赤いガーベラはそこに咲く

佐伯 侑

第1話 タイトル未定

 吾輩は猫である。名前はまだない。

 かの偉大な小説家、夏目漱石が遺したこの小説は、荒唐無稽なように見えて、しかし意外にも重要な意味を孕んでいると思う。

 地上の絶対的な支配者である人間以外に、意志を持つ生物がいる。また、高い知性を持ち、独自の言語によって連携を図る。

 これは、人間の世界の支配権を脅かす事実であることに多くの者は気付かず、彼ら彼女らは退屈な日常を送っている。

 無論、猫は兵器など扱えないし、兵として団体行動をすることは無い。(群れを含むのならそれは是と言えるが)

 猫が人類に対してできることと言えばせいぜいが噛み付いて引っ掻いて、そして飼われることである。

 野生のたくましさや生存本能はどこへ行ってしまったのやら、と嘆きたくなるほどに今の飼い猫達は大人しい。

 車に轢かれて死ぬ猫が後を絶たない、という記事に対して人間の不始末や不注意を責める人は数多くいるが、一方で毎年数多の猫が人間に捨てられているのに、誰もそれを責めないという矛盾をも抱えている。

 直接的に殺すか間接的に殺すか。圧倒的に楽なのは後者だし、割合としてもはきっとそうだ。

 それは人間同士でも当てはまる。

 この世の中では、当たり前のように間接的に、そして簡潔に人を殺している。

 過剰に部下を叱り付ける上司、気が弱い同級生を虐めるいじめっ子、そして。

 結局これは咎められない殺人だ。

 今の完全犯罪は糸と氷でもアリバイトリックでもなく、社会的な殺人なのだ。

 人間が人を殺すのに道具は要らない。

 要るのはただ、心だけ。



 ────おい、おーきーろーよー!おーきーろー!あーまーねー!


 肩を揺さぶられる感覚と、自分の名前を呼ぶ女の子の声で僕は目を覚ました。

 どうやら授業中に眠ってしまってきたようだ。さては昨夜の徹夜が悪さしてるな、と睨みながら瞼をそっと開ける。

(睨みながら瞼を開けるとは随分と言い得て妙である。)

「やっと起きたわね、椿つばき君。いい加減に起きなさい?」

「あまねー!お前また寝てたな!ずるいぞ〜!私も寝たいー!」

 前者は女性教師(のはずだ)、イクタさん(仮名)。

(彼女は何故か、自分に関する情報の一切を頑なに明かしたがらないのである。もしかすると、教師というのも嘘かもしれない。)

 彼女はセーラー服を常に身に付けている。

 いい歳してセーラー服なんて恥ずかしくないんですか、と聞いたことがあるが、

 心はいつでも高校生なのさ、とはぐらかされてしまった。

 年齢くらいだいたい想像がつかないのか、と日々考えるのだけれど、彼女は、活発な少女のようにも、また若作りの婦人にも見え、判断に困ってしまう。生憎僕は人付き合いの多い方でないので、判断基準が少ないのも確かなのだが。

 けれどなんだかんだと面倒みのいい先生で、こうして授業中に寝ている僕のような生徒を起こしてくれたりする。

 そして後者は同級生の橘加蓮たちばな かれんである。

 同級生、というだけでなく、なんと幼馴染である。人の感情の機微に疎く、また他人と関わることをあまり得手としない僕と違って、彼女は運動が得意、友達が多い、気遣いができると3拍子揃った、まさに天に愛された少女である。

 察しのいい方は気づいたかもしれないが、ここは学校で、今は授業中だ。ちなみに教科は英語。

 島の学校には、ほとんど子供がいない。

 今だって、小学1年生から高校生まで含めても、学校にいる人数を数えるのに両手の指は要らない。

 この島は過疎化、そして高齢化が異様に進んでいるのだ。

 それこそ、ここだってあと何年学校としての体裁を保っていられるのかも分からないくらいに。

 もちろん大人達はそんなこと教えてくれないが──それはきっと僕達に負い目を感じさせないため、そして将来への不安を感じさせないための気遣いなのだろうが──もうこの歳になれば嫌でもわかってしまう。

 別に、僕が、そして僕らが大人よりも賢い、なんて思い上がるつもりは無い。実際、覆すことの出来ないほどの人生経験の差があるし、物事の判断基準や一般常識について、僕らはあまりに無知すぎる。


