4.弱りゆく花加護

 マリーゴールドの里は、長い平和を甘受していた。


 水も土壌も困らない大地に、危険な生物はそれほど多くない穏やかな森。近隣の里とも争いごとなど起こったことがない。少なくとも、ここ百年ほどは無縁のことだったようだ。

 この里において戦闘という事態は想定されていない。

 狩りに出ていた者たちによって報じられた危険は、里に残っていたお祭り気分を一瞬でかき消してしまうには十分すぎた。。


「熊の突然変異種ですか……」

「しかも、かなりの大型だ。普通の熊の倍以上か。おそらく、レールを歩いていた時に見たのと同一個体だな」


 木製のコップに入った水を飲みながら、スイはベッドの上で足をぷらぷらと揺らしていた。

 レイは帰還後すぐに部屋に戻って床に道具を広げ、作業を始めていた。

 鉄の筒に持ち手がついたソレは、文明時代に銃と呼ばれていた代物だ。今では扱える者が限られているそれは、レイにとってのもう一つの相棒だ。

 筒の短いものと、長いものの二種類。慎重に分解して、丁寧に掃除する。手入れを怠らず、いつでも使える状態にしておく。

 それは旅人であった祖父から銃を受け継ぐときに教わった、これを使う時の心構えの一つだ。


「ここに来る前に遭遇した時、アレは俺たちを襲ってはこなかった。距離があったとはいえ、人の味を覚えていたら戦闘になっていたはずだ。だから、まだアレは人を食べる機会に恵まれたことはないんだろう」


 もし仮に今後人が食われたならば、人の味を覚えた突然変異種がより積極的に人を狙う懸念がある。突然変異種でなくとも熊は最も警戒するべき動物だ。

 花人の加護はあくまで突然変異種にたいして「本能的に近寄らないようにする」ためのものであり、万能の結界という訳ではないのだ。例えば食欲が本能的な恐怖を抑え込んでしまったとき、花加護は役に立たなくなる。

 けれど、今回遭遇したのは、鹿の血の臭いで誤魔化されたのだから、まだ人の味を知らない。


「ということは、人にも花人にも遭遇したことはない個体ですね」

「あぁ。それがここまで近場に来ているのなら、花加護が弱まっている何よりの証拠だ」


 積極的に自分が討伐するつもりはないが、里を出た時に万が一ということもある。本来であれば花人が対処するべきではあるのだが……。


「マリーゴールドの様子はどうだった?」

「……隠してはいましたが、やはり力が弱まっています。子供たちが先程鬼ごっこに誘っていたのですが、頑なに本体の花から離れようとしませんでした」

「花畑から極力離れたくないんだろうな」



 花人の力が弱まる理由は、三つある。

 一つは劣悪な環境で世話をされている場合。

 一つは花人が人への協力を拒んだ場合。

 もう一つは、花人が十分に休眠期間を取れなかった場合だ。

 この平和な里と人々の対応を見ていると、花人の力が弱まった理由はとして有力なのは最後の一つだろう。

 花人にとって、休眠期間は大切なものだ。詳しい原理は解明されていないが、花人は寝ている間に自然のエネルギーをため込み、開花している時期にそれを放出することで土地を守っている。

 長く寝ている間に加護が弱まるのは、花人が力を蓄えるからだ。夜に眠るのだって体力を回復させるために必要なこと。人と同じく、眠らないまま活動はできないのと一緒だ。


 人なら兎も角として、花人なら自分の体のこととして理解している。あえて眠らないのか、それとも強要されているのかで話は変わる。

 花人が自ら眠りを拒む場合がないわけではない。当然のことながらそれ相応の理由が付きまとうものだ。主な理由としては、自らの土地の近くに大きな脅威がある場合だ。

 この平和な里で、その必要性があるのかと問われれば否だろう。しかし、先日の突然変異種が近くに生息していると認識しているならば十分考えられる。


 問題は、なぜ花人は里人に話さなかったのか。という点だ。

 いったん手を止めて、窓に向かう。花畑のある広場では、昨日と変わらず花人が一人佇んでいた。

 マリーゴールドは会議が行われているはずの広場の向こうを見ているようだ。部外者の自分たちはともかく、花人が会議に参加しない理由は、レイには理解できなかった。

 この里で突然変異種に対抗できるのは、マリーゴールドだけだというのに。


 レイはスイを連れ立って建物の外に出る。

 穏やかな風に、建物を取り巻く木々や植物がさわさわと揺れている。蜂蜜色の夕日が、世界に濃い影を落とした。

 昼間の穏やかさから一転して、空気はピリピリしている。主に里の男たちが、だ。女性や子供は、男たちの空気に触発されて緊張しているように思えた。

 花畑の中で、マリーゴールドは疲れたように周囲の建物を眺めては、時折顔を出す住民を見つけると申し訳なさそうな顔をする。それはレイたちに対しても同様だった。


「せっかく来てくれたのに、こんなことになってしまってごめん」

「スイたちはいいのですよ。それより、マリーゴールドさんの方が心配です」


 口を開いたマリーゴールドの声音は疲れ切っているようだ。里人のいる手前はずっと我慢していたのだろうかと、その横顔を見た。いつも穏やかに笑みを浮かべていた花人は、微笑んではいるけれど瞳には慈愛ではなく憂いがこもっている。


「眠っていないのは、あの突然変異種のせいですよね」


 沈黙。それは肯定だ。きゅっと唇を引き結んだ花人は、ややあって深く息を吐いた。


「……どうして里の人たちに相談しなかったのです?」


 花人は土地や里人を守ることが役割ではあるけれど、それはあくまで人の助けを借りて成り立つものだ。それが共生。けれどマリーゴールドは一人で守ろうとして、綻びが生じ始めた。

