六話 阿羅々木入朝す

 夜、阿羅々木はじぶんの部屋に着くと、冠を脱ぎ捨てるなり大息をついたので、針仕事をしていた胡蝶が手を止めて怪しんで問うには

「どうされたのです。もしや天子はお取り立てになりませぬか」

すると帯を解いて礼服を脱ぎながら投げやりに言う。

「否、推挙はされた」

「解りませぬ。それならどうしてお喜びになりませぬか」

かくてすっかり寝巻きに着替えると、置き畳に腰掛けて、煩わしそうに頭を掻きながら

「従書令だ。見立てでは省次官ぐらいにはなれたと思うたに、まったくの見当違いであったわ。天子や百官はまだお疑いなのだ」

そう言うと本を読み始めたので、胡蝶は呆れかえり、小さくため息をつくと再び針仕事を始めた。

 三日ののち、阿羅々木は朝廷から賜った官服を召して華瑞宮に入ると、広い城内をぶらぶら歩いていたが、門の近くにたまたま衛兵を見つけると、いそぎ近づいてこう尋ねた。

「そこの方。つかぬ事をきくようだが、侍中令府はどこであろう」

すると門番は、阿羅々木の頭上から足先までをまじまじと見てから一言、

「女人が官服を着て侍中令府に用があるとは、明日は天地がひっくり返るかもわからんね」

阿羅々木は笑いながらおのれの身分を名乗った。

「門番どの、これは失敬な。私はこのたび詔にて推挙された、従書令の結城と申すもの。さあ早く、侍中令府の場所を教えてくれるがよい」

それを聞いた門番は、はいはいと言いつつも怪訝そうに道を案内し、建物の前に着くと礼を言って別れたが、その後も、いまの話、まったくにわかには信じ難いというように、戈の先っぽを引きずってのろのろと門の番に戻っていった。

 阿羅々木は開かれた戸の前で、勿体ぶって着物をととのえ冠をただし、ひとつ咳をして、それからようやく府舎に入ると、その瞬間人のざわめきはふっと消え、役人らみなその方を見やり、いぶかしげな色を向けたが、それにはまったく構わず、かれらの真ん中を堂々と歩いて空席に着くと、やっと一人のものが声をあげて問うには、

「女、そなた何者かね。ふつう女官は宮中府にいるものだが。案内して進ぜようか」

 するとまっすぐそちらを見て、凛然とした声色で姓名を答えたのち、軽く笑いながら

「なかなか侮ってくれるな。今日より、私も足下と同じ従書令だ。ゆえにここにいる」

「何を言い出すかと思えば、いやはや聞いて呆れたわ。大言壮語もいい加減にせぬか」

 人々、みな手を打って高笑いすると、阿羅々木もそれを合わせて笑い声をたてる。そうして盛り上がりがおさまると再び口を開いた。

「この阿羅々木不才ながら、少なくともこの程度の仕事は足下らと同等にこなせると存ずる。まあひとまずはご覧なされい」

 かくするうちに朝議の鐘が鳴り、かれらもぞろぞろと外に出て行った。

 さても太殿には文武の官が居ならび、みかど御簾のかげより出でし給えば、場の空気は凜々と厳粛にして、臣下ども一斉にひれ伏し万歳を三唱した。阿羅々木も深々と礼をし、冠の紐をただすと筆を取った。大臣たちの評議が進むなか、従書令たちは全てそれを記していく。

 この男、関馮かんひょうも紙にことばを記しながら、はたして隣に座っている女、大口を叩いてはいたが、本当に仕事をこなせるものかと横を見やれば、阿羅々木は真っ直ぐに座して威風は堂々、すこぶる落ち着き払い、真剣な目で一心に筆を走らせている。少し覗くと、その内容も一分として狂いのないものであったから、心中驚きあきれ、じぶんの筆を半ば放って茫然とその様を見ていたのであった。

