一章 廓内臥龍

三話 籠の鳴禽

 天子のお膝元、華都の郊外に戯楽亭ぎらくていという遊郭があるが、ここに今年二十四になる阿羅々木あららぎという一人の遊女がいた。この女の姓は結城ゆうきといい、もとよりここ洛州から五百里ほど北の、蔡州さいしゅう宋魯そうろの人であった。十五の時に学を志して都に赴いたが書を買う金もなく、止む無くして遊郭に引き取られそこで暮らしていた。

 しかしこの女はがんらい驕傲な性分で、史書や文学、さらには兵法にも精通するのを心の底では鼻にかけており、自分はここで終わる器ではないと思っている上に、廓に出入りする客を内心では歴史上の愚人になぞらえて軽侮の目で見るのを日々の愉しみとするのであった。故に、客からの人気というのはないに等しく、負け惜しみに「鳴禽のさえずる漆の籠で、どうして竜を飼えようか」などと口走ってはひねもす読書に明け暮れていた。

 「阿羅々木様、お客が参られました。張催様と名乗られてございます」

阿羅々木は月明かりと行燈の光で本を読んでいたが、銅鏡越しに禿かむろ胡蝶こちょうが部屋の戸の近くで呼んでいるのをを見ると、振り返って言った。

「張催と言えばあの宰相ではないか」

「ええ」

阿羅々木はからからと笑って、

「なかなか変人奇人だとは噂で聴いてはいたが、この私を指名するとは、女の趣味も悪いのか。しからば参ろう。胡蝶、酒の用意を」

 遊郭のある一室で、床に据え置かれた畳に座って、机の上の香炉の灰屑を弄りながら、物珍しそうにあたりを見回して、遊女を待つ客があった。いくつかの行燈に照らされた薄暗いその部屋には、前述の通り香が焚かれ、手前には客の座っている卓が、奥の方には簾の掛かった立派な寝台がある。窓からは煌々たる満月と涼しげな夜風が吹き、何処からか侍女の弾く笛や琴の音も聞こえる。さてもその客と言うのは、すっかり白くなった一尺五寸の髭を蓄えた、あの張催であった。あれ以来二十年が経ち、官職は宰相、官位は一品、更には洛州牧らくしゅうぼくも兼任しており、皇帝からの信頼も人一倍厚くなっていた。しかるに、元来この男は偏屈な変わり者で、酒と音楽と書物はこよなく愛するが、他人のことに興味はないゆえに人付き合いも悪く、当然女というものに対する興味や好奇心の類も殆どなかったので、妻は全部でたったの二人、今年六十になるまで遊郭にも行った事がなかった。では何故今日になって、わざわざ戯楽亭に足を運んだのかと言うと、他でもない、この阿羅々木が目当てなのであった。

 「張催様、お呼びでござりまするか」

ややあって阿羅々木が部屋に入ってきたので、張催は行燈に照らされたその姿を見上げた。

「其方が噂に聞く結城阿羅々木かね」

「如何にも。結城阿羅々木と申しまする」

ひざまづいて礼をしたのち、顔を上げたところを見ればその女、首元で揃えて切った髪に、赤い彼岸花の髪飾りを付けて、目は細く蛇のよう、鼻鋭く、唇薄く、浅黒い肌に化粧も薄く、朱の着物を着ているが、その遊女らしからぬ言葉づかいや、風采上がらぬ様に些か落胆した。

「阿羅々木よ、そなたは女ながらにしてなかなか博識だと噂になっておるそうだな」

「はて、よくは存じ上げませなんだ」

この阿羅々木にはいくつもの悪癖があったが、その多くが傲慢さと知識ゆえであった。うちの一つに、廓を訪ねてきて己を見くびる客たちを、史書や偉人の金言格言を引用して度々言い破るというのがあったので、阿羅々木という女は博識で普通の男は知恵比べでは到底叶わぬ上に、それを鼻にかけて傲慢で毒を吐くから近寄らない方がいい、と噂が広まっていた。しかしながらこの奇人張催は、それを聞きつけ、果たしていかほどのものかと、気まぐれな興味本位でふらりとやって来たのである。

