第12話 ジェシカ発見

 夕方四時に目を覚ましたグレースへ、私はジェイソンから寄せられた情報を伝えた。

「ケビンが隠れそうなところで、何か心当たりはないか?」

 グレースはベッドの端に腰掛けながら、腕組みをして考える。

「分からないけど、私なら、マニラかダバオみたいな別の場所へ行くか、もしセブを離れたくないなら、どこかの貧困街に紛れ込む」

 なるほど、確かにそうかもしれない。

 しかし、かつて私が二度目に住んだ場所は、マフィアとの繋がりが強かった。もしそういった場所に身を隠すなら、地下組織と繋がりの薄い、最底辺の場所である必要がある。つまり、私が最初に身を寄せたような場所だ。

 私は夜になる前に、かつて三ヶ月間生活をした、港近くのダンボール街へ行ってみる事にした。

 当時そこには、パトリックというボスがいた。彼がまだそこにいたら、話は早い。

「これから直ぐに、ダンボール街へ行ってみようと思う。どうだ、一緒に行くか?」

 グレースは、勿論行くと目を輝かせる。

 私たちは、十分後にホテルを出発した。港方面へ車を走らせ、途中のスーパーで土産を買った。

 ダンボール街に到着する頃には、随分陽が傾いていた。

 周囲が昼の青白い色から、暖色系の濃い色へと変化を見せ始めている。

 そうなると、明るさの変化は途端に速度を増し、みるみる薄暗くなっていく。そして気付けば街灯が点灯し、セブの街はネオンの点灯と共に、別の顔を見せ始めるのだ。

 私は、ダンボール街の真ん前に車を停めた。

 見た目は異様な貧困街だが、暑さが和らぎ喧騒もなく、長閑のどかと言っても差し支えない空気が漂っている。

 車を降りると、住人たちが住居の中から、珍しい来訪者へ好機や警戒の目を向けてくる。

 知った顔は見当たらなかった。

 ここで暮らす人にとって、十年が長いのか短いのか分からない。もし長いとすれば、知った顔はほとんどいないはずだ。

 私は構わず、道路から奥へと歩を進めた。

 ダンボールの家は不規則に設置され、ゴミの山から拾い集めた自転車のフレームや空き缶や、よく分からないガラクタ類が散乱している。それらを避けながら、二人はジグザグに進んだ。

