45. 「夢の葉」の行方

 それは、夢葉が梅雨が明けた7月末に、伊豆半島にツーリングに行った時の出来事だった。怜も翠も、仕事をしていたため、その日は平日であるにも関わらず、彼女は一人でツーリングに行っていた。


 夢葉は、「伊豆」という土地が個人的に好きだった。特に以前、翠に勧められた「西伊豆」が好きだった。

 いつも土日を中心に、首都圏からの観光客でいっぱいで、すぐに渋滞してしまう東伊豆とは違い、西伊豆にはまだまだ「素朴な」景色が残っていると思っていたからだ。


 ゆっくりと流れるような時間、海から吹く潮風、のんびりと釣り糸を垂れる釣り人たち、山々に残る自然の景色、そして海に沈む夕陽。そこは海も山も、自然の景色が残り、どこか文明とは隔絶された雰囲気がある。


 もちろん、西伊豆にも多くの街があり、スーパーもコンビニも銀行もあるのだが、それでも何故かこの風景に「郷愁」のようなものを感じるのであった。


 その西伊豆で、彼女は一人の「男」と出会う。

 それは、男女間の「恋」とか「愛」などという感情とは、かけ離れた不思議な「出逢い」であり、このことが後々、彼女の人生に影響を与えることになる。もちろん、その時の彼女は思いもしなかったが。


 その日、朝から高速道路を乗り継いで、伊豆半島入りしていた彼女は、沼津方面から「沼津土肥とい線」と呼ばれる県道17号を走って、南伊豆を目指していた。

 曲がりくねった細い山道からは海が見渡せるが、そのうち土肥港の近くの丘の上に、駐車スペースがあったので、休憩をかねて、彼女はそこにバイクを乗り入れて、停めた。


 海から吹きつける潮風が心地よかった。そこは、眼前に広がる海と、後方にそびえる山、そして土肥の小さな港町を見下ろすことができる、ちょっとした展望台になっていた。


 知る人も少ない、そこは「旅人岬」と呼ばれており、平日のその日は、人影がほとんどなかった。


 わずかに、スーパーカブが1台だけ停まっており、海を見渡せる柵の前にその持ち主と思われる男が、海を見ながら黄昏たそがれているのが見えた。


 その柵の前に行って、何気なく風景を眺め、写真を撮っていた夢葉。最近、長く伸びてきたショートボブの髪は、すでにセミロングに近くなっており、風に髪が揺れる。


 そんな中。

「女の子一人でこんなところなんて、珍しいね。どこから来たの?」

 男に声をかけられていた。


 夢葉は、ナンパというものが嫌いだった。母の絵美が若い頃、美人だったため、その血を受け継いだ彼女は、傍から見ても可愛い部類に入るためか、彼女自身、街でナンパされたこともあったが、そういう輩が嫌いだったのだ。

 もっとも、「美人」だった絵美と違い、夢葉はどちらかというと、童顔であどけなさが残る「可愛い」部類に入る、ちょっとしたアイドルに近いような顔立ちではあったが。


 ところが、その男にはそういう嫌な雰囲気を感じなかった。不思議なことだが、彼には「人自体が好き」、というより純粋に「旅人に興味がある」というような雰囲気を感じたからだった。


 年の頃が30代以上にも見え、若くも見えるし、おじさんにも見えた。何よりも口の周りに髭を生やしており、クラウチング帽をかぶって、ラフなネルシャツにチノパンという格好が、そこら辺の「チャラい」若者とは違う雰囲気を感じたことが大きかったが。


「埼玉です。おじさんは?」

 自然と、笑顔で答えていた。


「おじさんと言うほど、年じゃないんだけどね。僕は大垣寛一おおがきかんいち。これでも33歳さ。僕は一応、神奈川県生まれだけど」


「あ、ごめんなさい」

 つい謝っていた彼女にも、その大垣と名乗った男は、嫌な顔一つせずに、爽やかに見える笑顔で、「いいよいいよ」と頷いていた。それに「一応」神奈川県生まれと言ったのが夢葉には気になった。


「私、この西伊豆が好きなんです。なんだか、落ち着くというか、素朴な雰囲気を感じるんです」


「僕もだよ。日本中、色々なところを旅してきたけど、西伊豆はいいね」

 日本中を旅してきた。その一言が、何よりも彼女の興味を引くことになる。


「日本中を? あのスーパーカブで、ですか? 大垣さんは何をしてる人ですか? あ、私は黒羽夢葉って言います。大学生です」

 すると、大垣と名乗る男は、


「夢葉ちゃんか。いい名前だね」

 と相好を崩すが、それすらも嫌な気持ちを不思議と彼女は感じていなかった。


 財布から名刺を取り出して、手渡す大垣。その名刺には名前の横に、「旅行家」と書かれてあった。

「えっ。旅行家?」


 驚いて、名刺を見つめたまま固まっている夢葉に、大垣は柔らかい笑顔と、優しげな眼差しを向けて説明する。


「うん。よく驚かれるよ。僕は元々、普通の商社に勤めてたサラリーマンだったんだ。けどね。やっぱり何かが『違う』と感じてね。2年で退職して、バイクで日本一周を始めたんだ」


