第19話

「寝ちゃってる」

「ぐっすり寝てるなぁ」


 たまたま同時に帰宅した誠司せいじ柚美ゆみは、ソファにぐったりと眠る海威かい幸彩さちをうっとりと見つめる。疲れて帰ってきた誠司と柚美だったが、自然と口元が綻んでいた。


「食べよっか」

「あぁ」


 海威が作り置きした塩麻婆豆腐を冷蔵庫から取り出す。そして、電子レンジに移動させると、パチパチと音を立てて温まり始めた。


「美味しい〜」

「やっぱり海威の料理が一番だな」


 誠司は懐かしむように、笑顔で海威の方へと顔を向ける。海威がいなかった間は、毎日のように出前を頼んでいた。家でゆっくりと食事ができる、それは誠司にとって何よりの喜びである。そして、柚美にとっても、息子の手料理が食べられるのは嬉しいものだった。



 海威が目を覚ますと首筋に痛みを感じる。寝違えたそう首を傾げて、ソファから身体を起こす。彼がカーテンを開けると、まだ外は真っ暗だった。幸彩はソファから落ちて、地面に転がって熟睡している。

 ソファに持ち上げようと考えた海威だったが、自分のように身体を悪くしてもいけないと考える。海威は首を傾げると、ゴキっと音ともに痛みが訪れた。


「まったく……仕方ないなぁ」


 海威は彼女を背中になんと背負った。人の重さを知らない海威からすると、小柄でスタイルが抜群の幸彩でさえも重く感じてしまう。何度も息をつきながら、海威は廊下に足を進める。


「ちょ……!」


 幸彩は眠ったまま、抱き枕に抱きつくように海威に手と足をしっかりと絡ませた。運やすいと同時に、海威が背中に感じるのは、妙な気分になってしまう違和感だ。海威は気をつけながら、階段をゆっくりと上がっていく。

 二条家の二階には、誠司と柚美の寝室、誠司の書斎、海威の部屋、そして幸彩の部屋がある。誠司と柚美、そしてもちろん幸彩を起こさないためにも、バランスをとって、一段一段上がっていくのだ。


「き、きつい……」


 海威は息を荒げ、つい声に出てしまう。ハァハァと一段、また一段と上がっていくと、ようやく二階に到着した。その場で膝を曲げると、ぐったりと海威は一息をおく。自分もまだ寝ていたいのに、そう思いながらも、また身体を起こすと、幸彩を背負い直した。



 そうして、海威はようやく幸彩の部屋に到着する。扉の取手をひねると、足で力強く蹴る。開いた部屋には、女の子らしい雰囲気と良い香りが充満していた。幸彩が来る前まではもぬけの殻だった一室がしっかりと幸彩のものになっている。家族になったんだなと、海威はしんみりと実感した。

 ベッドまであと少し。そう海威は最後の力を振り絞ると、ベッドに振り飛ばすように、身体を捻って幸彩を肩から落とす。すると、幸彩に抱きつかれたままの身体で、海威は一緒にベッドに倒れ込んでしまった。


「離せよ!」


 海威は小声で言いながらも、手足を振り解こうとする。しかし、手を離したかと思うと足で、足を離したかと思うと手で、海威を動かさまいとするのだ。海威は抵抗するのに疲れ、そのまま幸彩のベッドに寝込んでしまった。



「んぅ……」


 幸彩は目を微かに開けながら、ふかふかのベッドにいることに気がつく。そして、同時に目の前に海威の背中があることもだ。


「えぇ、なに!」


 幸彩は驚いて、距離を取ろうとしたが、右腕に寝転んだ海威の重い身体がのしかかる。右腕にはほとんど感覚を感じないほどであった。スマホをとって時間を確認しようにも、動けないに加えて、一階に置きっぱなしだったのだ。カーテンも閉まっているが、日光が射し込んでくる様子は見えない。まだ朝早いのかと思うが、幸彩はもう起きてしまいたい気分だった。

 それでも海威はぐぅすかと眠っている。せっかく運んできてくれた海威を叩き起こす気分にはなれない幸彩。彼女はそのまま、大きく綺麗な瞳をゆっくりと閉じた。



「や、ヤバイ」


 海威は飛び起きるようにして目を覚ます。幸彩のベッドで寝てしまっていたことをなんとなく思い出すが、幸彩はまぶたを閉じて眠っている様子だった。それ以上に、海威が焦っていたのは朝ごはんの準備についてだった。幸彩をベッドにしっかりと寝かせると、駆け足に幸彩の部屋を出る。そして、音を立てないように、ただ慌てながらも、階段を降りていった。


「まだ大丈夫だったか」


 海威が出ていくと、幸彩はそっと目を開く。そして、ピリピリと痺れた右腕に違和感を覚えながらも、必死な海威の姿を思い出していた。夏休みに入ってからということもの、幸彩は毎晩のようにアメリカの友人や太輔と電話をする。そして、夜更かししたら、起きるのは昼間であることもザラだった。

 しかし、そんな彼女にも、毎日朝食が準備されている。目玉焼きとトースト、そしてソーセージ。ありきたりな洋食のブレックファーストだったが味気ないシリアルよりもそそるものがあった。


「お、お兄ちゃん……」


 彼女はボソッと呟いたが、言った途端に口をつぐんだ。自分で言っていて恥ずかしい。しかし、自分の知らないところで頑張る海威の姿は、これが兄なのかとどこか、心に刺さるものがあった。



 その頃、海威は急いで、パンをトースターに、そしてフライパンを温めて、卵を冷蔵庫から取り出す。海威が部屋の時計を確認すると六時十分前だった。父の誠司が起きるのは六時である。毎日、朝食を作っていることから感覚的に不味いことを察知したのだ。

 海威の朝は忙しい。寝坊をしたとなれば、尚更である。


「起こしに行かなきゃ!」


 慌てる海威は思っていることを声に出すと、とんとんと調子良く階段を上がり、柚美と誠司の寝室へ。柚美を起こさないように声を抑えながらも、誠司の体を揺すって起きるように促した。


「か、海威。おはよう……もうちょっとだけ」

「お父さん、早く起きて!」


 項垂れる誠司に何度も根気強く声をかけると、ようやく誠司がゆっくりと疲れがとれきれていない体を起こした。そして、誠司が準備をしている間に、また朝食に戻る。目玉焼きとウィンナーを焼き始めて、お皿にトーストと盛り付ければ完璧だ。

 お弁当を作らなくて良いのは唯一の助け。海威はそんなことをしみじみと考えながら、父が食卓につくと朝ごはんを食べ始めた。



 今まで通りの当たり前の日常。それはもう海威の前にはなかった。

 寝坊することも、幸彩の部屋で寝てしまうことも、柚美に気を遣って誠司を起こすのも、何もかもが新鮮なのだ。こんな家族も悪くない、海威の表情は無意識ながらも柔らかい笑顔になっていた。

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