第20話

 その時になって、ようやく俺は記憶の巻き戻しに成功した。俺が、夏奈を撃ったのだ。


「夏奈……夏奈ッ!」


 ぐったりと脱力し切った四肢。だらりと前方へ垂れた頭部。後頭部から侵入し、見事に眉間を貫通した弾丸。血液と脳漿は派手に飛散し、壁や床が紫色になっている。

 俺は慌ててひざまずき、夏奈の首筋に手を当てる。脈は、ない。


 俺の意識は再び闇に落ちかけた。もう何も考えられない。ただ一つ確かなのは、俺が夏奈を射殺したということだ。


「ああ……」


 薄暗い天井を仰ぎ、そのままばったりと倒れ込む。異変が起きたのは、まさにその直前だった。

 視界の端で、黒い『何か』が蠢いた。それは、紫色を帯びた黒煙だった。損傷した夏奈の頭部、それに飛び散った血液、脳漿、頭蓋骨の一部を取り巻くように、ぐるぐると渦を巻いている。

 あまりにおどろおどろしい光景に、俺は飛び退いた。耳に入ってきたのは、コオオオオッ、という暗い風切り音。

 ぐるんぐるんと夏奈の頭部が揺れ始め、やがて黒煙は何の前触れもなく、すっ、と消え去った。そこに残されたのは、


「あいてててて……」


 眉間に手を当て、軽くかぶりを振る夏奈の姿だった。


「か、夏奈?」


 俺は自分が掠れた声で、しかしどこかひょうきんにさえ聞こえる調子で、彼女の名を呼ぶのを聞いた。

 しかし、『大丈夫か』『平気なのか』などという言葉は出てこない。何が起こっているのか分からない。そんな戸惑いの方が、俺の胸中を広く占めていた。


 俺が口をぱくぱくさせながら夏奈の顔を見上げていると、


「あれ? ああ、涼真」


 と、夏奈は目を見開いて言った。


「そうかあ、私、涼真に撃たれたんだね。大丈夫、私、死なないから」

「……は?」


 ようやく、しかし間抜けな声を口にする。


「だから、私は死なないんだって。一種の奇跡、言い換えれば呪いかな」


 この期に及んで、ようやく俺の頭は状況分析を開始した。


「し、死なないって、だってお前、頭を撃ち抜かれたんだぞ?」

「じゃあ見てごらんよ。傷なんて残ってる?」

「そ、そうだ! 早く止血を――」


 そう言って騒ぎ出す俺の両頬を、夏奈はがっちりと掴んだ。


「ほら、私の頭! よく見て!」

「へ? って、あれ⁉」


 傷が塞がっていた。元から傷などなかったかのようだ。


「で、でもあれだけ脳漿が――」


 そう言って振り返る。しかし、壁や床に、紫色の染みは全く存在しなかった。

 夏奈の傷ばかりでなく、『負傷した』という事実自体がなくなってしまったかのようだ。


 思い出されたのは、校庭で冬美と交戦した時のこと。あの時、夏奈は銃撃を受け、障壁を展開していなかったにも関わらず、通常と変わらぬ凄まじい運動性能を発揮してみせた。


「ね? 私は死なないの」

「あ、ああ……」


 相手は魔女だ。そのくらいのことは、あっても不思議ではない。

 いや、待てよ。不思議といえば、さっき俺の頭の中に響いた声は何だったんだ? 『夏奈を殺せ』という、あの不吉な声だ。


 正直に打ち明けると、今度は夏奈の方が申し訳なさそうに肩を竦めた。


「ごめんね、たぶん、冬美が過去を見せる時に使った記憶操作魔法の後遺症だと思う」

「後遺症?」

「ああ、そんなに長期間残るものじゃないから、心配しないで」


 夏奈によれば、その『後遺症』とは、自分の深層心理が実際の思考を乗っ取り、行動してしまうことを言うらしい。


「どうにか防げないのか?」

「うーん、時間が経つのを待ってもらうしか――ッ! ちょっと待って!」


 俺は半ば突き飛ばされるようにして、夏奈から距離を取った。


「夏奈! 一体どうしたんだ?」

「冬美がまた何か、事件を起こそうとしてる! 涼真、私の手を」


 そうか。冬美がこの近くで事件を起こそうとしてるから察知できたんだな。そして俺も連れて行ってくれる、と。


「テレポートで外に出るよ。そうしたら涼真は、できるだけ早くそこから離れて!」

「な、何だって?」


 俺に援護させてくれるんじゃないのか? いや、確かに足手まといか。今までの戦闘を思い出す。俺にできることは何もない。だったら、夏奈の指示に従うのが最良の選択肢だろう。


