エピローグ

 ただ無我夢中で、近くに転がっていたものを手にとってふるった。

 手にとったものの持つ、鋭さも知らずに。


 床は赤い色で染まっている。ねえさんはとても綺麗な人で、その血ですら私にはとても綺麗に見えた。

 ねえさんの胸に、深々と包丁が刺さっている。


「この世界はいびつだわ。見えてしまうのはどうしようもない絶望だらけ。どこへ行こうとゆがんでいて、届かない。いつしか私も合わせていびつになってしまっていたのね……」


 ねえさんがゆっくりと言葉を紡ぐ。

 私は震えていて、言葉の意味を理解できず、呆然とする。私は私のしたことを理解できずに呆然としていて、でも間違いなくこれは自分のやったことだと同時に受け入れてもいる。


「ああ、ごめんね。ごめんなさい久遠。貴方を守れたらよかった。貴方を守れるねえさんでいれたのならよかったのに。いもうとの貴方を守れたのならよかったのにねえ。せめてこの箱の中に、優しい箱の中に閉じ込めて守れたのなら良かったのにねえ」


 私の震える手が掴む血塗れの包丁を、愛おしいものに触れるように指を伝わせてねえさんはそう言った。ねえさんがそのまま伝わせた手を、指をどうしようとしたのかはわからない。私の方へ包丁に触れた指をゆっくりと私の方へ伝わせて、途中で崩れ落ちた。

 私の首を締めていたねえさんの腕が、指が、私に触れることは叶わず地面へ落ちた。


 ねえさん。ねえさん。

 私はねえさんがいれば良かったのにね。だけどねえさんはそうではなくて、でもねえさんは私を確かに愛していてくれて。

 だけどそれだけじゃどうにもならなくて。

 ねえさん。この世界は悲しいよ。

 でもねえさん。でもね、ねえさん。


▼▼▼


 全身が筋肉痛だ。寝返りを打つのもいやになって目が覚めたばかりだというのに声を出す。


「痛ったぁ……」


 天井を見る。白くて、パネル上の無機質な天井。この天井は知っている、五葉塾だ。

 私は跳ね起きて、身支度を整えて塾長室へ行く。

 師匠は塾長ではなくて、代理塾長なのだけど、塾長の姿を見た人は師匠ぐらいしかいなくて、細かいことは誰も知らないものだから師匠が塾長室を私物化していて、皆師匠に会う時は塾長室へ行く。

 ノックもしないで扉を開けると見知った後ろ姿が見える。


 ビスクドールを和風に拵えたような容姿、まっすぐと艶のあるロングストレートの黒髪が目に留まる。

 柔らかな目尻が目に留まるが、その穏やかな印象に騙されると面倒なことになる。色々な意味で。

『桐野みかさ 代理塾長席』と書かれた卓上ネームプレートに目が止まる。

 私よりも一見幼く見える少女の姿をした存在、五葉塾を現在統べる存在、それが私の師匠だ。 


「おや、久遠さん、起きたみたいで。東光院さんになんでもかんでも運ばせるなんて東光院も大変ですねえ。最近だと二十代でギックリ腰になる可能性もあるらしいですよ。現場の後片付けとかあなたの回収とかで結構大変だったらしいですよぉ、桐野は手伝いませんでしたが」


 霧吹きで植木鉢に水を吹きかけながら、背中越しに私に師匠が話す。気配でも誰だかわかっている風だけど、こうやって顔を見ないで来た人に話しかけるのやめた方がいいと思う。たまに間違えて恥をかいているし。別にカッコよくもないし、と思いながらも今回は言葉をかける相手を間違えていないのでスルーして、私は出迎えの言葉に答える。


