それ「青」やで!

藤光

それ「青」やで!

 中学一年の夏休み前、期末試験を終えて弛緩した空気が揺蕩う教室で起こった出来事を、ぼくは今も鮮明に覚えている。それは突然やってきて、以来、ぼくのなかに居座りつづけることになるのだけれど、ぼくはその意味に長い間気づくことができないでいた。教室の外に蝉の声がやかましい、暑い夏の日の出来事だった。





「今日の授業は、皆さんに自分たちの運動靴を描いてもらいまあす」


 いつものように、美術の鈴木先生は小さな体に似合わぬ大きな声で、今日の課題をぼくたちに宣言した。


「皆さん、靴は持ってきてるよね。机の上に出してくださあい」


 ざわざわ、がたがた。みんな自分が学校へ履いてきた運動靴をそれぞれの机の上に出してみせる。


 周囲を見渡すと、机に載っているのは白い合皮製の運動靴――月星のジャガーシグマが多い。ほとんど皆がそうだ。生徒の通学靴について、学校からは白色の運動靴と指定されているだけだけど、軽くて丈夫なジャガーシグマは、生徒ばかりでなく保護者からも人気の運動靴で、半ば学校の指定靴といってよかった。


 ――ぼくの靴は違う。


 ジャガーシグマじゃない。

 そのときの靴がなんだったのか、今となってはもう覚えていないけど、ぼくにはそういう「空気の読めない」ところがあって、他の生徒が持ってきているものをぼくは持ってきていないということがよくあった。ジャガーシグマを持っていないわけではないところがまた、ぼくらしいといえばぼくらしかった。


 ――なんでぼくはこうなんやろう。


 机の茶色い天板の上に並べられたクラスメイトたちのジャガーシグマと、メーカーがどこかすら判然としないぼくの白い靴を見比べながら、ぼくは自分の迂闊さにがっかりしていた。絵を描く前のスタートラインから、みんなとは差がついてしまったように感じられた。


「まず鉛筆を用意して、三十分で運動靴をスケッチします。それから、水彩絵の具で彩色するんやで。いいですかあ」


 よく通る声で先生が同じことを二度三度繰り返して指示する。ぼくは気持ちを切り替えようと鉛筆を手に取った。


 美術は授業は好きだ。数学や理科といった教科と違って答えを導き出すための公式はないし、明確な形の「正解」というものもない。そのとらえどころなさに、ぼくにもできるかもしれないと思えたからだ。


「はじめてくださあい」


 ようするに、ぼくは絵が好きなのだ。


 スケッチブックに2Bの濃い鉛筆で運動靴をスケッチしていく。少々不格好でも構わずぐいぐいと描く。むしろ少しくらいいびつな方が、味のある絵に見えるはずだ。


 爪先部から描き始める。デコボコしたソールを熱心に見ながら鉛筆を進め、踵の部分まで一気に描いてしまう。履き口の微妙にカーブしているラインを慎重に追いながら、ベロや靴紐の箇所に差し掛かるが、この辺の複雑な部分は感覚で描いていく。


 細部を忠実に再現していたら時間がいくらあっても足りない。スケッチには三十分という時間しかないのだ。


 靴のアッパー部分にデザインされている模様も輪郭線で書き込んでいく。ジャガーシグマならこの部分が「Σ」と格好よくデザインされているんだけれど、ぼくのは数本の曲線と直線が組み合わされたデザインだ。それが意味のあるデザインなのかどうか分からなかった。


 ――靴自体がパチもん臭くて、なんだかなあ。


 力強く輪郭線を書き込んだら、次に鉛筆で影を描き込んでゆく。「今日の制作は、輪郭だけでなく、影まで描き込まないと上手にできないよ」と先生。


 ともかく絵に影を描き込んでゆく。白い靴だから陰影が際だって描きやすい。なるほど、デッサンのモデルに白い石膏像がよく使われるけれど、こういう理由からか。


 描き始めて三十分が経つ頃には、スケッチブックの中に一足の運動靴が姿を現した。われながら下手ではない。それなりに――。いや、もしからしたら、かなりうまい運動靴の絵になりそうだ。


