第35話 月見
柔らかな布に包まれ、赤子は母親の隣で穏やかに眠っている。
産声で外界の空気をぞんぶんに吸い込み、初仕事を終えたような無垢な表情だ。本能的な反応か、時折ふっくらとした手足が無秩序に動いている。
反対に、母親であるフィリダは一目で分かるほど消耗していた。指一本を動かすのも辛そうな疲労具合だ。流した汗で髪は額に張り付き、肌は蒼白になっている。
それでも、浮かんでいる表情は慈愛そのものだ。
慈しむように産まれたばかりの我が子を見つめている。
その侵しがたい光景を前にして、エミリーはようやく自分の仕事が成功したことを実感した。
同時に全身から力が抜ける。意思とは関係なく膝が崩れ、床にぺたりと座り込む。
「…………はあぁ」
長い吐息がこぼれ出た。今さら全身に震えがくる。上手くいって良かったと、思わず自分の両手を見た。
震える腕にはまだ感触が残っていた。
座り込んだエミリーを見て、フィリダが淡い微笑を浮かべる。
「みんな……ありがとうねえ……おかげでこの子も元気そうだよ」
「いえ……おめでとうございます、フィリダさん。お疲れさまでした」
エミリーたちも必死に行動したが、誰よりも頑張ったのはフィリダだ。間近で見ていたエミリーは心からそう思う。
もう一度深く息を吐き出し、エミリーは震えの残る体に力を入れる。片付けをしなければならない。それからフィリダの汗を拭いて、服も替えた方がいい。
両膝に手をついて立ち上がる。重い緊張から急に解放されたせいか、体がふわふわと落ち着かなかった。
と、立ち上がり視線が高くなったところで、シエラの顔色が青いことに気がつく。
先程まで毅然と助産にあたっていたシエラが、今は壁に体を預け浅い呼吸を繰り返している。
「シエラさん、大丈夫ですか?」
「……大丈夫です。ですが、少し魔力を使い過ぎました」
シエラは苦しそうに目を細めた。
出産に当たり、母親は体力と共に大量の魔力を消費する。シエラは魔力を消耗したフィリダのために、長時間魔力を譲渡し続けていたのだ。
多くの魔力を失ったことでシエラの体力は回復が遅く、思考は靄がかかったように重い。
その様子を見たエミリーは眉を八の字に下げる。
エミリーの魔力は並み程度でしかなく、また魔力の扱いも得意とは言えない。フィリダへの魔力譲渡はシエラに任せきりだったのだ。
「そうですよね……。本当にシエラさんがいてくれて助かりました。後は私とアニスちゃんでやるので、シエラさんは休んでいてください」
「すみません、そうさせてもらいます……」
そう言ってシエラはふらりと部屋を出て行った。隣の部屋で休むつもりだろう。
シエラの後ろ姿を見送り、エミリーはアニスに向き直る。
アニスはまだ興奮が続いているようで、頬を上気させてやる気を漲らせている。
――あとで反動が出るかも。ちょっと心配かな。
それでも手が足りないのは事実。
気にかけておこう。とエミリーは気合を入れ直す。
「それではアニスちゃん、私たちでお片付けをしよう。私はフィリダさんの体を拭いて服を替えるから、アニスちゃんは汚れた物を運んでくれる?」
「はい! お任せっす!」
気合の入り過ぎた声に苦笑しつつ、唇の前に指を当てる。
「……2人とも眠ってるから、静かにやろうね」
つい先程まで起きていたフィリダは、糸が切れたように目を閉じている。体力の限界だったのだろう。
「……気をつけるっすー……」
頷き合い、なるべく静かに2人は行動を開始した。
後片付けが終わりに近づいた頃、エミリーはアニスに呼び止められた。
「どうしたの?」
「お父さんの方が限界っぽいっす。全身綺麗にしたから会いたいって言ってるっす」
「ああ……。うん、そろそろ大丈夫かも」
父親であるカルヴィンは出産の途中で家から追い出されたままだ。汚れた恰好になっていたので、戻ってくることも拒否した。
今は片付けもほぼ終わり、母子ともに安定している。カルヴィンも家族の顔を見るべきだろう。
エミリーはアニスと共に部屋を出た。
カルヴィンは居間で落ち着かないようにぐるぐると歩き回っていた。その恰好を、エミリーは上から下まで確かめる。
綺麗にしたというのは本当のようだ。手指まで清められ、服も清潔なものに着替えている。
「カルヴィンさん」
「お、おおう、どうだ?」
動転しているのか、主語がごっそりと抜け落ちている。それだけ心配だったのだろうと、エミリーは笑顔を作る。
「大丈夫ですよ。2人の顔を見てあげてください」
カルヴィンの顔が輝く。
「あ、ああ! 見てくる! ありがとよ!」
「フィリダさんは疲れているので、あまり長い時間はダメですよ?」