「それなら師匠が心配した方がいいんじゃないですかぁ〜?」

「ええ!?この桐野が!?こんなに幼く可憐な外見の桐野が!おかしいですね!」

「……師匠、めっちゃタチ悪いですよ、そういうの」


 師匠、もとい五葉塾代理塾長、桐野みかさ。外見こそ少女の姿をしているが、その実、正体は私も詳細を把握していない。

 聞くところによると、東光院さんが幼い時から代理塾長としてこの塾に居ただとか、なんだとか。

 正直なところ、私は師匠の性別も年齢も、本当のところ何なのかすら掴めていないのだ。

 見た通りの少女かもしれないし、老女なのかもしれないし、もしかすると外見自体何かで変えた男性かもしれないし、もしかするとそもそも人間ですらないのかもしれない。

 でもそれでいい。私はそれでいい。だから私は師匠を『瞳』で《視る》こともしない。

 何でもかんでも、曝け出すことだけが人間関係でもない。


 とか考えていると更に師匠は「ギックリ腰?自分はこんなに若いですが?」みたいな悪ノリを続けていて見ていられない。


「ええ〜?タチ悪い〜?桐野ちょっとわかんないです」

「東光院さんにサポートつけないで、そうやって心配ぶることあたりですかね」


 実のところ東光院さんはサポート業務が結構多忙でちょくちょく人員が確保されていないことに文句を言っていて、だけどなんだかんだ東光院さんが手を抜けないのをわかって師匠は何とかなる範囲は放置していたりして、なおさらタチが悪い。

 とはいっても、私もめちゃくちゃ東光院さんを足とかに使うので何も言えないのだけど。


 ふと、空気が変わる。

 先ほどまでふざけていた師匠が背中をむけたまま私に話しだす。


「ご苦労様でしたね。今回も。完全に形作られた怪異の討伐。戦闘の激しさでいうなら今回は特に、といったところですかね」

「別に。私は納得してここにいて、やらなきゃと思ってることとかやってるんで。でも授業中に電話ならしてくるのはマジで勘弁してほしいですね」

「そうですか、そうですか。幸い大きな怪我はなかったようですよ、良かったですね。んで、榎音未さんについてですが」


 と言って師匠が改めてこちらを向いて話す。


「榎音未さん。過去の経歴を本人に聞いたり、洗い出したりしたらどこでも何かしらの怪異と絡んでますよあの人。ある種の体質ですねあれは。能力といってもいいかもしれない。この手の事態に強く引き寄せられるんじゃないかと」

「それで、どうするんですか?これから。言っておくけど事件の原因として何か処理とかひどいことするなら私どっか連れ出しますからね、あの人」

「まさか。そんなことしませんよ。当面は怪異の被害者、あるいは関係者として保護しますよ。ああ、これは本人同意済みですよ。ここなら怪異が起きても対応できる人員もいますしね。ある程度対処がわかっている分住みやすいでしょう」


 とりあえずは私の想定通りの待遇にしてくれているようで安心する。


「しかし、今回の大元はどこにあるんでしょうね」


 師匠がポツリ、と呟く。


「いや、サメへの信仰が原因というのはわかっていますよ。あんまわかりたくないですけど桐野、サメ嫌いですし。でもね」


 書類を机の上に置く。忘願村の歴史。いつに村が生まれ、いつに人が消えて、いつ終わったか。私が調査を依頼していたことが。


「久遠さんが調査を依頼してくれたこと、調べましたよ。忘願村の歴史について。でも、成果としては何もないですね、何もないということがわかりました。特別な出来事が観測されている範囲ではない」


 師匠は言葉を続ける。


「でも、そこで気になっているのはサメがどこからやってきたのかってことなんですよ。ハワイの話も流入した痕跡はない。見世物小屋とかがやってきたとして、サメを見世物にしていたなんて話もない。そういう見世物小屋とか、桐野は聞いたことないですし。荒唐無稽すぎやしません?」

「確かに」

「とはいえね。。じゃあ、誰がサメを皆に知らしめたのか。そもそもそんな話がなかったこの村で、なぜそれを信仰にしようと考えさせられたのか。物珍しい物が来るってのは確かに滅多にないことでしょうけど、閉鎖的な村だったのならそれを讃えるようになるってのは、不思議じゃないですか?もし、もし何者かがその概念を持ち込んだとしたら」


 イメージする。鮫という幻想が持ち込まれた村を。イメージする。鮫という幻想を皆に植え付ける存在を。

 鮫という怪異を生み出すために糸を引いた存在を。


「ま、桐野の妄想に過ぎませんけどね。ただ、こういうことは今までもあったんですよ。ないはずの物が《在る》ことになって、それが問題を起こす、みたいなことがね。まぁこの話は追々していきましょう。まだ全身痛むでしょうし、今日は帰って休んだ方がいいですよ」


