携帯②
「へぇ、後藤さんにご飯誘われたんだ」
自作の肉じゃがをつつきながら、沙優が目をぱちくりとさせた。
仕事が終わった後、電車に揺られながら後藤さんに確認のメールを送ると。
『さっきはごめんね。明日、仕事終わりに夕飯でも一緒に食べませんか』
と、返って来たのだ。
「良かったじゃん?」
「良くねぇよ……何だこれ、何メシだよ」
「普通に、ご飯いこ? って誘いじゃないの」
「違う違う! 絶対なんかあるに決まってる」
俺が言うと、沙優は「えー」と半笑いで受け流してきた。
子供には分からないかもしれないが、社会人の『夕飯』や『飲み』には様々な意味合いが込められているのだ。
たとえば、昇進内定をサラッと告げられたり、もしくはその逆とか。
入社したばかりの時は、上司に飲み屋で「あれはまずかったねぇ」とやんわりたしなめられたりしたこともあった。
上司に飯を誘われるというのは、相当気の置けない仲になった上司でない限りは、どうあっても緊張してしまうものだ。
「まあまあ、肉じゃが食べなよ。冷めちゃうし」
「おう……いただきます」
沙優に言われるままに、まだ湯気の上がっているできたての肉じゃがに箸をつけた。ほくほくの小麦色に染まったジャガイモを箸でひとつつまみ、口に入れる。
「あ、美味い」
「ほんと? やった」
沙優は満足げに頷いて、自分も一つジャガイモを口に放り込んだ。
「んー、おいひー」
「お前結構料理上手いよな」
俺が言うと、沙優はふにゃりと照れたように笑った。
「もっと褒めてもいいよ」
「よっ、日本一」
「適当なやつだ!」
沙優はけらけらと笑って、肉と一緒に白米を口に入れた。
それにしても沙優の料理は本当に美味い。家にいたときも、料理をしていたのだろうということが窺える。
……料理は、親から教えてもらったのだろうか。そこまで考えて、俺は頭を横にぶんぶんと振った。考えても仕方ないことを考えるのはやめよう。
「どしたの」
「いや、なんでも」
沙優が首を傾げるが、俺は何事もなかったように白米を口に詰め込む。
彼女も大して気にせずに、ぱくぱくと食事を進めていった。
「それで? 行くの」
「ん?」
「後藤さんと、ごはん」
沙優は箸を止めて俺をじっと見た。
俺は首を縦に振る。
「そりゃ、断れねぇよこんなの」
「なんで? 好きだから?」
「上司だからだ」
俺の言葉に、沙優は納得できないというように口をへの字に曲げた。
「ほんとは好きだからでしょ」
「違うっつの」
「じゃあ好きじゃないわけ」
「それは……それとこれは別だよ」
ごまかすと、沙優は鼻をスンと鳴らした。
「なんだかんだ言ってまだ好きなんだねぇ」
「……そう簡単に吹っ切れるもんじゃねえだろ。5年間も恋してたんだぞ、俺は」
少し胸が苦しくなりながらそう言うと、沙優は「しまった」という表情をして、俺から目を逸らした。
「ごめん」
「いや、気にすんな。惨めなオッサンだと思っといていい」
「んーん」
沙優は首を横に振った。
「吉田さん、かっこいいよ。後藤さんに彼氏がいなかったらきっとOKされてたと思う」
「はは、慰めてくれちゃって、まあ」
「ほんとだってば」
沙優がフォローしてくれればくれるほど、どんどん惨めになってきた。
乾いた笑いが出る。
「まあ、とにかく明日は行くよ。上司の、ましてや後藤さんの誘いとあっちゃぁ俺には断れん」
「分かった。じゃあ夕飯はいらないよね」
沙優が頷いて、俺に訊ねた。
そうか、昨日は三島との飲みで夕飯を作らせ損させてしまったのだ。夕飯がいるかいらないか、という確認も兼ねて明日後藤さんの誘いを受けるのかどうかを訊いていたんだな。
納得して、俺は頷く。
「ああ、いらない」
「分かった」
そこまで話して、俺はふと思い立った。
「そういや、お前携帯って持ってないのか?」
「あ、携帯ね……」
沙優は苦笑して、首を横に振った。
「持ってない」
さすがに、驚いた。
小学生でもスマートフォンを持っている時代である。まさか華のJKが持ち歩いていないとは思いもよらなかった。
「実家に置いて来たのか?」
俺が訊くと、またもや沙優は首を横に振った。
「千葉あたりにいたときに、友達……っていうか、北海道にいたときのクラスメイトからあんまりにもしつこく電話がかかってくるもんだから」
沙優はごまかすようにへへ、と笑いを漏らす。
「海にぶち込んじゃった」
「おい、海にゴミを捨てんな」
なんて奴だ。行動も思い切りすぎているし、海に捨てたというのは感心しない。
「それ以降ずっと携帯持たずにいたのか?」
「うん」
「まじか……」
「案外、困らないもんだよ」
まあ、確かに。昔の人間関係を清算してしまうのであれば、彼女にとってはもう必要のないものなのかもしれないが。
「なんで?」
なぜそんなことを訊くのか、と沙優が首をかしげた。
「いや、だって突発的に帰れないことが決まったときとかに、お前に連絡つかなかったらまた無駄にメシ作らせちゃうかもしれないだろ」
「あ、そっか……」
沙優はハッとしたように頷いて、そしてすぐに、少し照れたように視線をうろうろとさせた。
「なんだよ」
「いや、その」
沙優はもごもごと、小さな声で言った。
「なんか、会話が新婚さんみたいだなって」
「はぁ……?」
「じょ、冗談だから! そんな怖い顔しないでよ」
俺が思い切りしかめ面をすると、沙優は慌てたように手を身体の前でぶんぶんと振った。
「まあでも、もし作っちゃっても朝とかに食べてくれればいいしさ」
「いや、でも携帯あった方が何かと便利なんじゃないのか」
俺の言葉に、沙優は首を激しく横に振った。
「いらない、いらない! ほんとにいらない!」
「遠慮するなって」
「いや、いらないっていうのもあるし、そもそも私一人じゃ多分契約できないよ」
言われてみれば、そうだった。
高校生は親と一緒でなければ携帯の契約はできない、というような決まりがあったような気がする。もっとも、俺は高校生の時に携帯など持っていなかったのでそのあたりは詳しくないが。
「まあでも、何かしら連絡手段は欲しいよなぁ」
俺は呟いたが、沙優は頑なに、首を縦に振らない。
「大丈夫、大丈夫!」
また遠慮癖が出ているな。
沙優を横目に見て、苦笑する。
困るのは沙優だけでなく、俺もなのだ。
家に女子高生を置いているという状況で、外から一切連絡がつかないというのは正直不安だった。何かあったときに連絡できる手段は欲しいところだ。
携帯電話か。
どうにかして、手に入れられないものだろうか。
ぼんやりと考えながら、その日は眠りについた。
【試読用】ひげを剃る。そして女子高生を拾う。【書籍版】 しめさば/角川スニーカー文庫 @sneaker
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