「わしはそれで、そなたと歴史や政や、さまざまな事について、語り合いたいと思い参った次第」

阿羅々木ははてと目を見張った。これまで自分のもとに来たものは、全て自分を一介の娼婦としか見ておらず、玉を石くれにと見間違えるので、この街は愚人ばかりだと嘲笑していたのだが、どうやらこの老人は、自分を一人前の論客として扱うらしいので、なかなか侮れぬ。そう思って深々と礼をして、

「されば是非とも語らいましょうや。私も不才の身ですが、古今東西、あらかたの書は読んでございます」

 かくして二人は歴史や政を話題に、酒を酌み交わして大いに論じた。その話はおおよそ、浮世に蔓延る諸問題から、四千年前の建国神話にまで及んだが、その一片にこんな話があった。

「政の要といえば、多くの文武百官は天子の徳とこたえるが、そなたは何を思い浮かべるかね」

「私が思いまするに、政の要は君主にあらず。下に控える能臣や強将、そしてなにより民にござります」

張催はそれを聞くと、面白そうに目を見張って更に問う。

「何故そう思われる」

すると阿羅々木は喜んで答える。

「蔡祖の聚光帝じゅこうていは賢人探訪によって、文に程譲ていじょう淳于梁じゅんうりょう、武には盧渓ろけい朱蒙しゅもうを従え、勢いは天に昇る龍の如く、わずか十八年で六州を平定し、蔡朝を建てられました。その後天下太平の世になると、まず民心を掴むため、租税を軽減し、法を整え、よく行幸に赴かれたと蔡国史にはありまする」

さらに続けて言うに、

「蔡祖ばかりではござらぬ、ろく関寿帝かんじゅていも、の高祖武徳帝ぶとくていも、名君たるもの皆、国を治むるは即ち民心の掌握と言葉を残しておりまする。さらに歴史に鑑みてみれば、太平の世が終わり、国がすさみ乱れる時は全て、上は皇帝が怠惰を極め、愚臣が朝廷に専横し、下は民が困窮し心乱れるもの」

そしてこう結んだ。

「兵無くして軍にあらず、民無くして国にあらず。天子はただ一人、されど民は何億とござりますれば、その民を裏切っては太平の世は続きますまい。逆に皇帝が諸侯や民に尽くせば、自然とその心は天子に集まりましょう」

また、仮に自分が天子や宰相であったら、今の世をどうして治めるべきかという話になった折は、

「今は天下太平の世ゆえ、先程申し述べたように天子は、常に自らの尊厳を保つべく、州牧や郡令などの諸侯らを支配し服従させ、また民の暮らしを根底に考える事は必定でござります。皇帝たる者、臣下を頼りにはすれど依存はせず、良き臣下を用いて民に恩恵を与え、徳によってその権威を示すべきかと存じまする。すなわち国境沿いの蛮族討伐や、何年か置きにやって来る飛蝗や干ばつ、洪水などの対策をして内患を解消し、そしてよく徴税をして国を富ませ、法を整え公正に罪を罰すること。このうち、今の国勢を鑑みるに、最も急がれるのは蛮族討伐でござろう」

「して、何ゆえ」

「我が国を囲む主な蛮族は三つ。すなわち北域の薭烏ひう、西域の胡暸こりょうと、南域の赫蝉かくせん。このうち赫蝉は隼州せいしゅうに近く、凱胡郡がいこぐんなどは度々土地を攻められていると聞きまする。また我が臣国の斉勲チェグンは、破竹の勢いで勢力を拡大する薭烏の為に、兵馬百万を要して戦いの最中だとか。これらの族を放っておかれますのは、手足の怪我を無視するのと同じでござりますが、天子の詔のもと官軍を差し向け討伐するというのは、民の暮らしを守ると同時に皇帝の威厳を示す機会にもなりますれば、彼らはその恩恵にいたみいり、今後よく国のために働きましょう。これぞ関寿帝の言葉にある、『以人随民、以義用兵(仁を以て民を随え、義を以て兵を用うる)』ということ」