 下書きが出来上がってみると、気持ちに余裕が生まれるのか、クラスメイトたちのはかどり具合が気になってくる。


 前の席、磯やんの肩越しにスケッチブックを覗き込むと、あらかた描き終わっていた。スケッチブックの中の靴は、ごちゃごちゃと線が入り乱れて真っ黒だった。


「磯やん。雑巾を描いたんか」

「やかましい、宮森。いまから直すところや」


 そして、こんな時間になってからごしごしと消しゴムでスケッチを消し始めた。今から描き直していて、授業が終わるまでに最後まで描けるのか、磯やん。

 少なくとも磯やんよりは上手に描けているようで、ぼくは満足した。


 次に振り返って後ろの席の健太を見る。


「な、なに?」

「健太、ちょっと見せてくれや」


 嫌がる健太からスケッチブックを奪い取るようにして受け取るとそれを開いてみた。

 健太の絵は、繊細な線で描き出されていて、まるでスケッチブックの上にジャガーシグマが浮き上がってくるようだった。細かな線の描き込み、強弱の効いた輪郭線、緻密な濃淡で表現された陰影。


 ――あかん、こんなもん見なければよかった。


「う、うまいやないか」


 情けないことに、動揺のあまり声が裏返った。


「そんなことないで」


 見え透いた謙遜はやめろ。その証拠に――。ほら、健太の鼻の穴が得意そうにひくついている。


 ――下書きでは健太の絵に完敗や。


「宮ちゃんの絵も見せてえな」


 ――あほか、誰が見せるかい。


 健太を無視して自分の机に向き直った。授業はあと二十分。この間に水彩絵の具で彩色しなければならない。たっぷり時間があるというわけではないのだ。


 鉛筆の下書きを生かすために、絵の具は薄く溶く。そして、スケッチブックに塗る時も濃く厚く塗らない方がいいらしい。「下書きがしっかり描けていれば、絵の具は少なくていいからね」教壇から教室を見回しながら、先生が注意を促す。


 ――わかってる。


 パレットの上に、白色の絵の具をチューブからひねり出す。運動靴は白いから当然だ。そこで考えた――本当にこの靴は白いか。


 確かに「白い靴」に違いない。でも、絵の具の白色とは違うし、部分によって微妙に色合いが異なる。靴紐やソールは土埃を吸ったのか茶色がかっているが、アッパー部分のメッシュはそれほどでもない。そこにナイロンでデザインされている不可解な模様に至っては、新品同様に真っ白だ。


 そこでパレットには、茶色や黄土色の絵の具も出してみた。これを混ぜ合わせて、靴の持っている「白さ」を表現してみようという作戦だ。


 机の上に置かれた運動靴と、スケッチブックの中に描かれた運動靴を見比べながら画面に絵の具をのせてゆく。


 実際の靴に似せて、明るい色からだんだんと暗い色へとスケッチを彩色していくにつれて、運動靴に表情がつき、躍動感が出てくるようだった。


 ――すげえ。うまいやんか。


 文字どおり自画自賛。

 彩色を終えて筆を置くと、スケッチブックの中に「ぼくの運動靴」が現れた。我ながらよく描けたと思う。部分部分によって違う微妙な白さや履いているうちにできた細かな傷をもうまく再現できた。


 ただの靴が絵になるなんて。こんなに心動かされる絵になるなんて意外だった。


 彩色が進むと、またぞろ他人の進み具合が気になってきた。さっそく磯やんの絵を肩越しに覗き込む。スケッチブックの中の靴は、まだ輪郭線だけでスカスカだった。絵の具ものっていない。

 磯やんは、あらかた完成していた下書きを消しゴムで消して描き直そうとしたが、途中で挫折したようだ。


「なんや」


 不機嫌そうな磯やんにジロリと睨まれた。その三白眼が怖い。


「なんでもない。気にせんとって」


 首をすくめるようにして、浮かせていた腰を椅子に下ろした。かわいそうだけど、今日の磯やんはもうだめだ、時間中には間に合わない。

 次に後ろの席を振り返った。磯やんと違って健太はしっかりと彩色まで終えている。


「あ」

「見るで、健太」


 さっと机の上から健太のスケッチブックを取り上げる。取り返そうとする健太の手をかわすようにスケッチブックを頭より高く差し上げながら絵をチェックした。


 ――こいつ、こんなに絵がうまかったっけ。


 そこには履きこなされたジャガーシグマが描かれていた。日に焼けたクラリーノのやや黄色味がかった感じ、履いているうちに汚れた茶色の靴紐、黄土色に変色してしまった爪先や踵部――白い靴という、ぼくの思い込みを突き抜けた「茶色い靴」がとてもリアルだった。健太が通学に履いている運動靴がそこに存在していた。