「わかった、わかった起きるから僕の首を絞めるのをやめろ、加蓮。」

 それこそ漫画のような表現だが、ぐへぇぇと悲鳴を漏らしつつ加蓮に頼んだ。

 運動が得意な彼女は力が強いのだ。それこそ、非力な僕の首などへし折ることが出来るくらいに。

「酷いね、あまねは。私にそんな力あるわけないじゃん。か弱い乙女をなんだと思っているんだか。」

 嘘だ。これでも一応男なんだぜ、僕は。

 それをいとも容易く純粋な力だけで押し勝ってくる女を乙女とは言わない。

「乙女って言うよりは猿の方がまだ近いじゃないか。自分の力考えたことあるかい?少なくとも僕よりは圧倒的に強いんだからね。

 ほら、前の握力測定幾つだった?」

 ちなみに僕は30程度だった、と正確さを期す為に告げておこう。

 えーっとね、と加蓮が考え込む。

「50?60?なんかそれくらいだったよ!

 前の英語のテストの点数よりおっきかったもん!」

 …。ツッコミどころは満載なのだが、あえて突っ込まない。

「こらそこ!起きたと思ったらまた遊んでる!乳くりあうのは休み時間にでもやってちょうだい。今は授業に集中!ね!」

 遂に言われてしまった。

 はーい、と元気いっぱいの返事をして加蓮がノートをとり始める。

 僕?僕はもちろん、眠さに耐えきれる訳もなく…。深い深い眠りへとその意識は誘われたのである。


 ※


 夢を見た。深い、深い夢を。

 僕は授業中、決まっていつも同じ夢を見る。

 僕は電車に揺られていた。

 5.6歳くらいだろうか、幼い頃の姿で。

 手には大きな玩具の袋、反対は、人混みで見えないが、女の人と手を繋いでいることは確かだ。

 これは僕の記憶から再現された電車だ。

 島に電車は走っていないし、何度も繰り返し見た夢だから瞬時に判断がつく。そして、決まって同じ結末に辿り着くのだ。

 これは、幼い頃、まだ本土にいた僕が、母に連れられて乗った電車。

 まだ幼かった僕を、母は県内では都会に当たるであろう場所のデパートに連れて行ってくれた、その帰り。

 最上階のレストランで、晩ご飯にハンバーグを食べたのが嬉しくて。新しいおもちゃを買って貰ったことに喜んで。とてもはしゃいでいた、電車の中。

 そう。この女性は、母だ。

 はぐれないようにね、と言われ

 母は突然姿を消した。

 思えば、最後に僕にいい思いをさせてあげよう、とデパートへ連れて行ってくのかもしれない。

 普段から家の中で毎日寝る間も惜しんで家事に勤しんでいた母は、幼い僕の目から見ても優しい人だった。

 母は、突然消えてしまったのだ。繋いでいたはずの手が、人混みの中でいつの間にか空っぽになって。

 驚いた僕は母の名前を呼び続けた。

 はぐれた、と気づいた時にはもう遅かった。

 お母さん、お母さんと呼びながら電車の中を必死に探し回った。けれど、そこに母さんの姿はなかった。母が、僕を残して消えた。その事実は幼い僕が受け止めるにはあまりに重い事実だった。

 終点に着いても降りず、ただ呆然と立ち尽くす幼い子供、つまるところ僕を見て、駅員さんが声をかけてくれたらしい。あまりにもショックだったのだろう、その辺の記憶はもはや曖昧だ。そして僕は。施設を転々とし、やがてこの島にやってきた。