「へえ。日本一周! すごいですね!」

 気が付けば、夢葉は、この大垣という男の話に聞き入っていた。


 旅が何よりも好きで、実際に旅をするのはもちろん、旅の話を聞くのも、旅番組を見るのも好きだった夢葉には、最も興味を惹かれる話題だった。


 詳しく聞いてみると、驚くべき事実が、彼の口から語られた。


 彼によると、大学卒業後、商社にサラリーマンとして入社した彼は、2年後に退職。その後、自分の50ccのスーパーカブで、日本一周のツーリングを始めたという。

 さらに、その後、海外まで走り、オーストラリア一周、アジア横断、そしてついにはスーパーカブで世界一周まで成し遂げたという。


 その圧倒的なバイタリティー、アクティブな姿に、夢葉は衝撃を受けたが。同時にどうしても気になることがあった。


「すごいですね、世界一周までするなんて。でも、お金はどうしたんですか? 退職して退職金をもらっても、とても続かないですよね?」

 少々無礼にも思えるその質問にも、彼は爽やかな笑顔で答えた。


「スポンサーだよ。僕は、プロの旅行家として、ちゃんとスポンサーをつけて、コラムや本を書いているからね」


「スポンサーがつけば、お金の心配はなくなるんですか?」


「まあ、もちろん普通のサラリーマンのように、安定した収入じゃないし、切り詰めるためもあって、スーパーカブを選んだんだけどね。それに何よりも耐久性、積載性、整備性、どれを取ってもすばらしいからね、カブは」


 それを聞いて、ついこの間、涼とツーリングに行った時のことを彼女は思い出していた。

 確かに、涼も同じようなことを言っていた。

 燃費はいいし、パーツは豊富で汎用性が高い、と。


(すごい人に出会っちゃったな)

 と思うと、同時に俄然、興味が湧いてきた夢葉は、この旅行家と名乗る男に、様々な質問をしていった。


 どこが一番良かったか、どんなところが一番苦労したか、旅をして良かったことは何か、など。


 そのすべてに彼はきちんと、誠実に答えてくれるのだった。


 気が付けば、30分近くも話し込んでいた。

「あ、ごめんなさい。私ばかり質問しちゃって」

 腕時計を見て、謝る夢葉に対し、大垣は、


「いいよいいよ。僕はサラリーマンとは違って、時間には縛られないからね。のんびりと旅をしてもいいのさ」

 そう言った時の笑顔が、素敵だと思う夢葉。


 大人の、しかも自立して「旅」で生計を立てている、不思議な人だと思った。


「君も旅が好きなんだろう? それなら、旅行家になればいい」

 そう、まるで簡単になれるかのように彼は言ったが。


「いえいえ、私には無理ですよ」

 慌てて否定していた夢葉。


 しかし。

「最初から無理だと思ったら、何もできないよ。人生は一度きりだ。それなら自分が本当にやりたいことをやった方がいい」


 その彼の言葉が、将来について、悩んでいた夢葉の心に、くさびのように打ち込まれた。


 むしろ、周りの大人たちは、そんなことを決して言ってはくれないからだ。

 日本という社会は、良くも悪くも「横並び」が大好きな社会で、そこから外れた奇特な人を弾いてしまう文化がある。

 だから、周りの大人は、親も教師もみんな、真面目に就職して、普通に結婚して、幸せに暮らせ、と言うのだが。


(果たして、それが本当の意味での「幸せ」と言えるのだろうか)

 夢葉は、常々そう考えていたから、この男の言葉は、特別な物のように聞こえていた。


 しかも、彼は、

「日本一周は、いきなりじゃ無理かもしれないけど、試しに国1こくいちツーリングでもやってみたらどうかな?」

 と意外な提案をしてきた。


「国1ツーリングですか?」


「そう。知らない? 国道1号をひたすら走るツーリングさ。色んな人がやっているし、かつての東海道だから面白いよ」


「へえ」

 夢葉にとっては、初めて聞く名前だったが、後でネットで調べてみよう、と思いながらも、彼女はここを立ち去ることにした。


「それじゃ、長々とありがとうございます。お気をつけて」

 バイクにまたがり、最後には夢葉自らが手を振って、去って行った。大垣寛一は、爽やかな笑顔と共に右手を上げて、見送ってくれるのだった。


(すごい人がいたものだ)

 と思いつつも、次の休憩を行ったコンビニで、彼の名刺を再度見て、URLが張り付けてあることに気づき、そのホームページを携帯から覗いてみると。


 彼は、本当に「旅行家」だった。

 様々なところからスポンサーの支援を受けながら、日本はもちろん、世界まで股にかけて大冒険をしていた。

 しかも、彼は結婚していて、夫婦でバイクに乗って、旅に出ているシーンもあった。

 それを見て、「素敵」と思うと同時に、奥さんは相当理解がある人じゃないと、まず無理だ、とも思うのだった。


 夢葉の心に、彼は大きな印象を残したが。

(でも、女の私が旅行家なんてやるって言ったら、お父さんもお母さんも絶対、反対するに決まってる)

 バイクに理解があって、自分も昔、バイク乗りだった彼女の母・絵美。それでもきっと母は、娘の幸せを一番に考えているから反対するだろう、という思いが彼女にはあった。

 父の亮一郎は、過保護なほど娘を可愛がり、構ってきた節があるから、考えるまでもなく反対するだろう。


 しかしながら、彼女は、普通にOLになって、普通に結婚して、子供を産んで、という未来を描くことにどうしても抵抗を覚えていた。


(人生は一度きり。自分が本当にやりたいことをやった方がいい、か)

 大垣寛一が彼女に放った一言を、心の中で反芻はんすうしながら、彼女はその日、予定を急きょ、変更して、南伊豆町のホテルに泊まって、翌日に自宅へと帰った。


 当然、学校はサボりになり、帰宅後に両親から小言を言われていたが。

 そんな、杓子定規しゃくしじょうぎな一般論よりも、大垣の言葉、行動が何よりも心に響いた夢葉であった。


 夢葉の「夢」が、「葉」をつけようとしていた。だが、その「葉」が開くまでには今少しの時間を要することになる。

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