 かつてのパトリックはエリアのボスらしく、車通りの多い道路際から離れた、界隈では一番静かな場所に居を構えていた。

 と言ってもそれは、ダンボールよりワンランク上の、ベニヤ板の壁を持つ小さな棲家に過ぎないのだけれど。

 もしパトリックが消えていたとしても、後釜のボスが同じ場所にいるはずだ。

 奥に一つだけポツンと離れた、ベニヤ板の住居が見えた。ボスの棲家は、同じ列に他の住居がないため、そこの住人が他と一線を画す人物である事が簡単に分かる。

 近寄ると、上半身が裸の中堅どころ三人が、私たちの前に立ちはだかった。

「ここに何の用だ」

「ボスのパトリックに会いにきた。私は昔ここに住んでいた者だ」

 三人は怪訝な顔付きで、私たち二人を舐め回す様に観察する。私は大きな声を出した。

「パトリック、まだここに住んでいるのか?」

 私が呼びかけてみると、中で人の動く気配があり、白髪の多く混じる長髪で目の窪んだ老人が、入口から顔をのぞかせる。

 髪はぼさぼさに乱れ、顔や身体に刻まれた皺の深みが以前より増しているようだ。顔のしみも随分多くなっていたが、それはまさしくパトリックだった。

 彼は私を、窪んだ目でじっと見つめた。

「パトリック、久しぶりだな。佐倉だ。十年前に、ここで世話になった佐倉だよ。覚えているか?」

 不思議な物でも見るような表情のない彼の顔が、突然崩れた。にんまりとする口元から、一つ置きに欠けた歯が覗く。

「おお、覚えとるよ。随分立派な身なりになって、分からんかった」

 過酷な生活に喉をやられたしゃがれ声は、昔と全く変わらない。

 パトリックが三人に下がれと手で追い払う様に合図を送ると、寄ってきた男たちはさっと消えた。

「日本に帰っていたんだ。暫く振りでセブに来たから寄ってみた。土産も買ってきたよ」

 私が酒や米、ソーセージ、缶詰め、スナック菓子等を手渡すと、彼は嬉しそうに目を細め口元が笑う。

「狭いが、まあ入りなさい」

 私とグレースが身体をかがめて棲家に入ると、余分なスペースは全くなくなった。

 グレースは珍しそうに、部屋の中を見回している。何かの焦げあとの様な臭いが、部屋の中に充満していた。

「死んでいるんじゃないかと心配したが、元気そうで良かったよ」

「こんな生活をしていても、不思議なもんで中々死ねないんじゃよ。全く不便な事だ」

 死ねない事を不便だと表現する彼の言葉に、私は彼を、相変わらず正直な人間だと思う。そんな生活をしている人間ほど、見栄を張りたがるものだと学んだのがここだ。

「俺も結局死ねなかったからな。お陰でずっと、苦労してるよ」

 パトリックは欠けた歯を見せて笑うが、直ぐにその笑みを引っ込め、私を窪んだ目の底から薄気味悪く見た。

「久しぶりにここへ来たのは、何か目的があるんじゃろう。まさかそんなべっぴんと二人で、またここへ住みたいというわけじゃあるまい。さて、何が目的なんじゃ?」

 相変わらずこの老人は、食えない奴だ。

 貧困街であっても、そこで頭を張り続けるには、それなりの能力が要求される。時折やって来る行政との折衝は、一つ間違えば住人全員がその場を追い出されてしまうのだから、特に重要だ。

「何でもお見通しという感じだな」

 私はジェシカとケビンの二枚の写真を取り出し、彼に差し出した。

「この二人の行方を追っている。女は彼女の妹で、男は妹の恋人だ。二人共突然姿を消した。エリックのところが、男の方を探しているようだ。俺たちは彼らを保護したい」

 パトリックはしげしげと写真を見て、二枚を私に差し戻しながら言った。

「危害を加える目的ではないということか? 嘘じゃないだろうな」

 パトリックの目が、一瞬凄みを帯びる。私は無言で頷いた。

「ふむ、まあ、あんたを信じよう。この男なら、少し前にここへ来ておったよ。一人じゃった。女の方は知らんなあ」

 意外な情報に、グレースが身を乗り出す。

「それで彼は、今どこにいるんですか?」

 彼はグレースの顔を、まじまじと覗き込んで言った。

「あんた、随分べっぴんじゃのう。こんな男にくっついとるのは勿体ない」

 パトリックは高らかに笑い、グレースはその言葉で勢いが削がれる。

「奴はおそらく、マナンガ川沿いにある、どこかのスラムにいるはずじゃ。マフィアに追われている事は、分かっておったよ。ここに来る奴は、そんなのが多い。それなら川沿いのスラムが安全だと教えてやったんじゃ。ここは日本人がふらりとやって来るくらい、足を踏み入れ易いからのう。実際、奴と一足違いでマフィアの連中も来ておったが、わしらは奴らと貸し借りがないんで、知らん振りを決め込んだ。そのケビンとかいう男には、間違ってもロレガやパシルへは行くなと忠告しておいた」

 ロレガやパシルは、セブの中で最も悪名高いスラムの場所だ。麻薬や拳銃の密売が盛んで、チキンファイト等のギャンブルでも賑わう、マフィアの巣窟的場所である。アル中や麻薬中毒者を普通に見かけ、金のためなら平気で人を売る人間も多い。

 私の住んでいた場所も酷かったが、ロレガやパシルに比べれば、随分ましだと言われていた。それは住民のコミュニティが、ある程度確立していたからだ。

「しかしのう、いくら安全だと言っても時間の問題じゃ。よそ者というのは、結局どこへ行っても目立ってしまうもんじゃ。あんたが初めてここへ来た時のようにな」

 確かにその通りだ。そういった場所で暮らす人間には、そういう臭いみたいなものが染付いている。付け焼き刃でいくら身なりを周りに合わせても、不思議な事に、誰にも自分がよそ者だとばれてしまうのだ。