 16歳。

 今でも、繋いでいた手を、忘れはしない。


 僕は夢の中の幼い僕となり、母が手を離さないようにと必死になって話しかける。

 当然、握る手にも自然と力が入る。

『次は──』

 次に止まる駅名を、車掌が告げる。

 毎回、このアナウンスが響いた後すぐに母は消えてしまう。必死になって、そして見逃さないようにと気をつけるのだが、気がつくと必ず母はいない。

 ごめんね、という声がかすかに耳に届く刹那。決まって僕は泣いてしまうのだ。

 人前で。情けなく。大声を上げて泣いてしまう。

 だが今回は、そうはならなかった。


「君はまたここに居るのか。いつまでも過去を追想するのは良くない。君の成長に、悪影響を与えてしまうからね。だから、もうここに来てはならないよ。」


 母ではなかった。僕が手を繋いでいた、その相手は。確かに手の温もりは母のはずなのに。毎日毎日見る夢では、ここでお別れする相手は、母だ。

 なのに。なのに。


「お、お前は誰だ!」


 僕は叫ぶ。当然だ。この突然の来訪者に対して危機意識を持たないはずがない。

 第一、夢というのは夢を見ているその人の記憶を改竄したり、過去を思い出したりしたものだ。しかし、僕はこの女性を見たことがない。

 落ち着いた綺麗な声に、長く若干緑の交じった麻色の髪。

 深い笑みを湛えた目元。

 少しだけいたずらっぽく歪んだ唇。

 鼻筋の通った、こんな美人を一目でも見たことがあったのなら決して忘れることは無いだろう。

「おや、私が誰かって?あの子から聞いていないのかい。でも今は、そのうちわかるさ、ということで。」

 彼女は握っていた僕の手をパッと離した。

 夢の中だと言うのに、僕の手は、汗でとても湿っていた。

 咄嗟に、彼女が危害を加えて来るのかと身構えたが、決してそんなことは無かった。

 彼女はただ、僕の方に歩み寄り、そして。

 僕の顎をにゅっと細長く白い指で、クイッと持ち上げた。

「今の君は幼い姿だからね、まだ君を捕まえるのはやめにしておこう。だから、現実でまた会うのが楽しみだ。きっと、美人に成長しているのだろうね。」

 そして言葉を切る。

「私は君に警告しに来たんだ。それさえ済めば、すぐに失礼するよ。

 それじゃあ、本題だ。

 与太話や世間話なんていくらでもしたいのだけれど、生憎今は切迫した状況なのでね。

 くれぐれも、もうここには来ないように。今回は私が来てあげられたけれど、次はもうないからね。死にたくなければやめておけ、というやつさ。

 今君に詳しく言ってあげることは出来ないが、君は相当まずい状況に置かれているということをくれぐれも忘れちゃダメだぞ。」

 彼女は謎めいたことをいくつも喋っている。

 死ぬ?まずい状況?僕はただ、授業中に居眠りをして夢を見ているだけじゃないか。夢を見て死んだ人なんて、聞いたことがない。

「じゃあ聞くけど君、

 少なくとも常人にとっては、一週間同じ夢を見続けることですら異常なのさ。」

 何も、言えなかった。ただ、彼女の言うことは全て正しいということだけが僕の頭を埋めつくした。

 なんとか彼女を否定しようと僕は叫ぶ。

「だけど!だけど僕は!」

「そうそう、その話なんだけど。」

 地獄の裁判官のように、とでも言えばいいのだろうか。酷く冷酷に、彼女は告げる。

 いや、この例えは少し違うかもしれない。

 それは彼女が少し楽しげに笑っているから。

 口元で笑いながら、彼女は、酷く冷たい視線をこちらに浴びせてくる。

 刺すような視線に、思わずたじろぐ。

 そして。


「君がいくら自分を『僕』と呼んでも、でも構わない。そんなことは私に口出ししていい範疇を越しているからね。だけど。」

 僕を。いや、全て射抜くような視線で彼女は見据える。

 目を合わせるどころか、彼女の姿を見ることすら今はできない。

男?ふざけるな。どう見ても女だろう。スカート履いて、髪をゴムで留めて。爪にはマニキュアだって塗ってある。そんな君が男なわけないだろう。」

 今までずっと静かだった声を、彼女は邂逅して初めて荒らげた。

「自分の姿をちゃんと捉えなさい!嘘をつき続けて何になる!ただ虚しいだけじゃないか!私は。私は君に…まだ居なくなって欲しくないんだよ…」

 今までの調子が嘘のように彼女の声は少し寂しげになる。

 感情の移り変わりの激しさに少し戸惑ってしまうが、そもそも初対面のはずだ。

 だが、それと同時に、どこかすとん、と落ちるところがあった。

 きっと現実で「僕」と会ったことがあるのだ、この人は。どころか、親密な関係だったのだろう、きっと。それは施設でのことかもしれないし、島に来てからかもしれない。親しかった人間は、何人か顔を思い浮かべることはできる。彼女と同じ人物と思える人間はいなかったが。

 初めて会った瞬間から、彼女に、どこか懐かしいような感情を抱いたのだ。

 初対面の相手を前にして、──もちろん手を繋いでいた状況のせいもあるが──、一目散に逃げたりはしなかったのはそれが理由だ。

「僕」のことを、そして秘密を知っていたのは、果たして。


「おっと、取り乱してしまったね。すまない。勝手に現れて勝手に感情を顕にされても君としては戸惑うだけだろうしね。それではこの辺でお暇するよ。」

 そして、今までで飛びっきりの笑みを浮かべてこういうのだ。



「良い夢を」

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