「おう!」
怪しげな忍び足で寝室に入るカルヴィンを見送った。
部屋に入ると同時に、カルヴィンの目はひとつの存在に釘付けになった。
赤子という名の通り、肌はまだ赤みが強い。自分に比べて圧倒的に小さく弱く、声を発しただけで壊れてしまいそうだ。
それでも、カルヴィンが感じたことのない程の存在感がある。
震える足で、カルヴィンは前へと進んだ。
狩場で息を殺すときより静かに、空気すら揺らさないようにそうっと赤子を覗き込む。
小さな生命が呼吸をしている。自分の子が、確かに生きている。
そのことを間近で見て、カルヴィンは自分が父親になったのだと深く自覚した。言葉にならない感情が溢れ出る。
どれくらい我が子を見つめていたのか、カルヴィンは小さな笑い声でようやく視線に気がついた。
「フィリダ……」
「父親になったってのに、なんだいその酷い顔……」
カルヴィンの頬から、ぼたりと涙が床に落ちる。
「仕方ねえだろ……お前以外に家族ができたのは初めてなんだ」
泣き笑いの表情を浮かべながら、カルヴィンはフィリダの頬を撫でた。
「フィリダ、ありがとう。よくやってくれた」
「ふふ、名前決めないとねえ、あんた」
洗ったばかりの洗濯物を手に外へ出たところで、アニスは自分の師匠を見つけた。
「あ、師匠。もう解放されたっすか? 早かったっすね」
「うむ……色々あってな。それは干すのか? 手伝おう」
「助かるっす」
2人で家の裏手へ移動する。洗濯物の手分けも慣れたものだ。
アニスが洗濯物を広げて皺を取り、背の高いハウエルが受け取ったものを干していく。
「それで、帰るのはいつになったんすか?」
いつも通りの声色で、少なくともアニス本人はそう認識して問いかけた。
慣れたことだった。生まれたからこの方、アニスは自分の居場所を自分で選べたことはない。
希少な光の適性は祝福であると同時に呪いだ。ただそれに恨みはない。少なくとも、適性のおかげで良い出会いには恵まれた。
そう。誰かを責める気持ちはない。ただ、別れには胸が痛むだけだ。
ハウエルの顔を見ずに、平気な顔をして回答を待つ。
「あー、うむ、アニスよ。……覚悟を決めているところであれなのだが、我々はこの村にいてよいことになった」
呆然と顔を上げる。まさか、あの上司がそんなことを許すはずがない。
それでも期待してしまう。
「本当っすか……?」
声が震えた。
「ああ、本当だとも。私はたまに仕事に出なければならぬが――この村に住み続けることは許可をもらうことができた。引っ越しの準備は不要だぞ、我が弟子よ」
ハウエルは嘘が下手だ。だから顔を見れば、本当かどうかは一目で分かる。
理解すると同時に、アニスは洗濯物を放り出してハウエルに抱き着いた。
ハウエルの胸に顔に埋める。
「良がっだっず……!!」
ハウエルは湿っていく胸元に苦笑しつつ、弟子の頭を撫でた。
シエラは人の気配で目を覚ます。場所はカルヴィン宅の一室。足りない魔力を回復させるために、体はいつの間にか睡眠を選んでいたらしい。
長椅子から身を起こすと、すぐに近くにロイがいた。
「悪い、起こしたか。様子だけ見るつもりだったんだが……」
ばつが悪そうに後ろ髪を掻く主に、シエラは急いで姿勢を整えた。
主の前で眠りこけるとは何たる不覚か。焦りで心臓が高鳴る。
さらに、覚醒に合わせて睡眠前の記憶が脳裏に浮かんだ。
シエラは慌てて床に跪き、深く頭を下げる。
「ロイ様、大変申し訳ございません」
「急にどうした?」
小さく唇を噛む。
「私は……ロイ様が戦いに赴かれたことを知っていながら、フィリダさんの出産を優先いたしました」
ロイを信じていたと言えば聞こえは良いが、戦いに絶対など存在しない。今、この場にロイがいなかった可能性も十分にある。
それでも、ロイならそう指示するだろうとシエラは判断した。
――ずるい謝罪だという自覚がある。決してロイが怒らないと分かっている。
この謝罪は、自らの心を軽くするためでしかない。
「そのことか。気にすんな。むしろよくやった」
想像した通りのロイの言葉に安堵する。同時に、苦い罪悪感が胸に広がった。
「シエラ、手を出せ」
「はい――」
力強く手を引かれ、シエラは立ち上がった。至近距離にロイの笑顔がある。
「シエラ、お前変わったな」
「私が、ですか……?」
思ってもみなかった言葉に困惑する。
「昔のお前なら、命令があっても無視して俺を助けに来たはずだ」
「それは……」
そうだ。そもそも、ロイ以外の存在など天秤に載せることすらなかった。