 周囲に仲間と認めてもらえないのは構わなかった。しかし住民は、私に親切だった。いつも気さくに接してくれた。

 だがそれは、客人としての扱いだった。

 みんな私以外の人間とは、好き勝手な事を言い合い、喧嘩も良くしていた。そして笑い合う時には、心の底から笑っていた。

 それが私と接する時には、誰にも薄皮一枚の遠慮があるのだ。

 住民たちにあからさまに疎外された方が良いと思うくらい、私は居心地の悪い他人行儀な親切を受け続けた。

 そんな調子で二ヶ月くらい、私はコミュニティーに溶け込めなかった。その状況が変わったのは、私が自分のプライドを捨ててからだ。

 何かが変わったのは、私がファーストフード店に飲料水をもらいに行き、コンビニのゴミ箱へ捨てられたカップに残るソフトドリンクを飲み、ケンタッキー店舗の裏手に捨てられた骨の周りに残る肉にかぶりつく事を、当たり前にできるようになってからだ。

 私自身に貧民街での生活力が身につくと、住民の親切がなくなる代わりに、彼らは私を仲間として認めるようになった。

 その頃の私は、身体に悪臭が染み付き、すさんだ目を持つようになっていたと思う。

 しかしそうなるまで、私は二ヶ月を要した。地元のケビンならば、もう少し早いだろうか。

 いや、そんなことはない。周囲に普通の生活を送る同じフィリピン人がいれば、プライドを捨てるのは難しいはずだ。

 ケビンがスラムから浮き上がるのは、パトリックが言う通り、時間の問題だ。

 ならば出来るだけ早く、彼を保護する必要がある。

 人手不足のところへ、更に仕事が増えてしまった。この依頼は、予想以上に忙しくなりそうだ。

 私とグレースはパトリックへ礼を言い、彼のむさ苦しい棲家を後にした。


 エリック邸の裏手を探るため、港から直接集落へ戻った。

 辺りは既に街灯が灯り、本格的な夜がそこまで迫っている。

 マボロエリアの激しい渋滞を抜けた頃には、薄っすらとオレンジに色に空を染めていた明かりもなくなり、頭上には真っ黒な空が広がっていた。

 集落へ続く細い道へ入ると、途端に周りが暗くなる。その小さな道に、街灯がないからだ。

 集落も、まるで廃村の様にひっそりしていた。辛うじて住宅の窓から明かりが漏れているため、そこに人が住んでいる事を認識出来る。

 エリック邸や鉄塔は集落の西側にあるが、今度車を停めた場所は、集落の南端に近い場所だ。エリック邸へ繋がる道も、集落の南側を通っている。

 私たちは徒歩でその道を横切り、道と平行にジャングルの中を歩き、エリック邸の裏側に回り込む予定だった。

 距離にすれば一キロしかないが、夜のジャングルで道なき道を進むのに、たっぷり一時間はかかると見込んでいる。

 常に道路の気配を感じて歩かないと、ジャングルの中で方向感覚を失い、まるで見当違いの場所へ向かってしまう。

 私は時々、木に特殊なマーカー塗料を塗って歩いた。それ用のメガネを通さないと、肉眼では見えない塗料だ。

 ザイルとかつてSATでくすねた片眼式暗視カメラ、人感センサーのレーザー光線検出用に大量の小麦粉を持参した。原始的だが、これが意外に役に立つ。

 グレースに暗視カメラを付けさせ、私はレーザートラップのミラーを肉眼で注意深く探しながら、グレースに手を引いてもらう。

 月明かりが意外に周囲を照らし、平衡感覚を失う程の暗闇ではなかった。

 勿論懐中電灯は使わない。しかし木々を避けてしまえば地面に大きな凹凸はなく、思っていたより順調に歩ける。

 約四十分後、私たちはエリック邸の横に出た。

 勿論、真横に出たわけではない。私たちの左前方に、木々の隙間から、ちらほらと棲家の明かりが見え始めたのだ。

 私たちは歩く速度を落とし、レーザー人感装置の有無をしつこく確認した。

 特殊暗視カメラがどこかに隠されていれば、これはお手上げだ。

 通常は赤外感知カメラを使うため、それに検出されないよう、肌の露出は抑えている。頭からすっぽり被る、銀行強盗が使うようなマスクを装着しているのだ。

