青が逝く

英 蝶眠

Episode


 昭和から平成への改元があってから七度目の三月、このままでは埒が明かないと考えたものか、再開したばかりの新幹線で神奈川まで、内藤一真は疎開したことがあった。


 疎開の理由には、少しだけ説明が要る。


 当時は大学の二回生で、折しも後期の試験を四日後にひかえていた。


 まだ成人の祝日が一月十五日であった頃で、吹田のキャンパスのそばに部屋を借りて住んでいたので、新長田の当時の彼女である藤島麻美子の家へ行くにはもっぱら、阪急線と神戸線の乗り継ぎである。


 肌寒い日で、風も強くポートタワーから見える海は苛波が立っていた。


 三ノ宮の改札口で待ち合わせ、南京町を漫然と手を繋いで歩いていたが、何でなのかは今となっては知るよすがもないが、麻美子は急に不機嫌になって、何を訊いても返答がない。


 そのうち小さな口論になり、そのまま麻美子は新長田の実家まで帰ってしまったのである。





 その日は謝るべく麻美子に電話をかけたものの、出てはもらえなかった。


 翌十六日は一講目が休講で、たまたま同じ市岡の高校を出た、鳥養とりかいという同じゼミの同期を捕まえ、講義がはねたあと新大阪まで出、駅前の居酒屋で痛飲という単語よろしく焼酎割を十五分に一杯という、早いかどうかは分からないが、そうした速度でおよそ八杯ばかり飲み、終電近くなってようやく部屋へ戻ったのである。


 この酒の席で一真は鳥養に、麻美子にどうしたら良いか質問をぶつけてみた。


 するととにかく少しだけ間をあけてから謝ってみてはどうかと言った答で、一真の胸中にはいささか理解に苦しむこともないではなかったが、それでもしたたかに酒を飲んでいてまともな思考ではなかったから、取り敢えず帰ってから全て決めようと、終電ぎりぎりの電車で吹田まで戻った。





 そうして吹田の安アパートへ戻ると、一真は着替えもそこそこにソファーで微睡んでしまっていたが、夜明けの頃になって吐き気をもよおしたのでトイレへ行って一頻り吐瀉をしたあと、立ち上がろうとした。


 すると。


 ドン、という槍で衝いたような縦揺れのあと、感じたこともないような横揺れが一真を襲ってきた。


 砂嵐のようなザァという音に、うわぁと叫んだ声は掻き消されて、何やらわからない目眩のような揺れが、長いこと続いて止まった。





 とにかく地震であることだけは分かったので扉を開けると、目の前に棚から辞典が降ってきた。


 もう少し前に顔を出していたなら脳天に煉瓦のような辞書が落ちていたことになる。


 一真は、すんでで助かった。





 余震もまだあるなか玄関に出ようとしたが、部屋は箪笥が倒れ棚は崩れ、足の踏み場どころか立錐の隙すらない。


 取り敢えず通帳やら印鑑やら入れた真っ赤なリュックを掘り出すように引っ張りあげて背負うと、立て付けの悪くなった玄関のドアを強引に開けた。


 倒れたスクーターに鍵をさし、押しながら表通りまで来ると、ところどころ崩れた家から煙が立っているらしく、鼻を刺すような臭気がした。





 表通りを、とりあえず大学のある坂を登ってキャンパスに着くと、指をさして示す者があった。


 見ると西の空は赤くなって、夜明けのはずなのに夕焼けのような赤みを闇に射している。


 間違いなく神戸の方角であった。





 麻美子の安否が分からないまま、一真はその赤みの空を麓を目指して、スクーターのエンジンをかけてみた。


 かかった。


 確か前に満タンにしたまま走っていなかったはずで、うまく行けば新長田まで行けるはずである。


 一真はスロットルを開いた。





 アパートに戻って崩れた本の山の中からヘルメットを引っ張り出した一真は、再び表通りに出た。


 大学を背に、まずは神崎川を渡って兵庫をめざそうとした。


 が。


 あちこち道が地割れしている。


 仕方なくあちこち抜けられそうな道を選びながら、時には引き返しつつ、一真は西を目指した。





 ひとまず箕面から池田へ抜けて、伊丹からなら抜けられそうだといった話が聞こえたので、池田から宝塚の方面へ出て、さらに三田のあたりから南に下がるといった策で目指した。


