第四十五話 死の磯巾着

 藤野港の外れにある防波堤で、十数人の釣人たちが、広く散らばって海面に釣糸を垂れていた。そこは海に細長く突き出した防波堤で、過去に転落事故が多発したことから、入口には「立入禁止」の札が置かれ、簡易な金属柵が設置されていた。しかし魚類が多く集まる格好の釣場であることから、いつしか金属柵はペンチで切断されて大きな穴が作られ、そこに連日、大勢の釣人たちが出入りすることが当然のように行われるようになっていた。

 その日もよく晴れた釣り日和であったので、大勢の釣人たちが金属柵の穴をくぐり、防波堤へ侵入して釣りを行っていた。燈台のある防波堤の先端近くには古参である、年配の釣人たちが陣取っていた。

 しかしその日は天気からの予想に反して、余りいい魚は釣れなかった。やっと釣れたかと思うと、小さな雑魚であったり毒持ちの河豚であったりする。彼らは苛立ってそれを防波堤に投げ捨て、長靴の底で踏み潰したり、煙草の火を押し付けて焼き殺したりすることで鬱憤を晴らした。

 正午になる頃、一人の老人が吸っていた煙草を海へ投げ捨てたとき、ふと波間に、何か桃色のものが見えたように思った。彼は身を乗り出し、眼鏡を直して再び海面を見つめたが、忽ちそれは消え去って見えなくなった。大方何かの見間違いだったのだろうと思い、彼は再び折畳み式の椅子に腰を下ろした。

しかしややあって、何か背後から寒気を感じた。振り返ってみて彼は瞬間、慄然とした。先程まで姿形もなかった一人の少女が、老人のすぐ後ろに立ち、彼を見下ろしていたのである。桃色のブラウスにスカートを履いたその少女は、まるで今まで水に浸かっていたかのように全身がずぶ濡れだった。その姿は、幽霊を思わせた。

 濡れそぼった長い髪を垂らし、少女は無言で老人を見つめている。老人は怯んだが、驚かされたことへの怒りが忽ち込み上げ、一切の逡巡もなく爆発した。火を点けたばかりの煙草を口から抜き去り、「何だお前は」と少女を怒鳴りつけた。

 少女はそのとき、足元に散らばっていた雑魚の死骸を見つめていた。老人の声に呼応して顔を上げたとき、彼女は不気味な笑いを浮べて目の前の相手を見た。老人は再び、得体の知れぬ戦慄が身体を駆け上がるのを感じながらも、矜恃を保つためにじっと少女を睨み付けていた。しかし次の瞬間、少女の身体が突然白く光り輝いたのを見て、思わず叫び声と共に竿を放り出し、折畳み椅子から転げ落ちた。

 光が消え去ったとき、頭に紫の花芯をした赤い花を付けて、先程よりも一層鮮やかな、赤色に近い桃色のブラウスとスカートを身にまとった少女がそこにいた。そして老人が何か声を上げようとした瞬間、少女の身体の左右から、何本もの巨大な触手が飛び出し、老人に襲い掛かった。

 老人は悲鳴を上げて逃げ出そうとしたが、赤い触手が身体に巻き付いた瞬間、鋭利な痛みと共に痺れるような感覚が走り、同時に身体の自由が利かなくなった。触手は身動きのできなくなった老人の身体に幾重にも巻き付き、きつく締め上げると、ゆっくりと後退して、少女のもとへと老人の身体を引きずっていった。

「私はね」と少女は語り掛けたが、眼を大きく見開きながら涎を垂らしている老人に、最早その言葉が届いているとは思われなかった。「シーアネモネモンプエラ、というの」

 やがて老人の身体は、白煙を上げながら溶解され始めた。触手から発せられる毒によって、服も肉体も一緒くたに溶かされてゆき、どろどろとした赤色の液体へと変容を遂げていった。触手はその殆どを吸収し、少女は満足げに息をついた。

 そのときには周囲にいた釣人たちは、竿もクーラーボックスも放り出し、全力で駆け去って防波堤の入口へと殺到していた。しかし金属柵に開けられた穴は、そんなに大勢が一度に通るには余りに小さ過ぎた。彼らは怒号を上げ、押し合いながら我先に通り抜けようとし、何人かは待ち切れずに海へと飛び込んだ。シーアネモネは微笑して、触手を揺らしながら、ゆっくりと彼らのもとへと歩み寄っていった。

 まとめて五人ほどが一斉に触手に絡み付かれ、叫び声を上げながら防波堤のコンクリートの上を引き摺られていった。毒液が忽ちにして彼らの身体を溶かし始め、凄まじい断末魔が防波堤に響き渡った。或る者の頭は恐怖の表情を浮べたままコンクリートの上へと転がり落ちたが、触手はそれをも逃さず掬い上げ、栄養として吸収し尽した。少女は舌なめずりをして腹を軽く叩き、それからまるで序でにとでもいう様子で、海へ飛び込んだまま這い上がれずにいる数人の釣人を触手で捕らえると、そのまま海へと飛び込み、彼らをも海中深く引き摺り込んで姿を消した。

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