21. 真冬の伊豆

 11月。霧の中でのツーリングを経験した夢葉。


 そして、また彼女が苦手な季節がやってきた。

 冬だ。


 元々、女性にはありがちなのだが、彼女も御多分に漏れず、冷え性で、冬が苦手だった。

 冬は、肌が乾燥するし、寒いし、朝起きるのも億劫だった。

 だが、それでも「バイク乗り」である以上、真冬でも乗らなければいけない。


 別に乗らなくてはいけない「義務」があるわけではなかったが、しばらくの間、バイクに乗らないとすぐにバッテリーは上がるし、かと言って、いちいち冬の度にバッテリーを外して保管するのも面倒だった。


 12月中旬。

 昨今の地球温暖化の影響で、11月中はずっと暖かかった気候が、一気に冬の様相を呈した頃。


 何を思ったのか、彼女がバイクで向かった先は、神奈川県の観光名所、「箱根」だった。

 前に翠に付き合って行った時は、ほんの触り程度だったが、彼女は今回、一人で行って、「伊豆スカイライン」を走ってみたかったのだった。



 だが。


「寒い!」


 朝から国道を経由し、途中から小田原厚木道路に乗り、箱根湯本を目指したが、その途中ですでに彼女は参っていた。


 着ている装備は、父から借りているmont-bellモンベル製の「スペリオダウンジャケット」と呼ばれる登山用ジャケットに、愛用のジーンズ。

 バイク用にもコミネ製の冬用バイクグローブ、ENDURANCE製のグリップヒーターまでつけていたが、それでもやはり寒い物は寒い。


 フルフェイスヘルメットのシールドが、自分が吐く息で、すぐに白く曇って見えにくくなるし、足先から這い上がってくるような寒気が彼女の全身に襲ってきた。


 何とか、箱根新道経由で、箱根峠頂上にある「箱根エコパーキング」に着いたが、夢葉はもう帰りたくなっていた。

 ここの標高は約846メートル。一般に標高が100メートル上がると、気温が0.6度くらい下がると言われるので、単純計算で下より4~5度は低い。

 これに風が吹くと、さらに体感温度は低くなる。


 想像以上の寒さに、夢葉は震えるくらい驚いていたが、かと言ってここには自販機すらなかった。


 仕方がないので、県道20号を走り、ひとまず伊豆スカイラインを目指すことにした彼女。


 だが、やっと着いた熱海インターチェンジの料金所で、お金を払おうとしたら、そんな彼女の姿を見た、料金所のおじさんが心配そうな瞳を向けた。


「お嬢ちゃん。こんな時期にここ走るのかい? 路面凍結してるかもしれないよ」


「えっ。マジですか?」


「ああ。気ぃつけてな」


 親切なおじさんは、そう言って相好を崩して見せたが、正直、彼女には予想外の展開だった。


(路面凍結って……。やっぱ来ちゃマズかったかな)


 そう思うも、もう遅い。

 先に進むしかないのだ。


 恐る恐る走ってみると、確かにところどころで路面が黒く光っており、濡れている。これは北国などの冬によく見られる「ブラックアイスバーン」という現象で、一見すると凍ってないように見えるが、その実、路面は完全に氷結していることがある。


 夢葉は、直感的に、この黒い路面を「ヤバい」と感じたので、それを避けながら走った。


 だが、路面ばかりに気を取られて、なかなか走るのが困難だった。


 実際、料金所のおじさんが言うように、ここは標高が高いから、温暖な伊豆でも路面が凍ることがある。


 まして、伊豆スカイラインは、伊豆半島のちょうど尾根の部分を南北に貫くように走っている。つまり、一番標高が高い。


 途中、冬景色の中に映る富士山を眺めることができる駐車場で、彼女はバイクを停めた。


「うわぁ! キレイ!」


 思わず叫んだ視線のはるか先に、頂上に真っ白な雪をかぶった富士山が見える。冬の澄んだ空気に包まれた富士山が雄大な姿を映し出していた。携帯で写真を撮って、SNSに上げ、さらに怜と翠にもメッセンジャーアプリで、グループメッセージを送る彼女。


 しかし、そこから先は、さらにブラックアイスバーンだらけの路面の上、猛烈に寒かった。山の上に吹く北風が冷たく、容赦なく彼女を襲う。


 しかも、やっとたどり着いた亀石駐車場では。


 見事なくらいバイクがいなかった。


 その日は、土曜日だったので、彼女の予想では多くのバイクで、ここも賑わっていると思っていたのだが。


 実際には、車はいてもバイクは1台もいなかった。


(やっぱ、こんな時期に走るところじゃないのかも)


 ここでようやく自販機にありつき、暖かい缶コーヒーで一息ついた彼女。


(失敗した! ってか、めっちゃ寒い!)


