バンドマンの彼が元カノの歌を歌ってる

サヨナキドリ

『レイニーデイ』

 あなたとはじめて会ったのは、下り階段で入り口に入るような、小さなライブハウスだった。私はビオラをやっている友達に招かれて取り置いてもらったチケットで、後ろの方の背もたれのない椅子に座っていた。ワンドリンクは未成年だったのでグレープフルーツジュースを選んだ。なぜか100%よりも濃いような気がした。


 その頃私は大学に入学したばかりで、歳上の恋人と別れたばかりだった。てっきりこのまま結婚するのだと愚かにも思い込んでいた私は、JKブランドがなくなると同時にあっさりと捨てられた。きっと次のJKを漁るのだろう。そんな訳でその頃の私はいつも不機嫌で、そのライブハウスの隅でも小さく口を曲げていた。


 ところどころ危うかった友人の演奏が終わっても、私は帰るタイミングを見失っていた。目当てのものが終わってすぐに帰るのは、その頃の私にとってあまりに不誠実に感じられた。椎名林檎のカヴァーをそこそこのクオリティで歌ったおばさんがステージを降りた後、あなたがステージに上がった。バンドのヴォーカルだった。とくに興味もなかった私は、パンフに乗っている残りのアーティストの数を数えていた。


 とくに前振りもなく演奏は始まった。『レイニーデイ』。ああ、なんてありきたりなタイトルだろう。失恋の歌だった。それを聞いた私は、ボロボロと泣いていた。私のために作られた曲じゃないかと思った。忘れようとしていた傷の痛みを、例えこんな結末になったとしても好きだったという気持ちを、両手で優しく包み込んでくれるようだった。演奏の邪魔にならないように声を押し殺して泣く私に気づきもしないで、あなたはもう二曲歌ってステージを降りた。それからまた別の、音楽で世界を変えられると信じている類の歌手がステージ上がって歌いはじめた。


 お礼を言おうと思った。私が勝手に救われただけかもしれない、でも確かにあなたの歌は私を救ったのだと。最後の演奏が終わり、MCが気の抜けた挨拶をする。私は、出演者で並んで観客を見送るあなたの前に歩いて行った。花束でもあれば格好がついたのに。私は、あなたの目の前に立った。


「あ、あの——」


 言葉が出てこなかった。言いたいことはこんなにあるのに。どれもこれも喉で詰まって出てこなかった。代わりに溢れてきたのは涙だった。ドラムとかベースの人は戸惑っていたけれど、あなたは私の肩を抱いてくれた。仲間たちや出演者との打ち上げを蹴って、あなたは私と一緒にライブハウスを出てくれた。落ち着くまで、少し休もうと取ってくれた小綺麗なビジネスホテルのダブルの部屋で、あなたは私を抱いてくれた。


 ぐしゃぐしゃの泣き顔から始まった恋は着飾ったり背伸びしたりする余地はまるでなくて、それが私には心地よかった。まるで生まれてはじめて息をしたようだった。毎日がひだまりのように暖かかった。あなたの膝に抱かれてギターを習ったりした。それまで音楽はからっきしだったけど、あなたと同じものを好きになりたかった。


 私のおかげと自惚れるつもりはないけれど、付き合い始めてからあなたのバンドはどんどん人気を伸ばしていった。出演できるハコも、インディーとしては大きなものとなっていって、もうすぐスカウトが来るんじゃないかという期待がバンドの中にあった。そんな日のことだった。最前列を断って、後方の左隅に座る私の隣に女性が座った。ゆるくウェーブのかかったロングヘアーの美人だった。どうやらあなたのバンドを聴きに来ているようだった。客席のライトが点いて、ステージを降りたあなたは私より先にあの人に話しにきた。古い知り合い。あの人は、二言三言あなたの活躍を褒めて、それからさらっと帰っていった。横から見ていただけでもわかってしまった。あなたの目が何かを期待してしまっていたことに。あの歌がなぜ私にあんなに刺さったのか、今になってわかった。なんのことはない。あなたも私とおんなじだったのだ。あの人にとってあなたは、恋人Bくらいのモブキャラでしかないんだろう。あの歌は私のための歌なんかじゃなかった。観客に紛れてライブハウスを後にし、駆け出す。傘を差すのを忘れていた。こんな時になんで雨なんて降ってるんだ、性格悪い。


 混乱したまま、私はビオラをやっている友人に電話をした。滅多に電話なんてしない相手が泣きながらかけてきたものだからびっくりしていたけれど、私の話をひとしきり聞いた後に言った。


「それは、ずいぶん勝手な言い分だよ。自分が初めての相手じゃないと気が済まないの?あなただって、あの時は振られたばかりだってでしょ」


 私は一方的に電話を切った。わかってる。そんなことはわかってるんだ。それでも私は許せなくて、許せない自分のことが許せない。


 電話もメールも無視して1週間がたった。私はあなたの部屋の前に立っていた。我ながらどうかしていると思った。何を期待しているのかと。インターホンを鳴らすと、疲れた様子のあなたが出てきた。そしてあなたは膝から崩れ落ちて、私の脚に抱きついた。それは告解にも似ていた。


 部屋には無数の楽譜が転がっていた。あれから1週間、ずっと君の曲を作ろうとしていた。でも、書けなかった。ひだまりも猫もシャワーもベッドもぜんぶ全部が君だった。世界のぜんぶが君だから、何かにたとえようもなかった。こんなに僕の中で大きくなってしまったものを、失うなんて耐えられない。だから、僕を置いていかないでくれ。あなたは私の脚にすがりつきながら、そう言ってボロボロ泣いた。私はあなたの肩を抱いた。私が好きな人が私を好きでいてくれるのに、他の理由がいるだろうか。


 ——そんな歌を、ゆるくウェーブがかかったロングヘアーの女性がアコースティックギターの弾き語りで歌い終わった。観客席が明るくなる。

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