 そう言って師匠はそれまでの真面目なトーンを一転させておどけてみせる、なんともわざとらしい調子が勘に触ったけど実際に私の体はボロボロで、土日休んで月曜日には学校に行けるか自信がないけど、これから私は家で二日間泥のようになってしっかり寝て月曜日は学校に行かなければならない。金曜日には早退してしまって何か宿題が出されてないかクラスメイトに聞かなければならないし、宿題があれば誰かに頼み込んで必死に書き写さないといけない。大切なのはかすかな日常にしがみつくことなのだ。私という非日常に生まれた人間が、それでも日常に生きたいのならば出来る限りは日常を生きなければならない。


 非日常で鮫と戦っている場合ではない。私が真に戦わなければいけないのは日常なのだ。


 願わくは榎音未唯愛にもそのような日々にしがみつく流れが戻ってくることを。


「ところで、榎音未さんは感謝していましたよ。誰かに手を差し伸べられたのは初めてだって」


 医者をやって、カウンセラーみたいなこともやっていたのなら、誰かに手を差し伸べ続けていたんだろうに。


「感謝されるようなことじゃないんですよ。私は入り口に引っ張っただけなんで」

「それでも、その場所へ引っ張られた瞬間を人は忘れないものですよ、特に五葉塾になんてやってくるズレた人たちはね。まぁ桐野は知りませんけど」


 そう言って師匠は少し微笑む。わけわかんないな、と私は思って「はーそうですか」と言って塾長室を後にする。


▼▼▼


 そうして廊下で榎音未さんと遭遇、もとい再会する。


「ああ、今回はどうにも面倒に巻き込んだみたいで……」

「いいや、私こそだいぶお世話になって。面白いですね、ここは。普通では生きられない人が多いんですね」


 あなたも大概ですよ、と言おうかと思ったが軽口を叩くにはまだ早すぎるかなと思って適当に頷く。妙に恥ずかしいことを言った気がして、私は少しやりにくさを感じる、というか恥ずかしい。


「久遠さん、私、ここで当分働くことになりました。表向きは事務で、そうでないとこでは怪異へのあれこれで。……もしかしたら、私にも何かできることがあるかもしれない、そう思ったんです」

「えっ、怪異がらみの事件もですか?」

「はい、あれ、聞いてませんでしたか?代理塾長が、久遠さんに指導してもらうようにと……」


 聞いてない。やってくれたな師匠。


「あの、大丈夫ですか?顔色が……」

「ああいえ!ちょっと相変わらずの怒涛の展開でびっくりしているだけなので!はい!よろしくお願いします!」

「よろしくお願いします。ちょっと事務手続きがこれからあるそうなので、では……」


 と言って榎音未さんが去っていく。

 私は「あの」と、思わず呼び止める。


「なんですか?」

「面倒なことに巻き込まれたとか思わないですか?結構五葉塾って、普通、とはちょっと、いやかなり違いますし。こう、咄嗟に引き込んだ私が言うのもアレなんですけど」


 私の言葉に榎音未さんは一瞬きょとんとして微笑する。


「逆ですよ」

「逆?」

「こんなに普通だと思えた時間は今までなかったです。少なくとも、面倒だとは」


 その言葉に私はなんだか気が緩んで笑う。

 笑いながら「あー私たちは同じ場所にいるんだなぁ」なんて考える。

 繋がっている、なんて実感する。


 集団というのは同じような志向性の人々が集まりがちだ。だから安らぐし、楽しくなったりする。でもそういう集団がこれまで榎音未唯愛を苦しめていたり、今回の村の信仰を作ったりするし、集団から人を弾いて苦しめたりもする。

 どこからが集団の悪性で、どこからが集団の善性なんだろう?

 何を持って、私はその善悪をジャッジするんだろう。

 それもわからないままとりあえず今の穏やかな空気の中で私と榎音未さんと笑う。


 ねえさん。でもね、ねえさん。

 わたしはいま、確かに世界とつながっているよ。


 窓から差し込む穏やかな日差しの中に、こうして同じ場所で笑っている五葉塾が私の今いる場所。


〈壱 鮫神殺し 了〉

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