなっていた。混乱と恐怖が思考を支配していた。

 羽花を守りたい一心で床に伏せさせ、自身を上から重ねたものの、それ以上の何かを涙人は考えられなかった。

 ずぬり、と針のように細長い管が凱斗から引き抜かれ、どさりと倒れる音が無人のホームに響く。

 羽花は涙人の腕の中で目を閉じ、身体を強張らせている。息遣いから恐怖と疲労が見て取れる。そもそも羽花は今日の集まりの長丁場で疲れ切っている。連れて逃げることはどう考えても無理だろう。背負うことも考えたが、羽根を持つ向こうの方が明らかに早い。

 陳腐な逡巡を嘲笑うように、異形の口先が涙人の背中に突き立てられた。

 肩甲骨と肩甲骨の間に異形の管がゆっくりと侵入してきたことを、涙人は痛みとともに理解する。

 そこで何故か異形の管が止まる。吸血するでもなくただ止まる。

 涙人は動けない。ただただ痛みに耐えている。

 しばらくして管が再び動き始める。ずぶずぶと涙人の背に沈み続け、そのまま涙人を貫いた。そして次のターゲットを目指し尚も突き進む。

 羽花が甲高い悲鳴を上げた。



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