自分はいつの間に、これほど主の優先順位を下げるようになったのか。
「ロイ様、私は……!」
「いい。その先の言葉は言うな。シエラ、俺は満足してるんだ」
シエラは驚きを受かべて主の顔を見つめる。
「俺たちはそれくらい、この村の奴らを大事に想うようになった。ああ。俺たちはもう2人だけじゃない。ちゃんと仲間ってヤツができたらしい」
「ロイ様……」
心からの笑みを浮かべるロイに、シエラの言葉が詰まる。
「その呼び方もいい加減終わりだな。ちょうど、ついさっき『ロイ様』の最後の権力を使い切ったところだ。――これからは本当に、俺はただのロイだ」
ロイは笑みを消し、真剣な瞳でシエラを見つめる。
「だからシエラ。お前も今からただのシエラだ。俺の従者ではない、ただのシエラとして生きろ」
シエラの視界が暗くなる。傍にいる大義名分を失ってしまったら、これからどうすればよいのか。
そう俯いたシエラは、急に温かさを感じて戸惑った。ロイに抱きしめられていると気づいたのは数瞬後だ。
「――ただのシエラになった上で、これからも俺と一緒にいてくれ」
「……っ、はい!」
ルヴィの体が空いたのは太陽が沈む頃だった。
今後の予定の話し合いに、一拍する騎士たちの寝床の調整、村の秘密保持の仕方など、村長として矢面に立たなくてはならない事柄がいくつもあった。
食事の手配にも走り回ったせいで、まともに飲み食いもできていない。
ようやく見上げる余裕のできた空には、もう気の早い星が瞬き始めている。
ひときわ大きく見える月が、頂上で白く光っていた。
「……疲れた。もうこんな一日は二度と御免だ」
辺境の村長には、今日一日で入った情報は質も量も手に余る。当分の間は頭を悩ませる日々が続きそうだった。
――それでも、『頭を悩ませる』程度なら軽いものか。
「今回は、誰も死ななかった」
心を無にして、新しい墓を建てる必要はないのだ。
ルヴィは幸運を噛み締める。同時に、今回の出来事が幸運であってはいけないと強く思った。
出会いと幸運を司る
自分たちの身は、常に自分たちで守る。それが辺境の地で生きる者としての覚悟だ。
「……ただそのために、どこから手をつけるべきか」
今日一日酷使して、熱を持ったような頭では良い案が出て来ない。
ルヴィは頭を軽く振った。今の自分に必要なのは思考ではなく、しばしの休息だ。
そう家に足を向けたとき、近寄ってくる誰かに気が付いた。両手で何かを抱えている。
「……エミリー?」
「ルヴィさん、お疲れさまでした。お腹が空いてるかと思って、軽い食事を作って来たんです。食べませんか?」
「助かる。ちょうど空腹で困ってたんだ」
ルヴィは腹部に手を当てて苦笑する。空腹とストレスで、胃が嫌な不快感を主張しているところだった。
エミリーに連れられ、いつも使っている屋外の休憩所に移動する。
ルヴィが丸太そのままの椅子に腰を下ろすと、エミリーが食事を広げてくれた。
メインは割ったパンに燻製肉や野菜が挟んだ物。それに漬けた蕪と、酒を垂らした茶が付いていた。
エミリーに礼を言い、ありがたくいただく。茶に入った酒は強い物のようだ。濃い酒精が、夜の秋風に当たった体を温めてくれる。
「今日は大変でしたね……」
「そうだな。本当に大変だった……」
揃って溜息を吐く。エミリーも疲労が溜まっているのか、普段は飲まない酒入りの茶を口に運んでいる。既に頬が若干赤い。
軽食を口にしながら、ルヴィは今日の出来事を改めてエミリーに話していく。
食事と報告が終わる頃には、周囲はすっかり夜の帳に覆われていた。
「――そういうわけで、これから色々と考えることが多い」
言い終わり、エミリーの顔を見る。エミリーは困ったように笑っていた。
「思った以上にお話が大きくて、なんだかちょっと、遠い場所のお話みたいな気分になりますね」
「そうだな……でも」
「はい。本当のことで、考えて動かないといけないのは、私たちです。……まだちょっと、上手く呑み込めてないですけど」
「それは俺もだ」
これからの増える苦労を共有して、2人は顔を見合わせて笑った。
会話が止まる。エミリーがふう、と息を吐いて空を見上げた。
「今日は満月ですね」
エミリーの視線を追う。天上に座す白い月は、他のどの星よりも明るく輝いている。
月光に翳した腕が濃い影を作るほどだ。
月に魅入るのは、果たしていつぶりだったか。
「ああ……綺麗な月だ」
ルヴィの呟きの後に言葉は続かなかった。
2人は静かに、ゆっくりと沈む月を見つめ続けた。
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