 朝議が終わると、従書令は再び府舎に戻って、その日の議事録を編集するのが常である。みなそれに倣い、机上に各々の取った覚書を持ち寄る。

 最後に、阿羅々木も泰然として、手に持った紙を机の上に広げた。一同、先の関馮と同じように驚きの色を隠せぬ。そこには麗筆が並び、内容にも一字一句誤りが認められない。阿羅々木はみなに笑って呼びかけるよう、

「私は今日初めて配属された素人ゆえ、この後にどうするのかを知らぬ。方々、この覚書を広げて、なにを致すのかね」

 すると関馮は我に返って、

「これから、今日の議事録を作成するのだ。これらを全てまとめて、もう一度文にして書き直す」

 阿羅々木は成る程と言うと、みなに先立って筆を執る。官人らと言葉を交えながら、はじめての仕事でありながら進んで仲間を統率する姿勢に、関馮は内心大いに感じ入っていた。

 かくて、その日の仕事は、いつもよりも早い時間に終えることができたのである。


 さても関馮のあざなは子凱しがい、出身は延州えんしゅう鎮輪ちんりん江野村こうやそんであった。若き日に官挙に合格してから従書令を務めること八年、今日此処でのかの女との出会いが、この者の人生を大きく狂わせたと言うことは、まったく当人の知るよしもない。

「これはこれは、関馮殿ではごさらぬか」

 後ろから鋭い女の声が飛んできたかと思い振り向けば、阿羅々木が手を組んでやって来るのが見えた。関馮も急ぎ駆け寄り、両人一礼を済ますと

「これはこれは阿羅々木殿、いかがなされたか」

 阿羅々木は笑いながら言うに、

「これと言って特に用はござらぬが、貴殿のご都合が宜しければ共に酒でも酌み交わしたく存ずる」

 関馮は些か奇異に思って問う、

「ほう、それは如何にして」

「貴殿の山中に煌く一塊の金剛石の如きその素質、この阿羅々木買い申した」

 全くこの女、突然こんなこと言い出してますます訳が分からないというように眉を潜めていれば、気に留めぬ様子でまた大口を開けて何か言う。

「まあまあ、後にゆっくり語らいましょうぞ。貴殿の御宅、美酒はおありかな」

「ええ」

 関馮はこのいきなり声をかけてきて人家に上がって酒が飲みたいなどと吐かす阿羅々木を、なかなか図々しいと思いつつも、先程の様子を見ているとこの女やはり只者に非ず、きっと何か考えがあるのだろうと踏んで、その申し出を了承した。

 「ははあ、これは大層な御邸宅ですな」

 遊女上がりの阿羅々木は官吏の住む立派な宅にすこぶる感じ入った様子で、その建物の威風堂々たる構えから門に施された細かな彫刻、宵口の庭に赫と灯る灯篭から、隣に構えられた小さな池も、様々な箇所を見ては感嘆の声を漏らしている。関馮ため息をついてその様子を見、建造した風に言うには、

「なに、それ程でもござらぬ。張宰相や李左大臣などの大城に比べれば拙宅など吹けば飛ぶあばら屋」

話中にある二人の人名に反応した阿羅々木は些か感奮したようで、口早に質問を返す、

「張宰相も李左大臣もこの阿羅々木を天子に推挙してくださったお方ではないか。私とてお二方の強い推薦はとても有り難かったが、対して他の官吏達はほとんどそれに異を唱えていたであろう。あの方々がどういう人となりか、関馮どのは存じておられるかな」

関馮は灯りのともった薄暗い屋敷へ入り、阿羅々木を座敷に案内したのち、側に控える侍女に手招きして酒を持ってこさせた。

「貴殿お望みの美酒でござる」

「では失礼して」

侍女が酒を注ぐや否や、ぐいと飲み干す阿羅々木を軽く一瞥して、関馮も盃片手に、徐ろに先ほどの問いに対する回答を段々この様に述べる。

「左大臣は誠に変わった方じゃ。変わったといえば阿羅々木どの、貴殿も中々に奇抜な方だが……ああ、別に深い意はござらぬ。それとも性質が違う」

「して、どのように」

阿羅々木は盃を忙しなく口に運びながら相槌を打つ。関馮の評するには、

「まず李左大臣だが、あのお方は非常に聡明な方じゃ。範州の農民の出だが二十歳の頃官挙に合格し、以来様々な策を打ち出しておる。それがし思うに、今この朝廷で一番優れた才のある方であろう」