 しかし、もし高価な高感度型チップ使用のカメラが設置されていたら、これは星の明かりでも映ると言われているため逃げられない。

 もし屋敷がざわついたら、とにかくジャングルの奥へ逃げるというのが、グレースと確認した対応である。

 いよいよ屋敷の裏手へ回り込む。ゆっくり進んでいると、一瞬何かが見えた。

 私は即座に言った。

「ストップ!」

 グレースは脚を踏み出した状態で、動きを止める。

「ゆっくり下がって」という私の指示に従い、彼女は静かに後退する。

 私は彼女と入れ替わり、先頭に立った。そして小麦粉を取り出し、一握りのそれを辺りにぱあっと撒いてみる。

 最初は何も起こらなかったが、それを繰り返してゆっくり進むと、暗がりの中を舞う白い粉の中で、赤い線がちらちらと見えた。

「これはなに?」

 グレースが驚いて言った。

「これが人間を検出する、レーザー光線だ。この光が遮られると、機械はその大きさや移動速度を計算し、横切ったものが人か動物かを判断する。人と判断されたら、直ちに警報が出るシステムだ」

「警報が出たら、どうなるの?」

 何とも間抜けな質問に思えたが、彼女は真面目に訊いているようだ。

 警報は警報だが、おそらく彼女は、その後何がどうなるのか、具体的に想像できないのだろう。

「ガンを持った怖い人たちが、たくさんここに来るんだろうな」

 グレースは唖然とした様子で、私をじっと見る。

「それで、どうすればいい?」

「この線に触らないように、くぐったりまたいだりすればいいんだ。一個分かれば、おそらく全部がミラーで繋がっているから、あとは見つけやすい。一番いいのは、最初と最後を別のミラーで繋げてしまう事なんだが」

 小麦粉を撒きながら、私たちはレーザーがどの様に張り巡らされているかを追う。

 その結果レーザーは、屋敷から五十メールの距離を置いて、屋敷を囲むように張られていた。

 そうと知れば、私たちはその内側へ入らない様に屋敷の裏手へ回れば良いだけだった。屋敷との距離を約七十メートル確保し、別のレーザーに気を配りながら、私たちはゆっくりと屋敷の真裏へ回った。

 しかし予想通り、七十メートルも離れてしまうと、木々が邪魔をして屋敷を真っ直ぐ見通せるポイントがない。

 今度は屋敷の真裏から、直線的にゆっくり屋敷との距離を縮める。

 小麦粉を撒きながら、慎重に進んだ。一度、屋敷から五十メート離れた場所のレーザーをくぐり抜ける。レーザーの存在を示すマーカーを、レーザーの外側と内側の数本の木に塗った。

 屋敷が静まっているところをみると、自分たちはまだ気付かれていないようだ。屋敷が見通せる場所まで、距離を詰めるしかない。

 十メートルの距離まで近付くと、高さニメートルのブロック塀が現れた。壁の外側五メートルは、何もない空き地になっている。木を伝った侵入を防止するためだ。

 グレースを森に残し、私一人で塀に近付いた。

 壁の上部には、思った通りレーザーが走っている。小麦粉を撒かなくても、塀の非直線部にレーザーを繋げる反射器が設置されているため間違いない。ひさしの付いた監視カメラも設置されていた。

 壁の内側へ入るのは勿論危険だ。別のレーザーやカメラ、あるいは予期しない監視装置があるかもしれない。

 私たちはやや後退し、木の上から塀の内部を観察することにした。

 勿論、最前列の木に登るのは危険だ。やや内側へ引っ込み、手頃な木を探す。周囲の木は楽器や家具に使われるマホガニーがほとんどで、幹の太さは五十センチくらいだ。

 グレースが木の上を見上げて言った。

「これ、どうやって登る? 私、木登りはできないよ」

 私は自分の靴へ、スパイク金具を装着した。

 ザイルは木の円周長より長めに切り、木の外周へ回したザイルの両端をグレースの腰ベルトに装着する。これで身体を後方へ傾け足を木に突っ張れば、身体が固定される。私も同じ様に、自分の腰ベルトへザイルを繋げた。

