第38話 密会

 朝の七時、大統領の監禁部屋を表敬訪問した。相変わらず淹れたての高級コーヒーを持って、しかも入手したばかりのダークブルーをポケットに忍ばせての訪問だ。

 大統領は、いつも六時には起床している。

 監禁前の生活的習慣を頑なに守っているのか、あるいは身体に染み付いたものは、垢でも習慣でも簡単に落とせるものではないということなのか。

 何れにしても彼には、筋の通った何かを感じる事がある。私はそんな彼を、人として嫌いではなかった。

 部屋に入って朝の挨拶を交わし、いつものコーヒーをテーブルの上に置くと、大統領はごく自然にそれを手に取り口を付ける。

 彼の態度は最初から現在まで、一貫して拉致被害者らしくない、そういうものだった。

 食事や飲み物に薬や毒が混入されている事を疑う素振りはないし、食べ物の内容や質にケチをつける事もなく、待遇改善の我儘を言うこともなかった。俺を誰だと思っているんだと怒鳴り散らす事もなければ、卑屈な自分の人生物語で同情を誘う事もしない。

 全てをあるがままに受け入れる様子は、彼の信じる宗教によるものなのか分からないが、彼の中に内在する哲学の一端が見えるようでもある。

 一切の我を出さず全てを黙々と受け入れる事は、一見無いっけんむに見えて、実は強固な哲学の実践なのかもしれない。そこには高名な宗教者の身体から滲み出る、徳のような何かが潜んでいるようでもあった。

「いつでもこのコーヒーは美味いな。変わらないという事は、場合によっては良いものだ」

 手に持つコーヒーカップの中に視線を落としながら、大統領が穏やかに言った。

「俺の知り合いが淹れたコーヒーは、これより遥かに美味かった。同じ豆を使っているはずなのに」

 そう言いながら、レイチェルの淹れたコーヒーを、無性に懐かしく思う。

「それは、淹れ方の違いなのか?」

 私はカウンターの中で作業をする、レイチェルの姿を思い浮かべた。

「多分な。豆の挽き具合、渋皮の除去、お湯の温度、蒸らし時間、お湯の注ぎ方やドリップに掛ける時間。味や香りが全てに左右される。これだけのパラメーターを持ちながら、その人の淹れたコーヒーはいつでも同じように美味かった」

 大統領は、それほど正確にコーヒーを淹れる事のできる人間に、少し興味を惹かれたようだ。彼は「ほう」と感心して尋ねた。

「その知り合いは、日本人なのか?」

「いや、フィリピン人だ」

 彼は益々興味を持ったようだ。

「フィリピン人で、そんな緻密な作業をこなす人がいるんだな。てっきりそれは、日本人だと思ったよ。できれば公邸のコーヒーマスターとして招きたいものだ。それは誰なんだ?」

「俺の恩人だよ。俺はその人のために、ダークブルーを手に入れた。彼女はもう、フィリピンにはいない」 

「何か深い関わりがありそうだな。ところで手に入れた、というのは、もう全てが終わったという意味か?」

 私はポケットの中から宝石袋を取り出し、大統領に手渡した。

 彼は受け取り、袋の口を開いて中を覗き込む。

「これがダークブルーなのか? こんなに小さな物なんだ」

 私は彼の物言いが意外だった。

「まるで初めて見たような言い方だな」

 大統領が頷く。

「見るのは初めてだ。こうして見ると、ただの硝子細工だな」

「本当だ。そんな硝子玉のお陰で、みんながえらい目に遭った。あんたも含めてだが」

 大統領は、「全くだ」と言って笑う。

「なあ、あんた、さっき言ったよな。変わらないというのは、場合によったら良いものだと」

「ああ、確かに言った。世の中は、変わって欲しくないもので溢れている」

 そう言いながら、彼は宝石袋を私に差し出す。受け取った私は、それを無造作にポケットへ突っ込んだ。

「例えば、どんな?」

 彼は自分の顎に手を添え、少しの間宙を見つめた。

「そうだな、家族愛、人情、美しい地球、平和、秩序、明るいフィリピン人。沢山あるじゃないか」

 少し得意気に語る大統領に、子供のような無邪気さが見える。

 私は、自分の気になっていた事を話した。

「この一ヶ月、俺は久しぶりにフィリピンを見て、この国は随分変わったと思った。豊かさの片鱗が見えるようで、実はもっと貧しくなったんじゃないかと思えてしまう。俺の見立ては間違っているか?」