 もう後悔していたが、すでに遅い。

 熱海峠インターチェンジで、伊豆スカイライン終点の天城あまぎ高原インターチェンジまでの料金をすでに支払っていたからだ。


(こうなったら、行くしかない!)


 路面に細心の注意を払いながら、恐る恐る彼女は、スピードを落として、何とか伊豆スカイラインを走った。


 実際、その間、ほとんどバイクとすれ違うことがなかった。


 後で知ったが、この時のこの辺りの気温は1度。一般に外気温が3~5度くらいで路面が凍結すると言われている。そういう意味でも、夢葉の挑戦は無謀だった。


 だが、運が良かったのか、それとも必要以上に慎重に走ったからなのか、彼女は一度も路面凍結で転倒することなく、天城高原インターチェンジに到着。


 急いで山を降りた。


 山を降りた先は、伊豆高原。やっと少し暖かく感じた彼女は、国道135号沿いにあるコンビニに立ち寄り、再度缶コーヒーで暖まる。


(生き返る~。わざわざ寒い時に、寒いところに来て、私、何やってんだろ)


 自問自答しながらも、彼女は缶コーヒーの暖かさに、小さな幸せを感じていた。


 その時、携帯からメッセージ受信の音が鳴った。


「こないな時に伊豆スカイラインとは、変態ちゃうん?」


 翠だった。


(変態って、ヒドいなあ)


 思わず笑いながらも、夢葉は、


「変態じゃないです! ちょっと危なかったけど、何とかなりました」


 と返信していた。


 再び音が鳴る。今度は怜だった。


「お前、バカだな」


 それだけだった。


「バカとは何ですか?」


 速攻で返す彼女。


「バカだろ。まあ、『バイクバカ』だけどな」


 何だかそう言われて、少し嬉しく感じてしまう夢葉。

 バカはバカでも、「バイクバカ」は、バイク乗りには褒め言葉だからだ。


「どうせなら伊豆半島一周してしまえ。海岸線は路面凍結しないからな」


 怜からのメッセージだった。


「せやな。伊豆は伊豆でも西伊豆の方が面白いと思うやに」


 翠もそれに応じる。

 元々は、夢葉の提案で始めたグループメッセンジャーでのやり取りだったが、こういう時に二人からアドバイスをもらえるのは助かる、と夢葉は思っていた。


「西伊豆ですか? どこか面白いところありますか?」


 なので、夢葉はこのグループメッセンジャーを有効活用してやろう、と思い立ったのだ。


 すると、しばらくしてから。


「西伊豆スカイラインなんて、無料で走れるし、景色もいいからオススメだが、今の時期はやめた方がいいかもな」


 怜だった。

 名前だけは聞いたことがあった、西伊豆スカイライン。だが、伊豆スカイラインで散々怖い目に遭った夢葉は、さすがに二の足を踏んだ。


 すると、


「せやな。私のオススメは、そのまま南伊豆まで行って、石廊崎いろうざきを回って国道136号から、県道17号を走って沼津まで行くことやな」


 今度は翠だった。

 なんだかんだで、関東在住が長い彼女もまた、何度も伊豆には行っているらしかった。


「面白そうですね! お二人ともありがとうございます」


 礼のメッセージを送った後、彼女はバイクにまたがる。


 目指すは伊豆半島一周、そして差し当たっての目的地は、伊豆半島最南端の地、石廊崎だった。


 まだ時刻は午前10時を少し回ったところ。


 彼女は勇んで走り出す。


 だが。


 初めてまともに伊豆半島を一人で走ることになった夢葉は、伊豆半島の広さを過小評価していた。


「遠い! 全然着かないよ~」


 伊豆高原から石廊崎まででも、国道135号と呼ばれる、この道は土日はよく渋滞する上、ほとんど一車線なので、なかなか進まず、思った以上に時間がかかり、ようやく石廊崎に着いた時には、もう昼になっていた。


 伊豆半島最南端、石廊崎。


 伊豆半島で最も南、南伊豆町に所属するこの辺りは、伊豆半島でも最も温暖な地で、「無霜むそう地帯」、つまり真冬でも霜が降りないと言われている。

 同じく無霜地帯と呼ばれるのは、日本では房総半島、紀伊半島、四国南端部、九州南部、南西諸島くらいしかない。

 それくらい温暖な地なので、冬でもキャンプができるし、雪も滅多に降らない。


 やっと、暖かい地に着いたことで、安心する夢葉だったが、石廊崎の駐車場から実際に、石廊崎灯台を目指してみると、これがまた遠い。


 駐車場から20分近くも歩いて、ようやく一番先端にある、白い灯台、そして真冬の太平洋を眺める絶壁まで来た彼女は、感動のあまり、写真を撮って、またSNSに上げて、怜と翠にも写真を送っていた。