「そのご説、私も大いに同感でござる。以前に遊郭で政を論じた時とて、実に話の早い大臣殿であった」

かれに対する一通り好評を一聴し、しきりに頷く阿羅々木を見てからからとうち笑う関馮、

「阿羅々木どの、されど李左大臣にはそれと同じくらいの問題もござるゆえ、油断はなされるな」

声を潜め、にやと笑って続けて曰く、

「あの方の最大の欠点といえば、女好きでござろう」

「女好きとな」

関馮は素っ頓狂な声を出す阿羅々木を慌てて諫め、笑いを堪え堪えまた話すには、

「左様。李家に侍る側室の数をご存知か。聞くところによると三十。否、四十と申す者もおる程ですぞ。とかく好色な方ゆえ、若く妙齢の女を見つけるや否や声を掛けそのまま娶ってしまうのでござる」

まことで、と大笑いする阿羅々木に関馮、

「故に阿羅々木どの、貴殿もお気をつけなされ。そなた女子であるし、若い故」

「それはのうござる。わざわざのご心配感謝致しまする」

阿羅々木がますます呵呵大笑しているうちに、関馮は侍女になにやら告げると、間も無くして紅の衣に着飾った舞子が三人、鼓と胡弓を持った奏者も一人ずつ、二人の目の前に軽やかに駆けてきた。阿羅々木ははたと目を見張りまたも感嘆をする。始めの合図が降るや否や、若き処女おとめの玲瓏たる歌声、甘美な楽器の音屋敷に響き、妖艶な舞、部屋の灯りにゆらりと揺れる影、紅の衣が翻るたびに匂う仄かな薫香にすっかり酔心していた阿羅々木に関馮は声を掛ける。

「女人を接待したことがない故、そなたがかようなものに興味があるかは存ぜぬが、華風の舞はお好きかな」

「まったく素晴らしゅうござる。天女かと見まごうほどの美しさ、感服仕った。私とて女と言えど、かような舞には素直に情が動くというものです」

それは良かったと微笑む関馮、かれはがんらい謙虚な人柄故、また謙遜して言うには、

「さりとて張催宰相どのの召し抱える舞子たちにも及びますまい」

「なんと、しからば張宰相はどういうお方かな」

身を乗り出す阿羅々木に酒を勧め、

「張宰相が己を評して曰くには、『わしは金も女も好かぬ、酒と風流だけを愛する男じゃ』と。それがしもその説にはまったく同意致すが、まずあの方の庭には大きな池があってそこに金や銀や紅色の鯉が泳いでおる。池の中に据え置かれた巨石は晋州洞順の龍麟湖の水底にあるものをわざわざ運んできた物だとか。それからその隣に松の木が植わっていて、家の中はとかく酒壺と書で埋め尽くされておる。朝儀が済むと邸宅に帰り、その庭を眺めながら詩を作るのが楽しみであると申しておられた」

「さほどに嘯風弄月たるお方とは知らなんだ」

阿羅々木は張催の人となりに些か関心したふうであった。

「いかにも。その張宰相の召し抱える舞姫たちじゃ、どれほどのものか想像もつくまい。それがしとて一度、新年の宴で張家を尋ねた時にしか見たことが無いが、宰相はあまり人と交わらぬ方ゆえ仕方はあるまいな」

かくして二人で語らううちに、門の方から子凱、子凱としきりに関馮のあざなを呼ぶ声がする。何かと思えばやにわに舞子たちを押し除けて、剣を履いた身の丈六尺二寸ほどのむさ苦しい男が一人現れた。

 果たしてこの大男、どのような身の上の、いったい何人であろうか。

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