 大統領は、私が突然差し向けた話題に臆する事なく答えた。

「私も気付いている。この国を豊かにするには、起爆剤が必要だと思っていた。それが投資だと信じていたんだ。しかし今のところ、あんたの見立ては正しい。物価ばかりが上がり、国民の所得は増えない。大方の国民生活は、海外の出稼ぎ者だのみだ」

 どうやら彼には、庶民の生活がある程度見えているようだ。

 私は続けた。

「路上生活に子供の未就学。家があってもあばら家ばかり。国の未来が見えてこない。前はそれでもよかった。みんな笑って幸せそうだったからな。しかし社会が変わった。これでもフィリピン人は、まだ笑って暮らせるのか?」

 大統領は、「あんたの指摘は分かる」と前置きした上で続ける。

「しかしな、あんたは気付いていないかもしれないが、ようやく所得の上がる兆しが見え始めている。俺の目の黒いうちは日の目を見ないだろうが、二十年か三十年後には良くなっていると信じるしかない」

 そう言う彼の顔には、僅かにかげりのようなものが見えていた。自分の力でどうにかしたいが、どうにもならないこともあるというもどかしさが、彼の中にあるのかもしれない。

「政治っていうのは、長い目で見るもんなんだな。俺はいつでも短期決戦ばかりで、そういった事は分からない」

「やらなければならない事は腐るほどある。一気にやるにも金がない。それでも慌てれば、行政現場も国民も混乱する。だからじっくりやるしかないんだ。しかし、短期決戦も大変だろう。あんたはこうして、ダークブルーを手に入れた」

 ここで大統領が、何かを言いたそうにして、次の言葉を飲む。

「言いたい事があるなら、何でも言ってくれ」

 彼は頷いて、再び話し始めた。

「聞いていい事かどうか分からないが、あんたはそのダークブルーをどうするつもりなんだ?」

 彼の顔から穏やかな笑みが失せ、真剣な目が私を射抜いた。

 私が答えに言い淀んでいると、彼が言った。

「実はな、ダークブルーはフィリピンの希望の星だったんだ。それで各国との取り引きを、有利に進める事ができる。例えば日本に協力して、防衛費を稼ぐ事もできる。中国に一泡吹かせる事も可能だ。様々なシナリオを描く事ができたはずだ。それで国民を幸せにできたらと思っていたんだがな。だから少なくとも、我々を下に見て、あわよくば搾取しようとする先進国には渡したくない代物だ」

