第22話 ケビン奪還
ジェイソンの店は、マボロエリア、ケバホッグ通りから北側へ僅か十メートル入った、閑静な住宅街の中にある。近くにはセブで有名な焼肉屋があり、大通りを西側に十五分も歩けば、アヤラという高級ショッピングモールに至る。
携帯のトラッキング画面上、ジェシカは大通りに出て、アヤラショッピングモールの方へと歩き出した。その反対方面は、グレースとジェシカの実家がある、マンダウエに繋がる。
私とジェイソンは、店の前に停めている車に乗り込み、ジェシカの後を追った。仕掛けた隠しマイクは、彼女の道路を踏みしめる音を拾っている。
私たちは、彼女へ簡単に追いついた。白いTシャツにブルージーンズというありふれた格好だ。小さなポシェットを肩からたすき掛けにぶら下げた、ジェシカの後ろ姿を直ぐに捉える。
間もなく大きな交差点に出た。向こう側に、肩から銃をぶら下げる二人の兵隊が見える。
彼らは、行き交う車の中を目で追いかけていた。そのせいで、道路の隅を歩くジェシカには気付いていないようだ。
緊張の中で見守っていると、彼女は交差点を左折する。右折すれば、ジェイソンの言ったラポラポベースがあり、左折は港方面だ。
彼女は向こうが気付くまで、歩き回るつもりらしい。こちらから声を掛けるのは不自然だ。
ジェシカは堂々としている。こそこそするより、返って目立たないのかもしれない。
私たちは路肩に車を停め、彼女を見失う寸前で追いかけるという事を繰り返した。
路肩に停まる車やジプシー、トライシケルは多いが、路上を歩く人はほとんどいない。人といえば、路肩に座るホームレスや、ショップやレストランに出入りする人を時折見掛ける程度だ。
二十分も歩いてからだった。港方面からやってきたカーキ色のジープが、突然Uターンをしてジェシカの前へ割り込むように停まった。
停車した車の中から、二人の兵隊が素早く降りる。
一人がいきなりジェシカの腕を掴んだ。もう一人が胸のポケットから写真を取り出す。ジェシカの腕を取った男が、詰め寄るように彼女に何かを叫んでいた。
相手の剣幕に、ジェシカが
私は無線機のボリュームを上げた。兵隊は、ジェシカの名前を確認しているようだ。
私に焦りはなかった。奴らが餌に食い付いたくらいに思っていた。
彼らはこのままジェシカを、命令を下している人間の元へ連れて行くはずだ。それがケビンのいる場所とは限らないが、ジェシカの誘導により、ケビンも彼女の前に姿を現す事になるはずだ。
その機会を狙い、二人を奪還する。
どうやって実現するか……、それはその時にならなければ分からない。
ジェシカが車の中へ押し込められた。ジープがディーゼルの煙を吐き出し発進する。
二人の兵隊にしてみれば、これはお手柄だ。
車中での会話はない。兵隊二人は、真面目に任務をこなしているようだ。
ジープが中央線に寄り、Uターンを試みている。私たちはジープをやり過ごし、少し先でUターンの体制を取った。
ジープがUターンを終え、山側へ走っていくのが見えた。私たちも後を追う。その先にはラポラポベースがある。予想した通り、彼らはそこへ行くのだろうか。
ウォーターフロントホテルを過ぎ、更に山側へ走ったところで、ジープが右折した。
もう間違いない。ジープはラポラポベースへ向かっている。私たちも後を追った。
ジープは真っ直ぐ進み、歩哨の立つゲートをくぐった。私たちは、ゲート手前の路地へ右折し、十メートル進んだところで停車する。
携帯に、ジェシカの位置がしっかり表示されていた。どうやら彼女は、ゲートの直ぐ先にある、本部に連れ込まれたようだ。
本部の先に病院がある。病院の地下も想定していたが、それよりはずっと楽な場所に思えた。
ただし、援護射撃を期待できない。辺りにある木々の枝葉が目隠しになっている上、直近の周囲には、背の高いビルが一つもないのだ。よって狙撃は一切できない。
しかしジェイソンは、全く気楽に構えていた。
「腕の見せ所がなくて、残念だな」
そう言った彼の顔は、にやけてさえいる。
