二章 消えてしまった居場所⑪



「え、今日もいいの……?」


 マスターは今日も珈琲のお代はいらないと言った。けれど、申し訳なくてお財布を出そうとすると、ラムさんに手を掴まれて阻止された。


「こういうときは甘えなって」


 マスターにちらりと視線を向けると、丸メガネの奥の目を細めてにっこりと笑ってくれる。


「あの……ありがとう! 私、ここの珈琲がまた飲みたいって思ってたの」


 素直に言うのは恥ずかしかったけれど、もうわかっている。自分の気持ちは言わないと伝わらない。

 本当に相手に伝わってほしいのなら、恥ずかしくっても言葉に出さないと心に溜めたまま終わってしまう。ありがとうの気持ちが、どうか届きますように。


「ったくもー! 素直なショーコもかっわいいなぁ!」


 ラムさんが明るい声で笑いながら、私に抱きついてきた。


「――やって」


 ラムさんが耳元で呟く。


「え?」


 さらに声を小さくして、ラムさんは私にだけ聞こえるように言った。


「――は、あたしたちとは違うからさ」


 その言葉の意味を聞く前に、ラムさんは私から離れて頭を軽く撫でてきた。


「気をつけて帰んだよ」


 なんとなく察してしまった。今は詳しく聞くなということなのだろう。本人には聞かれたくないから、ラムさんはわざと小さな声で私にだけ聞こえるように伝えてきたのだ。

 それなら本人が話してくれる日が来るまで、聞くのはよそう。

 目が合って微笑み返すと、ラムさんも察してくれたのか、ウインクを飛ばしてきた。ウインクってこんなときに使うのかと心臓が小さく跳ねた。色っぽくて綺麗なラムさんだからこそ似合う仕草だろう。きっと私がしたら……ぎこちなくて不格好だ。


「ごちそうさまでした」

「ショーコちゃん、待って待って」


 帰ろうとカバンを肩にかけるとマスターに呼び止められた。なにか忘れ物でもしたかと思ってカウンターに視線を流してみるけれど、特になにも忘れていない。


「皐月くん、お見送りしてあげなさい」


 そんな、いいのに。と言いそうになったけれど、マスターなりの心遣いなのかもしれない。少し複雑そうな表情をした皐月くんが、ゆっくりとした足取りで私の元に歩み寄ってきた。


「行こ」

「う、うん」


 私よりも背の高い男の子。バレないように横目で彼の顔を見て、すぐに視線を逸らす。

 どこの高校かは知らないけれど、皐月くんは私と同じくらいの年齢のはずだ。少し肌が焼けていて、スポーツをやっていそうだけど、部活もやりながらここでバイトしているのだろうか。

 喫茶店を出ると、空が見事な茜色に染まっている。日差しをたっぷりと吸収したアスファルトから熱気が身体に纏わりついて、肌がべたつくような気がした。

 振り返って皐月くんにお見送りありがとう、と言おうとしたら、彼の手が私の顔の方に伸びてくる。


「えっ……と?」

「目、赤い」


 温かな指先が私の目元をそっと撫でた。


「……泣いたから、ね」


 皐月くんの行動に戸惑いながらも、近い距離に照れくさくなってくる。逸らしたいのに皐月くんから目が離せない。


「なあ」

「……なに?」


 このままでは速くなった鼓動が、私の目元に触れている指先から皐月くんにも伝わってしまいそうで――。


「学校、辛い?」


 その一言で、頬に集まっていた熱が静かに引いていく。訊いてきた皐月くんの方が、何故か辛そうに見えて、返す言葉に詰まってしまう。


「楽しくはない、けど」

「うん」

「でも……ここのみんなのおかげで楽しみができたよ」

「……楽しみ?」


 僅かに目を見開いた皐月くんが、私から手を離して、不思議そうな表情を向けてくる。

 なにが楽しみなのか彼にとってはわからないのかもしれない。


「私、家でも学校でも楽しいことが全然なくて、ずっと消えちゃいたいって思いながら毎日過ごしてた。けど……ここに来てみんなと話すことが楽しみになってるの。偶然でもここに来られてよかった。だからね、ありがとう」

「……っ」


 告げた想いに対しての皐月くんの反応は、想像とはまったく違っていた。

 複雑そうに眉間にしわを寄せて、目元に力を入れている。下唇を僅かに動かして噛みしめる彼の表情は悲しげで、すごく苦しそうだった。

 喜んでもらえるかと思った。それか、ちょっと呆れたような表情で大袈裟とか言われるかと予想していたのに……どうしてだろう。


「……馬鹿だな」

「え?」

「でも、ありがと」


 右手で左肘を爪が食い込むくらい握りしめている。私は皐月くんに言ってはいけない ことを言ってしまったのだろうか。


「気をつけて。じゃあ、さよなら」


 乾いたベルの音を鳴らして、喫茶店の扉が開く。その中に吸い込まれるように消えていった皐月くんの寂しげな後ろ姿が、脳裏から離れなかった。

 帰り際、ラムさんに耳打ちされた言葉が少し引っかかる。


『皐月のこと、気にかけてやって』


 私にだけ聞こえるように言ったその言葉には、きっと意味があるはずだ。


『皐月は、あたしたちとは違うからさ』


 彼とラムさんたちとの違いというのがなにかはわからない。けれど、確実に皐月くんに

 はなにか抱えている問題があるのだろう。今はなにもできなくても、いつか私でも彼の力になれることがあるかもしれない。

 私には特別な力なんてない。人を動かせる言葉も言えない。行動力だってまったくない。


 それでも、誰かの力になれるのなら、今の私から変わりたい。

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青くて、溺れる 丸井とまと/ビーズログ文庫 @bslog

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