 私には、彼の言いたい事がよく理解できた。ダークブルーには、一国の立場を大きく変えるほどのインパクトがある。

 しかし私は、言わなければならなかった。

「俺は一切の交渉を受け付けない。いくら大金を積まれようが、友人を裏切る事はできないんでね。ただ、あんたの気持ちはよく理解した」

 大統領は笑い出した。

「そうくると思った。そうした筋を通す人間は、嫌いじゃない」

 彼は身に纏った緊張感を解き、再びコーヒーカップを口に運ぶ。

 私は、昨夜から考えていた事を、大統領へ切り出す事にした。

「嫌いじゃなかったら、俺の願いを一つ聞いてくれないか」

 彼は怪訝な顔を作り、「自分にできる事ならな。ただし、フィリピンからの逃亡を助けろというのは無理だぞ」と言った。

「逃亡は自分たちでどうにかする。頼みというのは、フィリピン大学のジョン・ポール教授を紹介して欲しいという事だ。ダークブルーを研究していた教授だ」

 彼は眉間に皺を寄せ、なぜだと言いながら肩をすくめた。

「そんな事、あんたなら彼をさらって、いくらでも会えると思うが」

「いや、それじゃ駄目だ。腹を割って、じっくり話したい事がある。それには彼に、俺を信用してもらわなければならない」

「つまり私を誘拐したあんたを信用しろと、彼に言わなければならないということか? あんたも、変わったお願いをするな」

「虫のいい依頼なのは分かっている。あんたが嫌だったら、無理強いはしない」

 彼は床を見下ろしながら、暫し思案した。もし断られるようなら、リスクを冒して大学の研究所を訪ねてみようと、私は考えていたのだ。

 しかし、顔を上げた大統領が言った。

「嫌ではない。電話を借りられるなら、話してみよう。ただし条件がある。教授との話しに、私を同席させて欲しい。それで彼も、私の話しを信用するだろう」

 私はその条件を了承し、大統領に教授との会談をセットしてもらう事になった。


 翌朝、私と大統領は、バクラランに確保していた隠れ家へ車で移動した。ポールには付き添い兼運転手として付き合ってもらう。

 ポールは勿論、大統領を連れて外を出歩く事や、ダークブルーを奪った相手と会う事に反対した。折角ここまで上手くいったものを、なぜ敢えて危険を冒すのかという事だ。

 私はその理由を、敢えてポールに話さなかった。かくいう自分も、教授と会う事に意味があるのか、自信を持てずにいたのだ。

 ダークブルー奪還が終了し、バクラランの棲家にはもう誰もいない。よって、そこを教授との協議場所として考えた。

 大統領が教授に電話を入れた際、彼はひどく驚いていた。更に大統領が会って欲しいとお願いした時、彼は興奮気味の声で、勿論会うと返事をした。しかし大統領が、この件は誰にも知らせず、一人で内密に来て欲しいと念を押すと、明らかに教授のテンションが変わったのだ。ほんの少し言葉が途切れ、一体なぜ秘密なのかといぶかった。大統領が、何も心配しなくていい、信用して一人で来て欲しいと再度お願いをして、教授は渋々分かりましたと返事をした。

 よって教授が、大統領の言葉に従うかは分からなかった。何せ、相手は拉致されて行方知れずの、時の人である。しかも国の大統領だ。その彼が、ダークブルーを奪われた翌日に電話を寄越し会いたいなどと言えば、奇異な話し以外の何物でもない。

 私たちは最初、彼をバクラランマーケットに呼び出した。そして携帯で、少し彼を泳がせてみた。大統領の代理と名乗った私の声を、彼は覚えていないようだった。

 私は彼が歩き回る様子を隠れ家の入る古ぼけたビルの屋上から観察し、彼が本当に一人なのかを見定めた。

 その結果、彼の周囲につきまとう怪しげな人間は、全く見当たらなかった。

 私は教授に、いよいよ棲家となるビルディングへと誘導した。教授がビルディングに入っても、後に続く者は誰もいない。

 私は彼に、二階のニ〇一号室の前で待つように指示した。そこで十分待ってもらったが、やはりビルディングに入る者は誰もおらず、周囲で物陰に隠れて様子を伺う人間も認められない。

 私は教授に、本当の部屋番号である一〇三号室を伝え、ノックをして部屋に入るようお願いした。

 今度こそ、彼は大統領に会う。もし彼が隠しマイクを身につけていれば、大統領と会った直後に何かしらの動きがあるはずだ。

 その場合、ポールには窓から脱出してもらい、大統領と教授を部屋に残して二人で逃げるつもりでいる。

 元々大統領は、近いうちに開放する予定なのだ。

 ポールの身につけるマイクから、ドアを開ける物音に続き、教授の音声が入った。

『大統領、ようやく会えましたね。無事で何よりです』

『私はご覧の通り元気でね。わざわざ呼び出して、済まなかった。今日は誰にも言わずに、一人で来てくれたのかな?』

『はい、そのように致しました』

『そうか、良かった。ああ、彼はポールと言ってね、ちょっと世話になっている連中の一人だ。後で彼の仲間がここに来る。もう少し待って欲しい』

『そう言われても、一体何が起きているのか、私にはさっぱり分かりません。それと、もうご存知かもしれませんが、ダークブルーが奪われました。申し訳ありません』

『なに、元々なかった物だ。少し夢を見させてもらったと思い、諦めるさ。それにな、ダークブルーを奪った連中は本物のプロだ。取られても仕方ないだろうな』

 久しぶりの奇妙な再会に、話が弾んでいる。その間ビルディングの外側には何も変化がない。どうやら教授は、本当に一人で来たらしい。


 私が部屋に入ると、教授の視線が私の顔へ釘付けになった。

 研究所襲撃時、ポールはガスマスクを付けて顔を見られていないが、私は素顔を晒している。大統領のお墨付きであったとしても、彼が私の出現に懐疑的になるのは無理もない。

 私が先に、固まる教授へ言葉を掛けた。

「教授、先日は申し訳ありませんでした。ユーゴです」

 ジョン・ポールは、顔を引きつらせて言う。

「大統領、ダークブルーを奪ったのはこの男です。一体、どういうことですか?」

「全て分かっている。昨日の朝、ユーゴに奪われたダークブルーも見せてもらった。初めて見たが、随分小さな硝子玉で驚いたよ。あんな物に血眼になっていた自分が、少し恥ずかしくなるくらい、まるで子供のおもちゃのようだった」