「不謹慎な奴だ。突っ込まない奴にへらへらされると、腹が立ってくる」
「なに、戦争するわけじゃない。お前ならどうにかなるよ」
彼女は建物のほぼ真ん中で、止まっていた。おそらく取り調べに使う、窓のない部屋なのだろう。
ふと無線機に、隠しマイクの声が届く。男の声だ。
『随分探したよ。私を覚えているかね?』
『ええ、もちろん覚えているわ』
話の流れから、ジェシカが捕らえられた日に、エリック邸へ出向いて彼女と面会した男のようだ。
『あの屋敷から、一体どうやって逃げたんだ? その後はホテルからも忽然と消えている。誰が助けてくれたのか、教えてくれないか?』
『どっちも壁を伝って逃げたのよ。こう見えても身軽なの』
『ユーゴというフランス人は、一体誰なんだ? そいつが関わっている事は分かっている』
暫し静かになった。ジェシカが質問を無視している。
その場にケビンはいないのだろう。
「俺は、建物の中でケビンを待つ事にする。無線で成り行きを見守ってくれ。俺たちが殺られたら、何もしなくいい。黙ってレイチェルの元へ帰ってやれよ。彼女は心配して待っているはずだ。グレースにも全てを伝えて欲しい。それがお前の役目だ」
ジェイソンは黙って頷いた。二人でこぶしを合わせ、私は車のドアを開けた。
路地には、隙間なく家が並んでいる。少し歩くと、民家の隙間から、ベースの敷地を囲む塀の見える場所があった。周囲に誰もいない事を確認し、私はその家の脇に身を入れる。
こっそりと庭を抜けて、直ぐに軍の敷地を隔てる壁に到達した。
壁は意外に低い。一メートルをやや超える程度だ。お陰で敷地内がよく見えている。随分セキュリティの緩い軍施設だ。
塀の上部に有刺鉄線が張られている。それ以外、レーザーなどのセンサーはなさそうだ。
男の声が、イヤホンから届く。
『ダークブルーを預かっているそうじゃないか。ケビンが教えてくれたよ。あれは君にとって、何の価値もないものだ。どこにあるのか、教えてくれないか』
『ケビンと交換よ。そうじゃなければ、私は死んだって隠し場所を教えないわ。私が死んだら、二度とダークブルーを見つけることができないわよ』
『気の強いお嬢さんだ。それは脅しか?』
『取り引きよ』
『もし私が、そんな物はもう要らないと言えば、取り引きは成り立たない』
『成り立つわよ。あなたは今、それがどこにあるのか教えろと、言ったばかりじゃない』
ジェシカは、思っていた以上に肝が座っている。
私は太めの木の枝にロープを掛け、それを掴んで木をよじ登る。
塀の高さを越えてから木を蹴飛ばし、一旦民家側に振れる。その反動で軍の敷地側に振れた時、私は塀の内側へ飛び降りた。
意図も簡単に、敷地内へ潜入成功。帰りの事は、余り考えていない。
携帯で、自分とジェシカの位置を確認する。間違いない。彼女はほんの十メートル先にある、壁が青く塗られたコンクリート造りの建物の中だ。
『なるほど、確かにそうかもしれない。しかし、こちらの気が変わるという事もある。お願いするくらいなら綺麗に諦めて、お前を殺すという選択もあるかもしれない』
注意深く芝生の地面を探るが、センサーの類は本当にないようだ。
『そういうのこそ、脅しって言うんじゃないのかしら』
『脅すなんてとんでもない。実際私は、どうでもよくなり始めている』
私はゆっくり、ジェシカのいる建物の後ろへ近付いた。彼女の居場所は、相変わらず建物の真ん中だ。
建物にいくつかの窓があった。普通のサッシ窓だ。鉄格子ははまっていない。
軽く内部を覗いてみるが、部屋の明かりがないせいで、内部の様子はよく分からなかった。
『私はとっくに、どうでもいいと思っているわ。殺されるなら、それも仕方ない』
男の、作ったような笑いが聞こえる。苛立ちを含む笑いだ。
窓の一つを横に引いてみた。流石にロックが掛かっている。
背負っているナップザックから、ガラス切りを出した。窓のロック部分に吸盤を張り付け、コンパスを使う要領でガラスに傷をつける。
ゆっくり、吸盤に力を入れた。パキッと小さな音がして、半円のガラスが外れる。そこから内部を覗くと、誰もいない部屋のようだ。
