第32話

 勢いよく立ち上がり、がばりと振り返る。


「久しいね、鬼原涼真くん」

「日暮、夕子……!」

「何だいその目は。まるで親の仇を見るようじゃないか」


 いかにも不本意だ、という口調でその人物――夕子は肩を竦めた。差している傘が僅かに揺れる。


「せっかくなので、彼女にも来てもらったんです。四年振りに我々が集まるんですから、あの事件の関係者として、彼女を招くべきかと思いまして」


 すらすらと須山は説明するが、俺はそれどころではなかった。あの日を境に、急に姿を消した夕子が、どうしてここにいる?


「夕子、今まで何をやってたんだ? メールも手紙も寄越さないで、一体……?」

「いや、すまなかったね」


 そう言うと、夕子は傘を左手に持ち替えた。眼鏡の向こうの瞳に緊張感を漲らせ、踵を合わせてザッと敬礼する。


「日暮夕子巡査部長、昨日付で警視庁公安部、情報通信特務課に配属となりました」

「警視庁……情報?」


 俺はゆっくりと、その言葉を咀嚼した。確かに、夕子が警視庁に配属されることは、俺も想定していた。だがそれは、この四年間の空白の謎に対する答えではない。

 夕子はさっさと敬礼を解き、再び砕けた調子で語り出した。


「MITに留学していたんだ。政府機関のパイプを活かした、特別枠でね」

「それって、裏口入学ってことか?」

「おいおい、そんなこと言わないでおくれよ、人聞きの悪い。ボクの実力が認められなければ、政府だって警視庁だって、ボクを推薦なんかしないさ」

「つまり、お前は滅茶苦茶優秀だって、国に認められた、ってことなのか?」

「まあ、そこまで持ち上げられても困るんだけれど」


 夕子は人差し指を伸ばし、こめかみのあたりを掻いた。


「小林正人・元巡査部長が、私の所在を突き止めて、連絡をくれたんだ。流石、海保の情報担当官だね。面目躍如といったところか」

「小林さんが、お前を誘った? でも、どうして?」


 少しばかり伸ばした髪をいじりながら、夕子は告げた。


「君を助けに来たんだ、涼真くん。ボクたちが失ってきたものについて」

「失って、きたもの……?」


 再び頷いてから、夕子は列挙し始めた。

 あの日、現場にいた人間たち(魔女を含む)が失ったもの。


 夏奈は妹を。

 冬美は命を。

 俺は夏奈を。


「そしてボクが失ったのは、君だよ、涼真くん」

「は、はあっ?」


 俺は素っ頓狂な声を上げた。


「ボクは君に恋をしていた。生意気な言い方をすれば、愛していたと言ってもいいかもしれない」

「ちょっ、お前、突然何を言いだすんだ⁉ お前が俺を……好いてくれていた、と?」

「繰り返さないでくれ。恥ずかしい」

「でもお前、俺に言ってくれなかったじゃないか! そんなこと、一言も」

「直接告げる勇気があれば――。何度もそう思ったさ。だが、生憎そんな単純な人間にはなれなくてね。でも、しっかり伝えたはずだよ? 君に『朴念仁』というレッテルを貼ってやった」

「それって、ただの悪口だろう……」


 俺は呆れて肩を落とした。


「いずれにせよ、君の心はこの海の向こうだ。雨宮夏奈という魔女は、人権保護の名目で、この大海原へと消えてしまった」


 俺は俯き、肩を震わせながら黙り込んだ。


「ボクはね、涼真くん。君が失ったものの穴埋めに来たわけじゃない。君が恋い焦がれていた少女を失った、という事実を乗り越える手伝いに来たのさ」

「……どういう意味だ?」

「君は一人じゃない」


 その言葉に、俺はゆっくりと顔を上げた。


「ボクだって、君を失ったんだ。気持ちは分かるよ。勘違いしないでもらいたいんだが、ボクは安易な傷の舐め合いをしに来たわけじゃないし、増してや自分が雨宮夏奈の代わりになれるとも思っていない。だが、ここにいる小林さんも須山さんも、君の幸せを願っている。もちろん、ボクもね」

「何が言いたいんだ?」

「合理性も経済性も計画性もなく、純粋に君を想う人間が、少なくとも三人はいるということだよ。そして君には、どうかこの三人を泣かせるような真似だけはしてほしくない」


 俺は射止められたかのように、夕子の目を真っ直ぐに見た。

 すると、夕子はぱさり、と傘を落とし、そっと俺の背に腕を回した。


「君は仲間だった。戦友だった。そしてボクが恋い焦がれた相手だった。無論、過去形だけれど」

「……」


 その時になって、俺はようやく雨が止んでいることに気づいた。


「あーーーっ! 虹だあーーーっ!」


 無邪気な声が響く。春子のものだ。夕子は俺から手を離し、『見たまえ』と一言。

 それはそれは、立派な虹だった。

 この虹は、夏奈もどこかで見ているのだろうか? いや、見えはしないだろう。

 だがもしかしたら、何かを察した夏奈が、魔法で虹を見せてくれているのかもしれない。


 俺たちはいつまでも、その虹を見つめ続けた。その向こうに、夏奈がいてくれるものと信じて。


 THE END

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

霧雨に霞むアメジスト 岩井喬 @i1g37310

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