 私は身をかがめて言った。

「いいか、俺の肩に乗れ。俺がお前を押し上げる。そうしたら木に引っ掛けたザイルを上にずらすんだ。そうやって、少しずつ登る」

 私はスパイクを木に食い込ませ、グレースを押し上げる。彼女が上がったら、私はまた自分の足を上に引っ掛けて、グレースを押し上げる。

 こうして私と彼女は、尺取虫しゃくとりむしの様に伸び縮みを繰り返し、ゆっくりと木を登った。

「お前、見掛けより重いな。結構きついぞ」

「何言ってる、五十キロないよ」

 いくらそうだとしても、引力に逆らい五十キロ近い物体を押し上げるのは、中々の重労働だ。

 塀の中が見える高さまで上がると、私は二人分の足場を作った。

 グレースが足場に足を置き体重を後ろへ掛けると、彼女の体が固定される。それから私も、彼女と同じ高さまで登った。

 前方の木々が邪魔をして、全てをすっきり見渡せるわけではないが、屋敷の端から端まで、部分的に見えていた。

 一階は四つの部屋に明かりが付いているが、二階で明るいのは、左寄りの一部屋だけだった。

 鉄格子の嵌る、小さな窓だ。おそらく私が監禁されたのは、その部屋だろう。

 一階の明るい部屋には、どれにもエリックの部下らしい人間が時折見える。おそらく夜でも、常時ニ〜三十人の兵隊が控えているようだ。やはり厳戒体制の様に、物々し過ぎる。

 今のところ兵隊たちに、慌ただしい動きは見られない。つまり自分たちは、予想外のセンサーに引っ掛かっていないということだ。

「どうやら気付かれていないようだ。暫く二階の部屋に集中していいぞ」

 私がグレースへ双眼鏡を渡すと、彼女はそれから、じっくりと鉄格子の付いた小さな窓を見始める。その間私は、一階の様子に気を配っていた。

 時間は九時に近付いていた。この体制で張り込むのは二時間か、せいぜい三時間が限界だろう。

 深夜十二時には撤収しようと、グレースに相談なく決める。私は彼女が、一時間もすれば音を上げると思っていたからだ。

 しかし彼女は、意外な根性を見せた。二時間経過しても、まだ二階の部屋を見続けていた。一体彼女は、どういう足腰をしているのか。身体には、結構な負担になっているはずだ。

 手下たちは、相変わらず部屋で平和にくつろいでいる。時々歩き回ってはいるが、何かに慌てる様子はない。

 周囲には、虫の音が響き渡っている。まるで日本の秋を持ってきたようだった。常夏の国では、そんな虫が年中騒いでいるのかもしれない。

 グレースが突然、小さな声を出した。

「佐倉さん、あの部屋に、誰か見える」

 私は肉眼で、二階の部屋へ視線を移した。確かに窓の向こう側へ、女性らしい人影が見えている。

「顔が分かるか?」

 グレースは双眼鏡を通し、固唾を飲んで窓の内側を凝視した。

「あっ、ジェシカよ。あそこに見えるのはジェシカだ」

「確かなのか?」

 彼女は双眼鏡を覗いたまま、興奮気味に答えた。

「間違いない」

「そのまま彼女の様子を確認しろ。他に誰かいそうな気配があるか、それと歩き方で弱っているのかそれとも普通か、そのあたりを良く見てくれ」

「わっ、分かった」

 彼女が生きてこの屋敷へ監禁されていることは分かった。セブへ来て、早くも三日目に、彼女を発見できた事は幸運だ。

「落ち着いて良く見ろ。今日は出来るだけ多くの情報を取るんだ。それが彼女を上手く救出出来るかどうかを決める。慌てても、今日は何もできない」

「他の人は見えない。ジェシカは窓の外をただ眺めている。話しはしていない。顔は苦しそうじゃない。ただ悲しい顔。あっ、窓から離れた。動き方は普通に見える」

 実況中継の様に、グレースは見た通りの事を伝え、そしてまるで命運が尽きるように部屋の明かりが消えた。

 それから三十分粘ってみたが、再び二階の部屋に明かりが灯る気配はなかった。

 一階の部屋も、依然落ち着いている。

 グレースは諦め切れない様子だったが、私は言った。

「そろそろ、ここを引き上げよう」

 彼女は私の顔を、じっと見つめた。妹が見つかったのに、それを放って帰るなど、どうしたらそんな冷たい仕打ちが出来るのかと訴えている目付きだ。

「何度も言った通り、慌てて動いてもリスクが増えるだけだ。二週間ここにいて無事ということは、ケビンが見つかるまで彼女は問題ない。余り心配するな」

 グレースは不承不承ふしょうぶしょうに頷いたが、その後はホテルの部屋で眠るまで、殆ど口をきかなかった。

 私はふて寝をするように眠ってしまったグレースを横目に、ジェシカの救出作戦について思考を巡らした。

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