最終話 学校で一斉に予防接種を受けていた時代、大泣きしてるヒトを見ながら自分はあんな弱虫じゃないと涙目になっていたことを思い出す話

 太古の昔より、人類は幾度となく疫病の脅威にさらされてきた。

 目に見えず、感染すれば治療法のない病魔の恐怖は人々を疑心暗鬼に陥れ、不確かな憶測と根拠のない噂が広まり、病気のみならず、それとは直接の関係のない理由で多くのヒトが傷つき、死亡した。

 国際線の航空機が縦横無尽に飛び交い、人々の行動範囲が飛躍的に広がった現代においては、医学の発達を勘案してもその驚異度は増しているといえる。

 海外での流行であっても、本邦の驚異となるのである。

 一度ひちたび感染が広がりはじめれば、全力をもって拡大防止に努めることとなるが、それが成功するとは限らない。前述の通り、現代の交通は極めて高度に発展しており、その高度に発展した交通の存在を前提として生活を成り立たせている人も大勢いるからである。

 流行拡大を許してしまえば、医療従事者や研究者を除く、多くの人々はただ、他者との接触を避け、早期解決を神に祈るより他になかった。

 病原が、ある一人の神の使いであるとは知らず。


「--ってことになったら困るから、予防接種は受けとかなな。キツネは軽症で済むけど、人間にうつしたらえらいことになる病気もあるし」

 京都市伏見区。伏見稲荷大社の近くにある、古びた豪邸。この家の娘であるノノは疫病の恐怖を説いたあと、笑顔を浮かべた。

 遥か昔より神に仕える化けギツネの家系『小徳付』の直系の娘、ノノ。彼女は二週間ほど前、人間に育てられた化けギツネの兄妹、ミウとサクに出会った。

 そこから紆余曲折経て、兄妹はノノの家で暮らすことになったのだ。

「わかってるんです。でも……」

 そういって、目をそらすのは妹の方、サクだ。

「サクは学校の予防接種でもいっつもギャンギャン泣いてるもんな」

 そういったのは、兄、ミウだった。

「ギャンギャンは泣いてないもん!」

 サクは勢いよくいいかえしたあと、風船がしぼむように一気に勢いを失う。

「でも、やっぱりあれ苦手で……。しばらくは受けなきゃいけないのないって聞いてたから、安心してたのに」

 サクはそういいながら右手で左の二の腕のあたりをさする。それを見ながらノノがいった。

「サクちゃんもミウも、人間用のはちゃんとうけてるから、キツネ用の分だけやね」

「エキノコックスってやつか?」

 ミウが尋ねる。

「ん~、それも気にせなあかんけど、それは注射じゃなくて、別の方法で」

「別の方法? あれって寄生虫だよな」

 ミウはさらになにかを尋ねようとして、なにかに気付いたように「ああ、なるほど」といった。

「まぁ、病院で全部説明あるから」

 ノノは目線をそらしながらいった。

 そのとき、ノノの付き人、ミチヨの声が聞こえた。

「お車のご用意ができましたよ」


 日産・シーマはガクガクと京都の市街地を走る。

 ハンドルを握っているのはミチヨ。後部座席にはノノ、サク、ミウの三人が座る。

「ちょっと! もうちょいこの揺れなんとかならんの!」

 後部座席からノノが怒鳴る。

「ごめんなさい。免許取り立てなもので」

 ミチヨは余裕がないことが伝わる表情で前を見つめながらいった。

 シーマの最後尾には堂々と初心者マークが掲げられていた。

 車に振り回されるように体を左右に揺らしながら、ミウが尋ねる。

「なぁ、ノノ。前から気になってたんだけど、俺たちって病気とかケガのとき、どこにいけばいいんだ?」

「どういうこと?」

 ノノが聞き返す。

「サクがさ、昔からよく熱を出すんだよ。それで、そのたびにお袋が人間の病院へ連れていくべきか、動物病院へ連れていくべきか、どちらも違うのか、悩んでたんだ」

 そのとき急ブレーキ。ミウはとっさにサクかばう。ノノは前の座席の背もたれに頭をぶつけた。

「……失礼しました」

 申し訳なさそうな、ミチヨの声。

「まぁ、結論からいうと、どっちでもええんやで」

 ノノは頭をさすりながらいった。

「神獣の病院もあるにはあるけど、数が多くないから怪我をしたとか、熱が出たとかだと人間のふりをして、人間用の病院で診てもらっても、普通のキツネとして獣医さんに診てもらっても、どっちでもいいやで。まあ、人間用の病院にいくことが多いけど」