手を入れて、サッシのロックを外す。ゆっくり窓を開けた。
『穏便に解決するのは、難しいみたいだ。残念だが、こうなればお前の身体に訊くしかないな』
『脅かしても無駄よ。ケビンをここへ連れてきて。そしたら私も考える。正直に言うと、あんな小さな石なんかに興味はない』
窓から、建物内に侵入する。部屋は無人だ。
『彼と交換か……。まあ、こちらにすれば、それでも構わないがな』
腰に二丁の拳銃を刺した。そしてアーミーナイフを片手に持つ。銃弾の詰まったマガジンも、ポケットに四つ突っ込んだ。ナップザックには、まだ五丁の拳銃と五本のアーミーナイフが入っている。残りはジェイソンに預けた。
できれば銃は、使いたくない。銃声が引き金となり、兵隊が次々湧き出てきたら対処できないのだ。
ドアをゆっくり内側に開け、僅かな隙間から様子を伺う。
長い廊下になっていた。
暗い部屋の中に、廊下の明かりが筋となって入り込む。
人気のないリノリウムの廊下は、しんとしていた。古い病院の夜の廊下と同じような、陰気臭さを感じさせる。
『どうするの! 連れてくるの? こないの!』
突然、足音が聞こえた。誰かが廊下を歩いてくる。
私は部屋の中へ、身を入れた。ドアはわざと開けておいた。
『ケビンを連れてきたら、ダークブルーの隠し場所を言うのか?』
足音が近付く。その音が、部屋の前で止まった。小さく開いていたドアが更に開かれ、内側に動いたドアが、きしみ音をたてて私の前に寄ってくる。
『連れてくるだけじゃ駄目よ。私たちを開放してもらう必要がある』
床に映った影が、部屋の中へ移動した。
私はドアの陰から出て、部屋に入った兵隊の後頭部へ、拳銃のグリップエンドを打ちつける。
『ダークブルーと引き換えなら、考えない事もない』
男が倒れるのと同時に、私は部屋のドアを閉めた。
男は気を失っている。こんなケースでは、意外に回復が早い。一分程度で目を覚ますのを防ぐため、口にクロロホルムを吸わせた布を当てる。
『開放すると約束してくれなきゃ、ダークブルーは渡せない』
私は男から衣類をはぎ、
『それが本物だと確認できたら、開放すると約束しよう』
私は、男から奪い取った迷彩服に着替えた。
同時に心の中で、先にダークブルーを渡したらだめだと唱える。
『開放が先よ』
私の心の声が届いたかのような、ジェシカの返事が聞こえた。そうだ、それだけは譲ってはならない。
『しかし我々は、お前たちを開放した後にダークブルーを受け取れる事を、どうやって信じたらいいんだ』
『それはこっちも同じよ。渡した後に開放するのを、私はどうやって信じればいいの。あなたは組織で動いている。圧倒的に優位な立場にいるあなたが、私の条件を飲むべきよ』
ジェシカは上手に時間を稼ぎ、ケビンと二人で助かるチャンスを作ろうとしている。
後は私の突入体制だ。さっと見渡した限り、通風ダクトのようなものはなさそうだ。
『お嬢さんの言うことはもっともだと認めるがね、自分の状況をよく理解した方がいい。そちらが条件を出せる状況かどうかをね』
窓がなく、天井や床がコンクリートだとすれば、突入口は部屋のドアしかない。
『だったら殺せばいいわよ。私はもう覚悟ができてる。とにかくケビンの無事な姿を見るまで、話は一つも進まないわよ』
私は迷彩服姿で、いよいよ廊下へ出た。自分とジェシカの位置関係は、およそ把握できている。
『強情なお嬢さんだ。それほど言うなら、考えない事もない』
五メートルも歩くと、左側に別の廊下が繋がっていた。
真っ直ぐ進む事もできるが、ジェシカのいる部屋はおそらくこの左側だ。
『彼の無事を確認できたら、私も前向きに考える』
私は思い切って左折する。
眼の前が暗くなった。五メートル先は突き当りで、その手前のドア前に歩哨が一人立っている。間違いなく、ジェシカはその部屋にいるのだ。
部屋の中では、男が無言になった。ジェシカの要望を、考えているようだ。沈黙するタイミングが悪い。
