浅草心中

英 蝶眠

浅草心中


 日本堤で猪牙舟を降り、衣紋坂を下って新吉原の遊廓の大門へ藤枝外記がたどり着く頃、江戸の空はすっかり暮れ泥んでいる。


 外記げきは編笠の緒をほどいた。


 大門をくぐると迷うことなく馴れた足で、引手茶屋へ向かう。


 ほどなく。


 引手茶屋の若衆に先導され、京町の大菱屋久右衛門の暖簾をくぐった。


「これは殿様、いらっしゃいまし」


 不在であったらしい久右衛門に代わり、手代の吉三郎が出迎えた。


 刀を鞘ぐるみ預けると、


「殿様、こちらでございます」


 と二階へ上がってゆく。


 二階の座敷には既に薄縁と座布団が敷かれ、座ると脇息を引き寄せてから、


「まもなく綾衣が参りますゆえ、しばしお待ちを」


 と吉三郎が障子を閉めた。


 が。


 外記は手持ち無沙汰であったのか、格子窓の障子を開け放った。


 すると。


 賑やかな声と共に三味線や太鼓が聞こえてくる。


 すぐに階段を上がる音がして、


「殿様、ようおいでくださいました」


 と綾衣が手をついて挨拶の口上を述べた。





 外記は障子を閉めた。


「殿様がなかなかお顔を出していただけませぬゆえ、綾衣は寂しゅうございました」


「すまぬ許せ、このところなかなか母上が口やかましくてな」


 と、外記は来られなかったことを詫びた。


 すると。


「…殿様のそういう素直なところを、綾衣はお慕いしております」


 酒肴が運ばれてきた。


「さ、殿様。今宵はひさびさのお上がりでございますから、パァーッと景気よく参りましょう」


 太鼓持ちが賑やかしに来た。


「…それもそうだな」


 今宵は夜っぴいて飲もうぞ、というと賑々しく三味線に合わせて踊りがはじまった。





 藤枝外記。


 諱は教行のりなり


 天明年間の武鑑によると湯島の妻恋坂に屋敷があり、四千五百石の知行があるので寄合の旗本にあたる。


 当時の記録には、


「色白く、身の丈は五尺六、七寸、流行りの黒繻子の羽織に萌黄ちりめんの小袖、あっぱれカッポレなる男前」


 と記されてあって、妻恋坂の裏手に位置する神田明神のあたりでは、娘たちの噂にのぼるほど知られた殿様であったらしい。


 その外記が馴染んでいたのが綾衣である。


 天明五年の吉原細見というガイドブックには大菱屋の七番目に名前があり、だいたい中の上ぐらいの遊女にあたる。


 まだ十九歳であったが、吉原細見で七番目に名前があるところから、割と教養に秀でた遊女であった事実が窺われよう。


 これがいつ、どういういきさつで知り合って馴染んだのかは不明であるが、吉原という場所はもともと、


「悪所」


 と蔑まされる場所だけに、ルールとモラルとマナーが特に重んじられた。





 まず吉原では引手茶屋という茶屋で、客に見合った遊女を仲介してもらい、遊女屋へ案内されてゆく。


 このあといよいよ妓楼に登るのだが、新吉原遊廓ではいきなり枕を交わすような生々しいことはなく、まず、