 そう言って大統領は笑ったが、教授はまだ状況が飲み込めていないようだ。自分がどう振る舞えばよいのか分からず、うろたえ気味ですらある。

 私は少し、説明を加える事にした。

「元々ダークブルーは、俺の遠い知り合いの所有物でね、その一個をフィリピン軍が非合法に奪ったんだ。それを奪うだけなら穏便に済んだが、彼らは所有者と俺のクライアントの妹を拉致し、最後は二人を殺そうとした。それを助け出すために、俺たちが動いたってわけだ。しかし俺に協力してくれたフィリピンの友人は、そのままこの国に住み続けるのが危険でね、私のつてである国に亡命させた。私はその国と取り引きをしたんだ。ダークブルーを手に入れる代わりに、彼らの面倒をみろとね。だから俺は、ダークブルーが必要だった」

「だったら、もう目的を果たしたんだ。大統領を開放して、さっさとこの国から出ていけばいい」

「まあそうなんだが、先ずはあなたに、卑劣な脅し文句を使った事を謝らなければならない。あなたやあなたの家族に手を出すつもりは一切なかったし、これからもない。その点は安心して欲しい。卑怯な脅しの件は謝罪する。申し訳なかった」

 虚を突かれたのか、教授は黙り込んで、私をじろじろと見る。

 大統領も助言した。

「この男の言葉は、信じてもいい。私が保証する」

 拉致された大統領からそんな言葉が出た事で、教授は益々混乱したようだ。

「大統領、あなたと彼らは、一体どういう関係で?」

「ただの誘拐犯と拉致被害者の関係だ。それ以上でも以下でもない。ただ、監禁中、毎日美味いコーヒーをご馳走になってな。それには感謝している」

 そう言った大統領は、私に笑みを投げる。

 教授は胸のポケットからハンカチを出し、額の汗を拭った。彼の動揺は、中々収まらないようだ。

「まだよく分かりませんが、大統領の言葉を信じましょう。それで、今日の話しというのは?」

 大統領は、「実は自分も、教えてもらっていない」と言い、私に視線を向ける。

「実はダークブルーの事で、教授に伺いたい事がある」

 ジョン・ポール教授は不機嫌な顔で、ふてくされたように言った。

「ダークブルーは奪われたが、研究の成果まで売り渡すつもりはない」

 研究に命を懸けている人なら、そう思うのも無理はない。研究者にとって、研究成果は命と同じくらい大切なものなのだ。

「その気持ちは理解する。しかし、先ずはこちらの話しを聞いてくれ。俺は友人に平穏な生活を返すため、ダークブルーをある国に渡さなければならない。しかし一方で、これ程怖い兵器のねたを、特定の国に持たせていいものかという疑問を持っている。レーザー兵器は防御不可能なだけに、それを手にした国は圧倒的な力を持つ。世界のパワーバランスが一夜にして変わったら一体何が起きるのか、残念ながら俺には想像できない。大統領は、変わらないというのは、場合によっては良いものだと言った。おそらくこんな兵器は、フィリピンも他の国も持たない方が良いというのが、俺の導いた結論だ」

 大統領と教授は、揃って怪訝な表情を私に向けた。教授が、辛うじて口を開く。

「ダークブルーは、ある国に渡さなければならない。しかし、そんな物は特定の国に持たせてはならない……? あなたは、そう言っているのか?」

「そうだ」

「矛盾がある事に、気付いているのか?」

「勿論気付いている。その矛盾を解決するため、あなたと話しをしたいということだ」

「いや、まだ分からない。どうやって、そんな矛盾を解決するというんだ」

「分からない。ただ、俺はあなたが、鍵を握っていると思っている。心当たりがあると思うが」

 教授は唾を飲み込み、私をじっと見つめる。

 同時に大統領とポールが、そんな教授を見つめていた。

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ダークブルー 秋野大地 @akidai

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