と澱みなく答える。張催は阿羅々木の知識深く、弁舌さわやかで、見識明らかなのに大いに感心して、

「のう阿羅々木、そなたは女だが、一体どこで歴史や文学を学んだのかね。左様なまでに奥深い知識、一介の町娘なんどは到底知り得まい」

すると阿羅々木は少し引き下がると、軽く頭を下げてこう答える。

「は、もとより私は、望んで遊女になったわけではござりませぬ。わが故郷は蔡州宋魯にて、十五の頃に立身出世を志して都に上って来ましたが、金がないのでやむなくここに引き取られた次第。それで、働きながらも学を修めたく、書を読んでいるのでござります」

「して、その立身出世というのは」

張催が身を乗り出して聞けば、また阿羅々木は答えて、

「願わくば、功を挙げ官爵を拝命し、天子にお仕えしたく存じまする」

それを聞いた張催は、阿羅々木がぞんがい大真面目なのに、しばらくの間大笑したのち言うには、

「戯言はよさぬか。そなたのようなおなごが、どうして官吏になれよう」

すると阿羅々木は笑って

「禄の綾明りょうめい帝は女ながらにして国を治めておりますれば、私が官吏になってもおかしくはありますまい。そもそも役人選用試験の官挙とは、出自の貴賎関係なくその人物の裁量や知識を量るものにて、性別などがなんの問題になりましょうや」

張催は、なるほど、この女は傲慢で細やかさはないが、その度量は男の如く、気性は大胆にして豪快、まさに大事をも成せるまさに逸群の才だとますます敬服した。

「そなたは実に怖いもの知らずで、まるで男のような事を考える。かようなおなごは始めてじゃ」

すると阿羅々木、それを聞いて大いに喜び、からからと笑って答える、

「せっかく天から授かったこの人生、たかが雌雄で無駄にするのは勿体のうござる」

またも張催はそれを聞いて、まこと面白い奴じゃとうち笑う。

 その後も二人は大いに語り合ったが、その内容は多岐に渡り、例を挙げればきりがない。ふと気がついて窓の外を見れば、もう東の空が白んでいたので、張催はびっくりして付きの者に何時かと問えば、今は寅の刻だと言う。

「はて、もうこんな時間か。まったく気づかなんだ。そなたの話は千金や美酒にも勝るな、実に楽しかった」

「此方こそ、まこと楽しゅうござりました」

急ぎ荷物を整えて廓を出る際に、張催が挨拶すると、阿羅々木もにこやかに微笑み返した。それはいつもの客を送り返す時の嘲笑ではなく、まことの本心からのものであった。ふと阿羅々木は思い立ち、遊女になってはじめて、帯に挟んでいた短い朱羅宇の煙管を抜くと、それを張催に差し渡した。

「何故煙管を寄こすのじゃ」

張催が不思議そうな顔をして聞くので、阿羅々木は答えて

「遊郭では、遊女が気に入った客に、自分の煙管を渡すという慣例がござります」

「わしはそなたに気に入られたか。しからばこれは受け取っておこうぞ」

張催はなるほどと笑ってそれを受け取り、大いに満悦した様子でこう言った。

「ああそれから、官爵の一件、百官らと今一度よく考えて見るとしよう」

阿羅々木は手を組んで礼を述べたが、まさか本当に自分を推挙などするまい、百官たちが反発するはずだから、大人しく二年後の官挙試験を受けようと、内心あてにはしていなかった。

かくて張催を乗せた馬車はようよう朝焼けに染まった街を走り、邸宅のある玄武大路へと引っ返していった。

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