 俺は差し出された夏奈の手を握った。すると、周囲の光景がぐにゃり、と歪み出した。地に足がつかないような、不快な感覚に取り込まれる。


「うっ!」

「大丈夫、コントロールしてるから」


 その言葉が終わらないうちに、不快感は消え去った。

 代わりに現れたのは、アスファルトを踏みしめる感覚と、どこかの路地裏の光景だった。

 ここがテレポートの移動先なのだろう。何となくではあるが、学校の近所であることは察せられる。


 俺が周囲に気を配っていると、一瞬視界が真っ白になった。振り返ると、夏奈は純白のワンピースの上からプロテクターを纏った、剣士の格好をしていた。相変わらず剣は装備していないが。


「結界魔法と障壁で、できるだけ民間人は巻き込まないようにするから。そうでもないと、私たちの目指す『完璧な世界』に辿り着けないしね」

「な、なあ、その『完璧』って……」

「じゃあね、涼真! 急いでここから離脱して!」


 有無を言わせぬ声音に、俺は駆け出す夏奈の背中に一瞥をくれてから、逆方向に向かって駆け出した。


         ※


「むう……」

「全く何をやっているのかね、君は。ボクの部屋に、そんな格好で押し入るなんて」

「押し入るとは人聞きが悪いな! 俄雨に遭ったんだ、仕方ねえだろう?」


 夕子から放られたタオルでガシガシと頭を拭きながら、俺は反論した。いや、ただの言い訳かもしれない。


 夏奈と別れ、冬美との戦闘が行われるらしい現場から駆け出した俺は、自分が高校に向かって駆けていることに気づいた。自転車は岬に置いてきたままだし、このまま特殊事案対策本部まで帰るには時間がかかりすぎる。


 もし雨宮姉妹の間で戦闘が行われるなら、真っ先にその情報は夕子の下に入るはず。そう予測して、俺は放課後の学校に入り込んだのだ。


 しかし、時既に遅しであった。二人の戦闘は、とっくに終わっていたのだ。

 繁華街の外れの廃ビルが二棟倒壊する、という形で。


「死傷者は零、だが倒壊現場には不審な点も多い。さしずめ、雨宮夏奈が一般人を巻き込まないよう、無茶をしたのではないかね?」

「そんな、無茶って……」


 呆然と呟く俺の腰元で、何かが振動した。俺のスマホだ。登録されていない番号が表示されている。

 しかし、このタイミングで俺に連絡を試みてくる相手とすれば――。

 俺はスピーカーをONにし、夕子にも聞こえるように設定してから、通話ボタンをタッチした。


《もしもし、涼真?》

「ああ、俺だ。夏奈、無事か?」

《うん、冬美の無茶は、今回は未然に防げたみたい》

「冬美の無茶、って……?」


 何やら冬美は、麻薬密売組織の支局を吹っ飛ばそうとしていたらしい。


「それを、お前が防いだのか?」

《そう、ちょっと撃たれたけど、障壁で防いだからだいじょ――》

「馬鹿野郎!」


 俺の声に、視界の隅で、ぴくりと夕子の肩が震える。


「俺がどれだけ心配したと思ってんだ!」


 しかし、電話の向こうにいる夏奈は随分と落ち着いたものだった。


《だから、涼真も見たでしょう? 魔女は死なないっていうところ》

「そ、そりゃあ、そうだけど……」

《だから大丈夫なの。私はあなたのご両親を殺めてしまったけれど、いえ、だからこそ、これ以上死傷者を出さずに、『完璧な世界』を実現してみせる。誰もが平和で平等な生活を送ることのできる、幸せな世界を》

「その理想は、いつかお前自身を絶望に陥れるんじゃないか? 現に冬美とは対立してるだろ?」

《いつかは冬美も分かってくれるよ!》

「いつかじゃ遅いんだ、いつかじゃ!」


 俺は今回戦場となった繁華街の外れ、雑居ビル二棟の崩壊について問いただした。


《あれは冬美の斬撃を回避するのに、わざと倒壊させたの。もちろん、建物の内外に人がいないのは確認済み》

「そういう問題じゃねえ! 俺はお前の身を心配してるんだ!」


『心配』を繰り返す俺。だが、夏奈はずっと淡々とした口調で語り続けた。


《私は大丈夫だから。それより、冬美は魔女だけど、私とは違うよ?》

「何? どういう意味だ?」

《死んじゃったら、そのまま死んじゃうってこと。涼真が見たように、傷の回復は望めない。もし絶命してしまったら、ってことだけど》

「そ、それは……」


 俺には最早、何を言っていいのか分からない。


《取り敢えず、私も冬美も無事だから。今のところはね。それじゃ!》


 通話はあっさりと切れた。あとに残されたのは、だらりと腕をぶら下げた俺と、そんな俺を心配げに見つめる夕子だった。

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