もちろん歩哨は、訝しげに私を見ている。突き当りの廊下だから当然だ。
私は考え事をしている振りをして、うつむいて歩く。
『分かった。彼をここへ連れてくるように言う。今から電話をする』
部屋の中で、男が電話を掛けるようだ。
歩哨が音を出して、持っているアサルトライフルを握り直す。
『私だ、奴をここへ連れてこい、……構わない、そのままでいい』
男の電話の声と歩哨が声を出したのが、ほぼ同時だった。
「おい、ここは立ち入り禁止だ」
私は、はたと気付いた振りをして立ち止まり、右手を上げて「ソーリー」と声に出した。多くを語れば、言葉で外人だとばれてしまう。
次の瞬間、私は歩哨の股間を蹴り上げる。うっと低くうめいて身体を折り曲げた相手の後ろへ回り、首を締めながら口にクロロホルムの布を当てた。
相手は十秒で落ちる。
ドアの内側から、「何かあったのか?」と声が飛んだ。それが同時に、私のイヤホンからも聞こえる。
やはりこの部屋だ。
私は、「ノー、サー」と短く答えた。相手はそれで、納得したらしい。
私は眠った歩哨を担ぎ上げ、先程の廊下へ戻る。
廊下に誰もいない事を確認し、一番近いドアを開けた。
部屋の中は暗く、誰もいない。
その部屋に歩哨を放り込み、先程と同じように彼を縛り上げる。
部屋を出る際、アサルトライフルを彼から失敬した。歩哨なのだから、銃を持っている方が自然だ。
ジェシカのいる部屋に戻り、私は銃を肩に掛け、背筋を伸ばしてドアの前に立つ。これで堂々と、私は部屋の前で待機できるというわけだ。
後はケビンの到着を待つばかりとなる。
『十分程度で到着するはずだ。彼が生きている事が分かれば、ダークブルーを渡してもらう』
『開放が先と言ったはずよ』
『その事は、また後で話し合おう。君の気が変わるかもしれない』
『それは変わらないわよ』
『だからこそ、どうやって変えるかを考えている。まあ、やりようはいくらでもあるだろうがな』
そこで部屋の中には、沈黙が訪れた。
私の意識は、脱出方法に向き始めている。気が休まらない。
早く問題を片付けて、レイチェルの淹れたコーヒーを飲みたい。
どうにも厄介な仕事を受けてしまったものだ。
廊下の方から、騒がしい足音が響いた。いよいよお出ましのようだ。
私は直立のまま、首だけを音の方へ向けた。
コーナーに、三人の男が現れる。二人は制服姿の将校と迷彩服の兵隊で、真ん中の男が写真で見せられたケビンだった。
ケビンの顔は痣だらけで、まぶたが目に被るほど腫れ上がっていた。身体が弱っているらしく、両脇から支えられるように歩いてくる。
明らかに拷問の痕跡だ。
「ジョセフ大佐の命令で、男を連れてきた」
私は敬礼のみで、彼らのためにドアを開けた。軍隊式敬礼は、未だ身体に染み込んでいる。
ドアを開けた瞬間、中の様子をすかさず確認した。
ジェシカは手錠を付けて、椅子に座っていた。その向かいに、椅子に座る恰幅の良い軍人がいる。モスグリーンの制服に身を包んだ、浅黒い肌を持つ、生粋のフィリピン人だ。
ケビンの様子に気を取られたジェシカは、私の事に気付いていないようだ。手錠の付いた手を口元に当て、彼を見ながら動揺している。
私は直ぐに、ドアを閉めた。これでようやく、役者が一箇所に揃ったのだ。
部屋には三人の軍人がいる。一瞬で二人を眠らせなければならない。
一人は人質になってもらう。その役は、大佐が適任だろう。
ケビンがあれほど弱っているのは、計算外だった。一人で歩けなければ、逃亡の際足手まといとなる。
『ケビンに何をしたの?』
ジェシカが叫んだ。口調に緊迫感がある。
『まだ生きている。しかしその命も、お前の回答次第だ』
人を殴る音、そしてうめき声。
『止めて、彼が死んじゃう』
『だったらどうする? よく考えた方がいい。早く結論を出してくれないと、手遅れになるかもしれない』
再び殴る音にうめき声が聞こえた。
私はアサルトライフルを床に置き、自分のコルトガバメントを二丁、腰に差し直す。
片手には、アーミーナイフを二つ持った。
ドアをノックする。中から、何だと声が届いた。
