中濃ソースの申し子、登場!

 あまりの衝撃に理解が追いつかない僕は、なぜか唐突に、数ヶ月前の継母の言葉を思い出していた。

「この子の友達に、よくお兄ちゃん自慢をする子がいたんだけどね、その影響のせいか、この子も『わたしもお兄ちゃんが欲しい! お兄ちゃんに勉強を教えてもらいたい!』ってよく言っていたの。だから、仲良くしてくれると嬉しいわ」

 横で、後輩が顔を赤らめていたことも、記憶にある。

 そのときの僕は、どんな言葉を返したんだったっけ?

 そしていま僕は、どんな言葉を返せばいいんだろう?

 えっと、後輩と僕は、義理の兄妹だから、その、後輩が僕を「おにいちゃん」と呼んでも不自然ではなくて、だから、あの、つまりでも、なんで急に「おにいちゃん」って呼んだのだろうか? ながらく先輩呼びだったのに。いまになってどうして?

 さっき後輩が口にした「おにいちゃん」の響きが、ずっと脳内をぐるぐる駆け巡っているせいで、なかなか思考がまとまらない。

 仕方なく、僕は手に持っていた紙で、あおぐ。

 ……ん? なんで僕は、紙を持っているんだっけ?

 あ、これはただの紙じゃない。僕の書いた小説だ。

 タイトルは『空白の十時間』。内容は……。

 ……あっ!

 やっと僕は理解した。


「いや、なんていうか、この小説自体が冗談そのもの、っていうか。そんな感じで。ただ純粋に後輩を驚かせたかっただけなんだ。だからべつに僕は、後輩に『おにいちゃん』って呼ばれたくてこの小説を書いたわけじゃないから。そんな感情は微塵みじんもないよ。本当にぜんっぜんないから。だって、ほら、僕は、羞恥心の欠いた冗談パラダイスの住人だし」

 あたふたしつつも釈明を終えると、みるみる後輩の頬が紅潮していく。ついには頬だけでなく耳まで真っ赤になった。目には涙を浮かべている。

「先輩のバカっ!」

 そう言って後輩は、クッションをつかんで、振り上げた。瞬時に僕は、目を閉じ、防御姿勢をとる。叩かれると思ったから。

 けれど、叩かれなかった。

 おそるおそる目を開けると、後輩はソファーの端っこで、ちょこんと体育座りをしていた。クッションを腿に乗せ、そこに顔をうずめている。表情はまったく見えないけれど、髪を耳にかけたままなので、右耳がまだ赤いことは、わかった。

 後輩の、その態度を見てようやく僕は、しまった、と後悔の念にかられた。

 いかに僕が鉄面皮の出任せ野郎だからといっても、他人を巻き込んではいけない。重々承知していたことのはずなのに。ましてや後輩に恥をかかせてしまうなんて。本当は「おにいちゃん」なんて言いたくなかったに違いない。それなのに……。

 僕はとにかく謝った。ごめんなさい、すみません、完全に僕が悪かったです、誠に申し訳ないと思っています、と。

「どのことに対して、ですか?」

 急に訊かれ、なにも答えられなかった。

「どのことに対して、申し訳ない、と思っているんですか?」

 後輩の声はあまりにも無機的で、心臓をえぐってくる。

 僕は、慎重に、言葉を選ぶ。

「言いたくもないことを言わせてしまったことに対して」

「……ひどい……」

 いまにも消えてしまいそうな、うめき声。

「……先輩は、なんにも……」

 あとに続く言葉はクッションに吸収され、聞き取れなかった。

 それから僕は声をかけてみたけれど、うんともすんとも返事はない。本当に嫌われてしまったのだろうか。どうしよう。焦る。本当に、どうしよう。

 だらだらと額をつたう汗をぬぐって、考える。冷静に、考える。

 打開策を探し左見とみ右見こうみした結果、灯台下暗し、ヒントは手許にあった。

 僕は決然と立ち上がり、実行した。途中で、子供じみているなあ、とは自分でも思ったけれど。


「……先輩はわたしをなんだと思っているんですか? そんなのでわたしが許すと思っているんですか?」

「いや、そうじゃないけど……。だけど、もう、これくらいしか思いつかなくて」

 僕は持ってきたものを見つめながら、言葉を継ぐ。

「その、ほら、僕がこの小説を書いたのは、後輩ともっと仲良くなりたかったからで。だから、その、機嫌を損ねるようなことをしたかったわけじゃないんだ。だから、なんていうか、ちゃんと言ってほしい。これからは気をつけるから」

 降りる沈黙。けれどすぐに、

「今朝」

 と聞こえた。

 ややあって、後輩は顔を半分くらいクッションにうずめたまま、話し出す。

「先輩はまた勝手にわたしの分の目玉焼きにまでソースをかけましたよね。いい加減にしてください。わたしは醤油派です。何度言ったらわかるんですか。中濃ソースの申し子かなんだか知りませんけど、もうやめてください」

 ……ごめん。

 でも、いま言うこと?

「いくら疲れているからってソファーで寝ないでください。もし先輩が風邪をひいても看病なんて絶対にしませんから。わたし受験生だし。風邪うつされたら嫌ですし」

 ……うん。気をつけるよ。

 でも、いま聞きたいのはそういうことじゃなくて。

「先輩から一緒に刑事ドラマを観ようって言い出したのにどうしてその時間にシフトを入れるんですか。コンビニで働くほうが楽しいってことですか。わたしとなんて一緒にいたくないってことですか」

「いや、そうじゃなくて。だって」

「言い訳なんて聞きたくないです」

 どうやら僕に発言権はないらしい。やむなく口を閉じる。

 間を置かずに後輩は、汲々きゅうきゅうとして日頃の不平不満を並べ立てる。

 ふと、思い出す。前に後輩は「本当に嫌いな相手とは口を利きたくないです」みたいなことを言っていたような気がする。これが記憶違いでなければ、まだ僕は後輩に心の底から嫌われたわけではないということになる。それなら希望はある。きっと、ある。だから、これからも頑張ろう。仲良し兄妹になるために。

 決意を新たに、前を向く。

 と、すぐに視界に入ったのは、さっき僕が持ってきた涼感あふれる一品。この前、後輩におつかいを頼まれた際に、後輩の好物がどんな代物か知りたくて僕自身が食べるために一つ余分に買ったのだけれど、食べずにとっておいて正解だった。なんてったって後輩が口を開くきっかけになったのだから。ただ、もうそろそろ食べごろを逸してしまうのではないか、それだけが心配なところ。

 僕は、はやく食べないと溶けちゃうよ、と具申ぐしんしたいものの、後輩はその隙すら見せてはくれない。

「先輩は二年前からなんにも変わってない。無神経にひとの気も知らないでずかずか土足で入ってきて。迷惑です。いい迷惑なんです。もう、ずっと、ずっと……。本当に、迷惑なんです。あのときだって」

 まだ口を挟めそうにない。僕はチャンスを逃さないように、卓上の抹茶アイスを見つめながら、いもうとの言葉に耳を傾ける。

 夕立の雨音は、もう聞こえなかった。

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雨降って抹茶アイス @kazukey

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