「初会」


 という儀式がある。


 客が下座に座り、上座の遊女を待って、酒肴を整えてようやく遊女が来ると無言で杯を交わす。


 形式ながらかための杯のようなもので、これで初会が終わる。


 次に。


「裏を返す」


 という登楼がある。


 ここでも遊女は身体を許すことはなく、初会より打ち解けはするものの、ここで祝儀をはずんだりしなければならないので、なかなか金が要る。


 その他に若衆や提灯持ち、果ては茶屋にもいくばくか包んで、だいたいトータルで五両ぐらいの出費は食う。


 だいたい現代に換算して七十万円ぐらいとされ、さらに食事代を含めると百万円にはなったので、かなりの金額を覚悟して遊ばなければならなかった。





 ともあれ。


 そういう儀式めいた登楼を経て藤枝外記と綾衣は馴染んだのであるが、馴染むと遊女と客は、さながら夫婦のような感覚になる。


 しかも。


 客は仮にも五千石近い直参の幕臣である。


 おまけに若い。


 顔も、悪くない。


 綾衣が十九歳のときに外記は二十八歳であるから、外記も男盛りである。


 そうなると。


 惚れるなというほうが無理な話で、綾衣も普段から、


「外記さま、殿さま」


 と言って、将来まで誓う仲でもあった。


 しかし。


 当然ではあろうが藤枝家では、若当主の女郎屋通いを苦々しく思っていたようで、


「外記どの、妻も子もおる身で女遊びにうつつを抜かすとは、どういう了見でございますか」


 と未亡人である義母の本光院などはとりわけ口やかましく、


「仮にも藤枝家は将軍家のご連枝、粗相なぞは許されませぬ」


 などと説教をしてくるのである。





 本光院が言うご連枝というのには、解説が要る。


 もともと藤枝家は武士ではない。


 三代将軍家光の御台所が鷹司関白家から輿入れした際の侍女が家光の子を産み、それが甲府宰相となるに及んで、父が藤枝弥一郎となって武士に取り立てられ、甲府宰相の家老となった。


 しかも。


 この甲府宰相の子、つまり藤枝家の外孫は六代将軍の家宣となって、この時から藤枝家は旗本となり、藤枝摂津守と変わった。


 禄高も家老のときの三千石から四千五百石になり、そこへ養子入りしたのが外記である。


 が。


 この養子というのが藤枝家では問題であった。


 というのも。


 本来だと四千五百石の将軍家の遠戚なら、名家や名門から養子を取るのが通常である。


 ところが。


 外記の養子入りは先代の急死にともなう、家名存続のための応急措置のようなもので、いわゆる末期養子というやつであった。


 さらにいえば。


 急を要したため名門や名家に構っている暇がなく、五百石小普請組という格式の低い家から養子を入れざるを得なかったのである。





 ついでながら。


 外記の妻は二千五百石の旗本家から嫁いでおり、男子を二人なして世嗣ぎの用は果たしたが、そうした体面を重んじる堅苦しい本光院の言動が、外記の吉原通いの原因であったのかも分からない。