「石廊崎なう」


 と言うメッセージと共に。


(ライダーは、端っこが好きって言うけど、何となくわかるなあ)


 真冬の灯台、真冬の寒そうな海。それらを眺めながら、ここまでバイクで来たことに満足感と、達成感を感じる夢葉は、すでに一人前のライダーだった。



 しばらく石廊崎で休んだ後、今度は国道136号を西伊豆方面に向かって北上。


 ここからは山道が続くが、くねくねと曲がりくねった、カーブが好きな翠がいかにも好きそうな、ワインディングロードが続く。

 しかも道の途中から、不意に視界が開けて、海が見えたり、さらに天気が良く、空気が澄んでいる冬は、海の向こうに富士山が見える。


(走りやすいし、いい道だな)


 そう思いながらも、夢葉は、遅い車に道を譲ってもらい、左手でお礼の合図を送ったり、とすっかり無意識にバイク乗りの行動ができるようになってきていた。


 松崎町、西伊豆町と、山と海に挟まれた狭い土地に、へばり着くように集落が建つ、小さな街を走り抜ける。


 ところどころ、海岸の岸壁では、釣り糸を垂れる釣り人たちの姿が見えたり、のどかな光景が広がる。


 そして、翠が言っていた、県道17号にたどり着く。


 本来なら、そのまま国道136号を走り、伊豆市に抜けた方が近道だが、あえて翠が教えてくれた県道17号を走ってみると。


 ずっと曲がりくねった道が続く、確かに翠好みのワインディングロードだった。ただ、国道ですらないので、道幅が狭い。


 バイクならまだしも、車ならすれ違うのも困難と思われる、狭い山肌を切り開いたような道が延々と続く。


 一体、いつまで続くのか、と気が遠くなるような思いをした頃、ようやく開けた場所、そして低地に降りてくる。


 沼津市三津みと。内浦湾に面する風光明媚な土地で、近くには水族館、海水浴場、ホテルなどが建ち並んでいる。


 そこのコンビニの前にバイクを停めると、すぐ近くが砂浜の海だった。


 真冬の海水浴場。もちろん、泳いでいる人などいない。

 だが、夢葉の目の前に広がる、どこか寂しげに見えるくらい、穏やかな冬の海は、想像以上に美しかった。


 空気が澄んでいる上に、この辺りも冬でも温暖な場所だ。

 またもコンビニで買った缶コーヒーに口をつけ、彼女は海水浴場の端に座り込み、海を眺めながら、しばらくボーっとしていた。


(こんな時間、普段過ごせないから、いいな)


 何だか癒されるような気分を味わった彼女。

 普段の忙しい学生生活の中では、こんな贅沢な時間は使えない。


 時刻はもう夕方の4時を指していて、短い冬の夕陽が海の彼方に沈もうとしている。


 そんなキレイな夕陽が水平線に落ちる姿を、しばらく眺めていた夢葉だったが。


 ふと思い出したように、立ち上がった。


(ヤバい。早く帰らないと、また寒くなる!)


 そう、彼女が危惧していたのは、冬の日没後の走行だった。

 ただでさえ、太陽光が弱い冬。


 日が落ちると、一気に寒気は増してくる。


 夢葉は、コンビニ駐車場に停めてあったバイクにまたがるが、行き先はさすがに箱根ではなかった。


 帰り道は、標高が高い箱根を避けて、高速道路を使い、御殿場ごてんば経由で帰る算段だった。


 やがて、伊豆縦貫自動車道から東名高速道路に乗り、一目散に帰る彼女。

 走りながらこう思っていた。


(伊豆って広いなあ。一日で一周じゃ、ほとんど周りきれないよ)


 そう、伊豆半島の大きさに改めて感じ入っていた。

 何よりも、伊豆半島を一日で走り、一周しようとすると、ほとんど走るだけで終わってしまう。


 どこかに立ち寄って、のんびりする時間などなくなってしまうのだ。


 帰り道も、東名高速道路の鮎沢あゆざわパーキングエリア付近が一番寒く感じていた夢葉だったが、神奈川県も都会に入り、周りにビルや建物が増えてくると、次第に暖かくなり、都内に入ると一気に気温が上がる気がした。


 それくらい、コンクリートに覆われた町は、自然よりも気温が上がるものである。地球温暖化の主たる原因が、このコンクリートにあり、東京などは特にビルやコンクリートが多いから、そのせいで、気温の上昇が止まらないのだ。


 無事に帰宅した頃には、思った以上に夜、遅い時間になっていたが、夢葉は無事に帰宅できたこと、楽しかったことなどを、怜や翠にメッセージで報告していた。


 そして、同時に。


(やっぱ私は冬は苦手だなあ)


 冷えきった自分の手足を、自室のコタツで懸命に暖めながら、しみじみと思うのだった。

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