私はそれを無視して、相手がドアを開けるのを待つ。
足音が近付いた。ノブの回る音に続いて、ドアが開く。
僅かにできた隙間に、ドアを押し開ける形で自分の身体を入れ、ドアを開けた兵隊の喉元へナイフを突き刺し、もう一つのナイフの柄でこめかみを強打した。
できれば傷付けたくなかったが、この状況では仕方ない。ドアを開けた彼は、声を出す間もなく倒れた。ナイフは抜かない。抜けば大出血で、確実に死ぬ。耳の下にある頸動脈は外している。
ケビンの傍らにいた将校が、慌てて腰の拳銃に手を掛けた。私はすかさず、ナイフを彼に飛ばす。最初からそのつもりでいたのだから、相手は全く対応できない。私のナイフが、彼の胸へ突き刺さる。
彼は銃を抜く前に、床に崩れ落ちた。
私は腰の銃を抜いて、親玉のジョセフ大佐へ銃口を向けた。
「騒ぐな。余計な事をすれば撃つ」
後手でドアを閉め、ゆっくり部屋の中央へ歩く。銃口を大佐に向けたまま、ケビンの足元へ倒れた将校の頭を蹴り上げた。
まだ息が残っている。うめき声と共に、彼は完全に気を失う。これで彼は、暫く目を覚まさない。いや、運が悪ければ、永遠にこのままかもしれない。
突然の急襲に、大佐の顔は怯えていた。
「お前は誰だ」
先程までのふてぶてしい口調は消え失せ、声が上ずっている。
「正義の味方だよ」
言ってから、ジェイソンもこの会話を聞いている事を思い出す。きっと彼は、笑っているだろう。
「まさか、お前がユーゴなのか?」
それには答えず、私は大佐に立てと命じた。銃口が間近にある彼は、顔を歪ませ渋々椅子から立ち上がる。
「向こうを向け。手を後ろで合わせろ」
「こんな事をして、ただでは済まないぞ」
台詞で悪あがきをするが、彼は私の言葉に従う。
彼の両手をロックタイトで縛り上げた。
「そのまま床に転がれ」
恐怖に顔を引きつらせる彼は、私の命ずるがままだった。私は彼の両足も、ロックタイトで縛り上げた。
「いいか、余計な事をすれば、俺は迷わずお前を殺す。声も出すな。分かったな」
彼は無言で頷いた。
気合いの入った将校ならば、声を出して私に銃を使わせるに違いない。自分が死んでも、こうした暴漢を生きて基地から出さない事を優先させるはずだ。
しかし彼は、私に柔順だった。私が二人の軍人に、躊躇なくナイフを使用したのを目の当たりにしたからかもしれない。
私はジェシカの手錠を外した。自由になった彼女は、ケビンに駆け寄る。
「ジョセフ大佐、この騒動は、一体誰の差し金なんだ? 軍の独走か? それとも政府の命令か?」
彼は怯えた目で私を見るだけで答えない。
私は拳銃を腰にしまい、新しいアーミーナイフを手に持った。よく研がれた、切れ味の良さそうな刃が、天井の照明を反射させている。
大佐が目をむいた。
ナイフを大佐の首筋に当てる。ナイフに少し力を入れると、刃を当てた彼の皮膚から、線状に薄っすらと血が滲み出した。
「答えたくないならそれでも構わない。このナイフをあんたの首に食い込ませて、それで終わりだ」
「ま、待て、話す。これは大統領命令だ」
「つまり、フィリピン政府が絡んでいるという事か?」
「議会が承知しているかどうかは知らない」
大統領が絡んでいるとしたら、確かに軍もやりたい放題だ。ホテルへの襲撃も頷ける。
国防総省最高司令官の大統領が、直接軍を動かしたというわけだ。
「なぜだ。それほどフィリピンは、ダークブルーが欲しいのか?」
「詳しい話は知らない。全て上からの命令だ。マニラのAFP本部から言われている」
AFPとは、The Armed Forces of the Philippines の略だ。アメリカでいえば、ペンタゴンに相当する。
裏切った教授は、軍の中枢部へダークブルー売り込んだらしい。
軍で上からの命令は絶対だ。指揮命令系統が崩れてしまえば、いざという時に軍は役立たない。だから軍は、この指揮命令を重視する。
「そうか、ならばあんたに、ケビンをいたぶった責任はないということになるな」