 こんな噺がある。


 あるとき本光院は外記を座敷牢に押込をしようと画策したが、用人の尾崎軍兵衛のしくじりで外記は綾衣のもとへ逃げてしまった…といったことすらあった。




 折しも。


 新吉原では天明四年四月十六日に火事があり、遊廓が復旧するまでとの条件がついて、公儀の許可のもと両国の回向院門前の仮宅で客を取ることとなった。


 吉原までだと妻恋坂からはかなり歩くので、柳橋あたりか、和泉町あたりの河岸から船しかない。


 しかし両国の回向院門前なら、吉原よりは近い。


 こうしたこともあって、外記は藤枝家に居づらくなると綾衣のもとへ通っていたのかも知れない。


 この頃。


 藤枝家では本光院が外記を出世させようと方々に掛け合って、ようやく甲府勤番の空きを見つけた。


 甲府は藤枝家ゆかりの地でもある。


 しかも役高も良い。





 外記が大菱屋から戻ってすぐ、本光院は外記に甲府勤番の話題を持ち掛けてみた。


「甲府…でございますか?」


「さよう、甲府は藤枝家にゆかりある地。しかも江戸に近い。これならそなたも出世できよう」


 本光院は昂然と言った。


 が。


 外記の深意は本光院とは真逆である。


「母上は、それがしのことを何も分かっておらぬ!」


 脇息を蹴飛ばすと、再び屋敷を出た。




 大菱屋へ登楼すると、


「外記さま、いかがされたのでございますか?」


 綾衣が心配そうに外記のうつむいた顔を覗き込む。


 しばらく放心していたが、


「…綾衣、すまぬ」


 というと例の甲府行きの話をした。


「甲府…遠うございますね」


「で、あろう」


「でも外記さまが出世されるのであれば、綾衣はいつまでもお待ちしております」


「俺が甲府にいるときに身請けでもされたらどうなるのだ!」


「それは…」


 綾衣は言葉を返せなかった。





 確かに綾衣には身請け話が出ていた。


「相手は蔵前の札差で、かなりの通人と聞いております」


 というのが手代の吉三郎の話である。


 外記はそれを知っていた。


「仮に俺が甲府勤番で江戸を離れておる間に札差に身請けでもされてみよ、もう生きて逢えぬのだぞ」


 身請けは遊女にとって年季が明ける最大の好機であった。


 が。


 それが好いた男とは限らない。


 金がすべてという、遊廓の残酷な現実である。


「…外記さまとなら、足抜けでも心中でもなんでも、添い遂げられるならばどこまでも、綾衣はついて参りとうございます」


 綾衣はそれまでの、何かのはずみで泣いてしまいそうな不安げな顔から、どこか腹が据わったのかキリッとした目付きに変わった。


「心中…?」


「はい」


 外記は一瞬、頭に恐ろしさがよぎったようであったが、


「…まぁどこに行こうとも、綾衣がおるなら何も怖いものなどない」


「外記さま…」


「惚れたおなごのためならば五千石なんぞ、はした金よ」


 酒の力か、外記はしたたかに放言した。





 天明五年八月十三日。


 かねてより計画されていた足抜け、すなわち脱走は実行に移された。


 この日はいわゆる、


「紋日」


 というもので、吉原では年中行事に合わせたお祝い事をする。


 で。


 この日の揚代は通常の倍の値が張るのだが、外記は前以て約束を大菱屋に取り付け、綾衣に仕舞いをつけて一日自由に過ごさせるという段取りを踏んだ。


 ここで綾衣はかねてからの手筈通り、吉三郎のつてで落ち合う先として、鷹匠同心の餌差の平右衛門の浅草寺田んぼと呼ばれたあたりの家まで脱け出した。







 少しして。


 駕籠で乗り付けた外記が平右衛門の家まで来ると、


「私はちょいと煙草を買いに行って参ります」


 と平右衛門は場を離れた。


 しばらく外記は綾衣と睦みあっていたが、


「…」


 無言で綾衣が襟をくつろげると、外記は脇差をすらりと抜いて、


「…!」


 と綾衣の胸を突いた。


 綾衣がしがみつく。


 黙って外記はうなずいてとどめを刺すと、


「…二十八か、短くはないな」


 とのみ言い、武家の作法通りに腹を十文字にかき切って、綾衣のあとを追った。





 かくして二人はこういったかたちで添い遂げた訳であるが、ここで別の問題が出来した。


 検死の折、


「これは我が用人辻宗右衛門である」


 と、母の本光院が供述したからである。


 というのも。


 正当な理由なく横死、または切腹などした場合、武家は理由の如何を問わず断絶である。


「このままでは藤枝の家は潰れてしまう」


 と本光院が知恵を回し口裏を合わせたのであるが、これは尾崎軍兵衛の入れ知恵であったともされる。


 しかし。


 この心中、大菱屋の七番目の遊女という、そこそこ人気のある遊女が関わっただけに、話題は江戸の市中で持ちきりとなり、とりわけ遊女を身請けしたこともあった当時の知識人の大田南畝などは、


 君とやるか

 五千石取ろか

 何の五千石

 君と寝よ


 という都々逸を作ったともされる。





 この都々逸が流行ったのを機に公儀では再検分が始まった。


 一度は埋葬した外記の亡骸を再び検分したのである。


 やがて。


 亡骸は外記のそれと判明した。


 斯くして。


 事件から九日後、


「公儀に対し、家人とはかり、家人辻宗右衛門と偽り、このこと申し陳じけるを以て咎の段これあり、よって藤枝家の家名断絶を申し付け候」


 と評定所からの命が下って、ほどなく藤枝家は改易となった。


 本光院と外記の二人の子は縁者に預けられ、妻は離縁ののち実家へ返されている。


 また。


 尾崎軍兵衛は蓄電し、行方は不明となった。


 最後に。


 綾衣の亡骸は三ノ輪の寺へ移され、そこで他の遊女と共に弔われたという。






(『徳川実紀』『浅草寺日記』より)



【完】

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浅草心中 英 蝶眠 @Choumin_Hanabusa

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