 伊丹に入って、余震に何度か遭った。


 宝塚のあたりはなんともなかったが、裾の西宮は甚大な被害が出ていたらしく、あちこちで家屋が倒れていたらしかった。


 ところどころ検問があったが、一真が薬の配送だと言うと警官は通してくれた。





 三田から坂をだらだらと下って右に曲がり左に折れ、瓦礫の少ない道を選びながら下がると、どういうわけか布引の滝の看板が見えた。


 どこをどう抜けたらそうなるのか一真は分からなかったか、必死になってハンドルを握っているうちに、新神戸の駅裏まで来ていたようである。





 新神戸から通りを下って右に入り、三宮の駅前の辺りまで来るとビルが崩れ、道はあちこち塞がれている。


 聞けば鷹取の辺りで火事が出たらしく、湊川から先は行かれないとの由で、用意してくれた避難場所のテントで三日ばかり握り飯や菓子パンで食いつなぎながら、火事の収まるのを待った。





 三日目が過ぎた。


 自衛隊や警官が街に入り始めたらしく、少しずつではあったが、冷静さを周りが取り戻して炊き出しも始まった。


 火事が収まった噂を聞いた一真は、ガソリンの切れたスクーターを三宮に置いて、湊川から新開地を抜け、兵庫の駅を抜けて新長田へ入った。


 見るとあちこち火が出たらしく、焼け落ちた家がそこかしこにあって、規制線で入れない道もあったので、あちこち曲がりながら行くと、前に見たことがあった写真館があった。


 この写真館が麻美子の家の目印で、ここから裏道に入ってすぐに麻美子の自宅はあるはずであった。





 写真館の裏道はほとんどが焼け跡で、黄色のテープで先には行けなかった。


 しかし写真館をぐるっと回ると反対側は規制がなく、一真はそこから麻美子の家を探した。


 しかし。


 四軒並んでいたはずの家はすべて焼かれて、どれが麻美子の家なのか分からなかった。


 むなしく、追われるように三宮まで歩いて戻るしかなかった。





 三宮でガソリンの切れたスクーターを押しながら歩いていると、葺合の警察署の近くのガソリンスタンドで無料の給油があったので、並んで満タンにして、国道の裏道になっていた阪急沿いの道をだらだらと走った。


 西宮球場から武庫を抜けて塚口を過ぎると、また被害のすくない街が見えてきた。


 麻美子が生きているかどうか問われても、あの焼け跡を見た一真には確証は持てなかったが、しかし生きていることだけは疑わずに、なんとか吹田までは戻って来れた。





 ほどなく。


 吹田の避難所での一真の暮らしが始まると、スクーターを持っていた一真は薬や物資の運搬班になって、新大阪から荷物を受け取って運んだり、市役所からの食料の段ボールを運んだりするようになった。


 麻美子の消息は分からないままであったが、このままフェードアウトだけは避けたいと思っていた一真は、新長田へ行けるタイミングだけは忘れずにはかっていたらしかった。





 月が変わって一真はラジオのニュースで、新長田のあたりの規制が解かれたのを知って、今度は豊中から尼崎を抜けるルートで、麻美子の家を目指して再び、阪急に沿うような山側の道で神戸を目指した。


 芦屋で回り道はあったが、灘まで来ると道はスムーズになっていた。


 北野から湊川へ出て新開地を抜けた先に、新長田はある。





 新長田の焼け跡はそのままであったが、麻美子の家は分かった。


 ブロック塀の藤島の表札が残っている。


 入った。


 焦げた臭いはそのままになっていた。


 ふと目線を下にやると、爪先に光るものがある。


 拾い上げてみた。


 鎖のついた十字架のペンダントである。


 見覚えが一真にはあった。





 いつも麻美子が気に入って首にかけていた、あの十字架のペンダントである。


 銀の十字架は黒く変わり果てていたが、胸元の十字架を、一真は鮮明に記憶している。


 この一事だけで、麻美子へ謝る機会を失ったことを、一真は悟った。





 しばらくして。


 麻美子の義理の兄だという男が吹田の避難所まで一真を訪ねてきて、麻美子があのとき他界したことを告げた。


 覚悟はあったので一真は取り乱すこともなかったが、謝れなかったことだけは、悔いても悔やみ切れない事象として、疎開するまで残った。





 疎開の日。


 新大阪の駅まで来た鳥養が、なぜか駅にトランペットを持ってきていた。


 一真は乗った。


 ベルが鳴る。


 そのとき鳥養は、トランペットで六甲おろしを吹き始めた。


 まるで出征の進軍ラッパのような荘調な演奏に、はじめはなんだか恥ずかしかった一真は、青空を映した琵琶湖が見えるあたりになって、もしかしたら二度と関西には帰れなくなるかも分からない気持ちになって、思わず声を放って哭いたが、一頻り泣くと肚が据わったものか、憑物の取れたような顔になって、新横浜のアナウンスで下車の支度を始めたのであった。






【完】

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