 里の人はみな、マリーゴールドがただ一人で頑張っていたことなど知る由もないだろう。誰一人として花人の疲労には気付けず、長く咲こうとする花の理由を考えようともしていなかっただろうから。花守ですら、気づくことはなかった。


「皆を不安にさせたくなかったんだよ」


 少し我慢すれば、きっと遠くへ行ってくれるかも。そんな甘い考えがマリーゴールドにあった。しかし現実はそうはならず、自分の力が削がれていくにつれて、突然変異種はじりじりと里に近づいている。獲物を襲いたがる本能と、花人に近づくまいとする抑制が拮抗した結果だ。

 しかし、花人が眠っている間に里人が襲われて喰われでもしたら、抑制が食欲に負け加護がまったく通用しなくなる可能性もある。相談したところでそうする他なかったのもあるだろう。この里には大型の突然変異種と戦う力などないのだから。

 マリーゴールドの花には、特出した戦闘能力はない。他の花人たちと同じく、植物をある程度操れるぐらいのものだ。

 花によって戦闘に特化した者、里の生活のサポートに特化した者と別れることが多い。どちらにも属さない花人もいるが、マリーゴールドは後者の花人だ。虫型の突然変異種であれば多少話は変わっただろうが、今回は相手も悪かった。


「皆が対応できないのに相談して不安にさせるなら、ボク一人が我慢して解決できるならそれがいい」


 マリーゴールドの声は微かに震えていた。

 スイはそれを見て首を傾げる。

 どうして震えているのだろう。枯死してしまうのが怖いからか、突然変異種が怖いからか。いや、その理由であれば里人にここまで話さないことはないはずだ。もうすでに追い詰められて、里人の前で虚勢など張っていられなかっただろうから。

 里人に相談しなかったのは、本当に里人を思ってのことなのか?


「……本当に、それだけですか?」


 思考が、口から零れ落ちてしまった。マリーゴールドの顔から、初めて微笑みが消えた。

 追及ではない。純粋な疑問だ。もう突然変異種のことは露呈してしまった。ならば今こそ言うべきだろうとスイは考える。しかし、どう言葉にしたらいいのかに悩んだ。逡巡していると、花たちの会話を聞いていたレイが口を開く。


「君は、人間に嫌われるのを恐れているのか?」


 遠慮も何もない言葉に、マリーゴールドは図星をつかれたように体を揺らした。


「っ……嫌われるのは怖いよ」

「自分が死ぬことよりか?」


 問いながら、レイは花を踏まないように花畑に座った。そして手前の花を「綺麗だな」と呟いて触れる。その横顔は、今まで一番柔らかい。

 けれど言葉は柔らかくなく、淡々と続けられた。


「花人によくある悩みの一つに、疎外感がある。人との違いを感じて、自分を異質に感じるが故の疎外感だ。だいたいのケースでは、人間とより深く関りを持った時に強く自覚する。それは親しい人間や、特別な関係にあった人間の死だったり離別だったり関係の悪化だったり。まぁ、色々あるが割合しよう」


 花人が人に憧れるのも、珍しいケースではない。なぜなら、花人は里の中では唯一の花人。他に花人が近くにいれば、疎外感など感じなかったかもしれない。


「この里では君は崇められ敬われ、慕われている。けれど皆、君を対等に見ることはなかっただろう。君は人に恋をして結ばれて「初めて対等の関係」というものを得た。そして失った」


 それはこの花人が無意識に欲していたもの。

 自分が花人ではなく「個」として受け入れられることを、特別扱いではなく対等の関係を。助け合い支えあい、相談もできて喧嘩もできて、笑いあえる関係を。たとえ自分が花人の役割を果たせなくても愛してくれる人を。

 言葉にされて、マリーゴールドは何も言えなかった。


「もし君が里を守り切れないと人間たちが思ったとき、君は居場所がなくなると思ったんだろう? 花守が突然君と距離を置いた時のように」


 この里ではアレに対処しきれない。けれど今のマリーゴールドでは力が及ばない。しかし里人は間違いなくそのうち花を頼る。

 期待に応えられないと分かっているからこそ、一人で戦う選択をしたのだろう。ひっそりと対処して、何事もなかったように過ごすしかなかったのだ。


「……怖かったのですか?」


 スイがじっ……とマリーゴールドの顔を見る。花人からはすっかり表情が消えていた。彼は答えの代わりに、一つ頷いた。

 里人たちのためという気持ちはあった。けれど、自分の恐怖もあった。最善でないと知りながら、自分で事を抱え込んだのだ。


「困ったな……全部バレてしまったよ」


 花人はそう言って顏を伏せた。そして深く息を吐く。落胆はない。むしろ暴かれたことに少しだけほっとしているように見えた。


「隠し続けるほうが辛いだろう。根本的な問題の解決には君の本音を聞いておきたかったから、無遠慮だったのは許してくれ」

「……不思議な人だね、キミは」

「ただの花人大好きな変人ですよ、この人は」


 マリーゴールドは「そうなの?」と思わず口にしてしまい、スイは「そうですよ」と返す。マリーゴールドには些かわかりにくかったのだろう。

 レイの行動の根源はいつだって「花人のため」なのだとスイは知っているからこそ、そう言えるだけの話だが。


「さて……あとは問題を片付けていくだけだな。スイ、準備をするぞ」

「はい、わかりました」


 言うなり、二人は立ち上がる。あっさりとしたその様子にマリーゴールドは困惑し、ろくに引き留めることも叶わぬまま去っていく二人の背中を呆然と見送った。

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