 言葉もなく、ぼくは差し上げたスケッチブックを眺め続けた。


「どう思う」


 自分自身、とてもうまく描けたと思っていただけに、健太の方が上手だと思うなんて答えたくなかった。ぼくの周囲でだけ時間が凍りついた。

 健太のスケッチブックを手に敗北感に苛まれているぼくに予期しない方向から声がかけられた。


「宮森くんも上手やないの」


 ぼくが机の上に広げたままにしたスケッチブックを身を乗り出すようにして覗き込んでいたのは、左隣の席の学級委員、澤野さんだった。


「上手に描けてるで」

「そ、そうかな」

「うん」


 澤野さんの言葉に促されて、健太の靴の絵と自分の靴の絵を比べて眺める。拙くはない。上手と言えるかもしれない。ただ――薄い。ぼくの絵はとても薄い。実在感が希薄だ。


「澤野さんの絵も見ていい?」

「わたしの? ええよ」


 左隣の机の上に広げられているスケッチブックの絵は、健太のものほどではないにせよ、しっかりと靴のこなれた感じが画面に表現されているように思えた。

 澤野さんの絵もなんだか茶色い。


 ――「白い」のがあかんのか。


 そう思って机の上に置かれた運動靴を見てみるが、やはり白い。

 ぼくの靴はまだおろして日が浅いし、元々ジャガーシグマよりずっと白い材質でできた運動靴だ。だから、ふたつを比較すると圧倒的に白い。


 ぼくの靴が白いことは間違っていない。しかし、白いと絵が薄っぺらく見える。茶色く描けばリアリティが出るのかもしれない。でも、実際の靴は茶色くなくて、白いのだ。


 ぼくは考えた。

 白い。白いかなあ。茶色くない。白いだろ。白いよな。白い白……。なんとかならないかとぐるぐるぐるぐる考える。


 ――でも、これ以上白くは描けへん!


「あと三分で提出してくださあい」


 先生の終了宣言。もう時間がない。

 見比べていたところで自然と絵が変化していくわけではない。ぼくが何か手を加えない限り。見てるだけでは何も変わらない。

 机の上の運動靴を見る。じっとその白さを見つめる。見続けることで何かが見えてくるかもしれない。

 まばたきもせずに見続けていたら、目がちかちかしてきた。白く見えなくなってきた。


 ――白く見えなくなってきた?


 ぼくは、おもむろに絵の具箱から別の絵の具のチューブを掴み取って、パレットにひねり出した。筆洗いから筆を抜き取り、水を含ませたままその絵の具を筆にとる。

 隣からこの様子を見ていたのだろう。澤野さんがあっと小さな声をあげた。


「宮森くん、それ青やで!」


 ――言われんでもわかっとるよ。


 澤野さんの声に立ち上がった健太が、後ろから肩越しに覗き込んでくる気配を感じる。そこから黙ってぼくがすることを……。


 ――見とれ!


 青い絵の具を含ませた筆をスケッチブックに描かれた運動靴の上に下ろし、無造作にただひと刷きした。

 薄く青い色が白い運動靴の上に置かれた。





  翌週は一学期最後の授業であり、鈴木先生は提出した運動靴の水彩画に評価をつけて返してくれた。ぼくの絵の評価は「A+」、健太の絵は「A」だった。


「白い運動靴のどこに青いところがあるねん」


 評価が記されたふたつの絵を見比べながら健太が不満を漏らしている。実際には見えない色を使った絵の評価が高いことが気に入らないようだ。ひがむな、健太。


「宮森の靴に青いところなんかあらへんで。おれも青く描いたら『A』やったかもしれん」


 脇から覗き込みながら、磯やんが鼻息荒く健太の感想に同調している。いやいや、仮に磯やんが青い色を使ったところで、鉛筆の下絵があんなにスカスカなんだから「C」は「C」のままだと思う。


 健太から自分の靴の絵を取り戻して眺めてみる。

 運動靴の側面、未だに不可解な模様から踵にかけて、薄くて細いが明らかな青いラインが短くわずかに滲むように描かれている。


 鮮やかな――青。

 白い地色から立ち上がる僅かな青は、意外であると同時に鮮やかで見る者の目を引きつけ、翻って周囲の白さを際立たせている。のっぺりと軽薄な印象しかなかった靴の絵は、青が鋭いアクセントとなって見違えるように引き締まり、立体的な透明感を得た。ぼくは「青」を使ってを描くことができたのだ。


 ちがう。確かに描こうとしたものは靴だったけれど、結果としてそこに描かれ、健太や磯やんが悔しがり、先生が「+」の評価をつけたものは、「青」に収斂されるだった。






 あれから長い年月が過ぎた。

 ぼくはいま、小説を書いている。うまく書ける日もあれば、まったくうまくいかない日もある。白い靴に青い絵の具を重ねるようなひらめきは、小説を書くぼくにはまだ訪れていない。でも、いつかきっとを手する日がくると信じて、ぼくは今日もペンを執っているのだ。

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