 ほどなくして、シーマが止まったのはある建物の前だった。

「ここって……」

 サクがつぶやく。その視線の先には一枚の看板。可愛らしい絵柄で描かれた動物のイラストと共に書かれた『〇×どうぶつ病院』の文字。

「ここは表向きは普通の動物病院やけど、神獣も診てくれはって、予防接種なんかはここで受けんねん。獣医さんやけど、人間の姿のままでいいで」

 ノノがそう説明した。


 受付をすますと、すぐに診察室に通された。

「ノノさん、ミチヨさん、久しぶり。そちらの二人は、はじめまして。よろしくね」

 そこにいたのは、優しそうな雰囲気の男性獣医師だった。

 ノノたちは人間の姿で用意されていた椅子に座る。

「今日は、狂犬病の予防接種だね」

「あの、質問なんですけど」

 サクが手を挙げた。はやくも涙目になっている。

「あの……狂犬病って……ワンちゃんの病気なんじゃ……」

「ああ。名前を聞くとそんな感じがするけど、実際は哺乳類はみんなかかるし、人間から人間へは滅多に移らないけど、キツネから人間は移しちゃう可能性があるからね。特に君たちは傷口を舐めて直してくれるだろ? もしウイルスを持っていたら、そこで移しちゃうから、しっかり対策しておかなきゃね」

 獣医師はそういって注射器を手に取る。

「さて、誰からいく?」

 ノノ、サク、ミウは顔を見合わせる。そして、

「私からお願いします!」

 そういったのは、サクだった。

「お前、注射苦手なんじゃ……」

 ミウが驚きの表情を浮かべる。

「苦手だよ! 恐いよ! やりたくないよ! でも、私はのヒトを助けたいから。ケガをしたヒトを助けたいから、だから!」

 叫ぶようにいいながら、サクは立ち上がる。

 そして、堂々と診察台へと歩いていくと、左手を突き出した。

「やりますよ! やってやりますよ! やればいいんでしょ!」

 もはや、ヤケクソだった。

 獣医師はニコニコと笑顔を浮かべたまま、手際よくサクの二の腕をゴムチューブでしばり、血管を探す。

 さっきまでの勢いはどこへいったのやら、サクの表情が徐々に恐怖にゆがみ、

「ちょっとチクってするよー」

「キャンっ!」

 診察室に、イヌに似たサクの悲鳴が響いた。


「注射やだ。注射恐い。注射やだ。注射恐い。注射やだ。注射恐い。注射やだ。注射恐い。注射やだ。注射恐い。注射やだ。注射恐い。注射やだ。注射恐い。注射やだ。注射恐い」

 診察室のすみっこ。サクは膝を抱えて床に直接座り、うわごとのようにつぶやく。

「はい、ノノさんも終わり」

「ありがとうございます」

 サクが膝を抱えている間に、ミウもノノも注射を終えた。

「サク様、終わりましたよ」

 ミチヨがそっとサクの頭をなでる。

「……帰れるの? 帰りたい」

 サクは涙にぬれた瞳で、ミチヨを見上げる。

「はい。スイーツが美味しいカフェを知っていますので、帰りに寄っていきましょう」

「はい、楽しみです!」

 ミチヨがいうと、サナは一気に元気を取り戻す。

 獣医師は診察台に液体の薬が入った瓶を人数分置いた。

「あと、帰る前にこれ飲んで」

「それ、なんですか?」

 サクが尋ねる。

「駆虫薬。エキノコックス対策にね」

 獣医師はさわやかな笑顔でこたえた。

「まぁ、注射よりはずっといいですけど、エキノコックスってなんなんですか? さっきお兄ちゃんもいってましたけど」

 サクはそういってから瓶を手に取る。

「エキノコックスっていうのは、虫の名前。キツネやタヌキ、イヌなんかの、腸、つまりお腹に住み着くんだけど、大抵は悪さしないよ。住んでることにすら気づかないかも」

 獣医の説明を聞きながら、サクは首をかしげる。

「悪さをしないなら、なんで薬を飲まないといけないんですか? 確かに、お腹に虫がいるのは気持ち悪いですけど」

「キツネやタヌキの中ならね。もしこの虫がなにかの拍子に人間の体に入っちゃうと、その人間を殺しちゃうんだ。だから、そういったことがおこらないように、人間の近くで暮らすキツネの体から、あらかじめ追い出しておくんだよ」

 サクは納得したようにうなずくと、「それは大切ですね」といって薬を一気に飲み干した。そして「まずぅ」と顔をしかめた。

 ノノとミウも薬を飲む。

「あれ? その虫ってどこから体の外に出てくるんですか?」

 ふと、サクは尋ねた。

 その場にいたサク以外の全員が顔を見合わせ、沈黙のあと、獣医がゆっくりと口を開いた。


 そして、

「いぃいやぁあーーー!!」

 病院中にサクの悲鳴が響いた。

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コンと狐と白雪の足跡(コンと狐とSeason5) 千曲 春生 @chikuma_haruo

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