大佐は激しく頭を縦に振った。この窮地で私の理解を得られそうな事に、彼は希望の光を見出しているようだ。
「……なんて思うわけがないだろう。大統領が拷問の細かい指示を出すわけがない。その辺は、あんたの裁量のはずだ」
彼は動きを止め、私の感情を伺うようにこちらを見つめる。
「だからあんたに、一つ罪滅ぼしをしてもらう。俺たち三人が、このベースから出るのを手伝ってもらいたい」
大佐が眉間に皺を寄せる。
「どうすればいいんだ?」
「簡単だ。車を一台用意してもらう。俺たちは後部座席に座り、あんたが運転する。ゲートを出て、俺の指示通り走ってくれたらいい。それだけだ。俺は傭兵上がりでね、変な事をされたら、即座にあんたを殺す。自分が死ぬ覚悟はとっくにできているんでな、後先を考える必要がない」
「わ、分かった。何でもする。だから殺さないでくれ」
部屋の隅に黒電話がある。私は大佐の襟首を掴み、電話の場所まで引きずった。
「さあ、電話で車を用意するように伝えろ。意味の分からない言葉を使えば、即刻お前の首を切る。番号を言え」
「3562だ」
言われた通りの番号を回し、受話器を大佐の耳に当てる。私も耳を付け、相手の声を聞いた。
男が電話に出る。
「私だ。済まんが、正面に私の車を回しておいてくれ。今日は自分で運転する。ドライバーは不要だ」
『はい、分かりました』
それだけで電話は切れた。
「キーはどこにある?」
「車に付けっ放しだ」
私はジェシカに拳銃を渡した。
「いいか、引き金を引くだけで弾が出る。この親父が変な事をしたら、躊躇わずに撃て」
彼女は黙って頷く。グリップの安全装置の事は、敢えて教えなかった。彼女を人殺しにするわけにはいかない。それでも大佐は、動けないだろう。
私は、ナイフで傷付けた二人の脈を取った。身体は動かないが、まだ生きている。
二人を引きずって、部屋の隅へ移した。血糊がリノリウムの上にラインを作る。
「さあ、ここを出るぞ。ケビンは動けそうか?」
ジェシカがケビンに肩を貸した。
「大丈夫、どうにかなる」
ケビンは相変わらず、虚ろな目をしている。どうやら薬を打たれているようだ。
大佐を縛っていたロックタイトを切った。彼はよれよれと立ち上がる。私は彼の襟首から、背中に使い捨てライターを入れた。
「今背中に、小型の爆弾を入れた。小型でも、お前の身体に穴が開く程度の威力がある。リモートは俺が握っている。お前が裏切れば、俺が即座にスイッチを押す。それを忘れるな」
彼は苦しそうに、分かったと答えた。額に汗を滲ませている。彼がそれを信じていれば、何かを画策する事はできないだろう。
「お前が先頭を歩け。俺が一番後ろを歩く。二人を別の場所へ移すという設定だ」
大佐は力なく頷いた。もはや彼は、私の言いなりだ。なにせ背中に、爆弾まで抱えてしまったのだ。よほどの筋金入りでなければ、到底逆らう事などできない。
廊下を進む間、何人かの兵隊とすれ違った。私はジェシカとケビンを監視している振りをして、二人の腕を掴んでいる。ジェシカには、私のナップザックも持ってもらった。
先頭を大佐が歩いていることで、誰もが状況を疑わず、足を止め、壁を背にして直立不動の姿勢で道を譲った。
大佐は何もできなかった。爆弾が効いている。
私たちは大佐の運転で、ゲートも無事に通過した。大佐が運転している事で、歩哨は何も疑わない。
基地を出てから後ろを振り返ると、会話を聞いていたジェイソンが後ろを走っているのが見えた。
大通りに出ると、私は右折を指示した。完全に山側へ入る前に、今度は左折。
適当に走ったところで、車を路肩に停めさせた。
私はジェシカに言った。
「二人はここで降りろ。仲間が直ぐに、お前たちを拾ってくれる」
「あなたはどうするの?」
「俺はまだ、大佐と話があるんでな」
その言葉で、大佐が怯えた顔をこちらへ向ける。
ジェシカとケビンは、私の指示通り車を降りた。直ぐにジェイソンが二人を拾ってくれるはずだ。
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