我らが九龍城、坂の上

東屋猫人(元:附木)

我らが九龍城、坂の上

 僕らの通学路の途中には木造だけど3階建て、形も出っ張ったり引っ込んだりいびつな家があった。建築学を学ぶ友人なんかはその個性的過ぎる屋敷を、けしからんなどと言って憤慨しながらみていたものだけど僕は——現代美術を専攻している——実にいい建築物だと思っていた。


なんと複雑怪奇、二つとない家なのだろう。そもそもこの建築物は家なのか。何人が住んでいるのだろうか。全く想像がつかないそのマジックボックスに言いようもないほどの興味をそそられたものだ。しかし一般宅(多分)にずけずけとお邪魔するわけにも行くまい。僕は指を加えて前を通りすぎるだけの日々だった。


「頼む、俺と一緒に九龍城へ行ってくれ!」


そう頼まれたのはじっとりと湿度のたかい夕暮れ時だった。小雨がふり、なんとも重っくるしい。


「あんなにけしからんって言っていたのに。どうしたの。それにあそこは一般住宅じゃないのかい、アポイントメントは取っているの」

「アポイントメントなんか取っちゃいないよ。電話番号なんか知らないんだ。それはそうと、教授からの課題なのさ。」

「なんだって教授が君に九龍城へ行けなんていうんだい。罰ゲームなんてする人でもなかろうに」

「いやぁ、課題の提出日を間違えてさぁ、どうにかして単位をおくれと頼み込んだら今日九龍城に行って間取りをスケッチしてこれたのならくれてやると言われたのさ」

「あきれた。身から出たさびだね」

「君、あの九龍城に興味があったろう。後生だから一緒に訪ねてくれないか」


手を合わせて頼み込んでくる友人に同情も呆れもしたが、その前にあの九龍城へ入れるという関心がむくむくと育ってきた。しかしここではいと請け負っていてはこの男のためにはなるまい。どうしたものかと悩んでいると


「後生だよ。もう課題の期限を間違えるなんてことは控えるからさ。な」


そう頼み込んでくる。腰を低く、低くして頼み込んで来るのを、これでは断れまい。仕方ない、という風を装って了承したのだった。


——そして、今この場に至るのだ。

我ら二人はこの九龍城を前に、じっと立ち尽くしている。煉瓦造りの門越しに、あの木造建築がそびえている。やはり二つとないであろう景観、圧倒的な存在感に僕の心は浮きだった。

その景観を見ているだけでも幸福だったので、おっかなびっくり門を叩こうとして躊躇っている男をそのままにぼうっと突っ立っていた。

今に開けるぞ、本当に開けるぞ、といいながら隣の男はなかなか門を叩かない。そろそろ仕方ないから主を呼び出してやろうかと思案しはじめたそのとき、


「うちになにか御用かい?」


若い男の声がかかった。さっと振り返ると、そこには中背中肉、丸眼鏡をかけ買い物の袋を抱えた優男が立っていたのである。



「あっはは、篠塚の無茶ぶりは変わってないなぁ」

「うちの教授とお知り合いで?」

「うんうん、いかにも。あいつとはもう10年の付き合いだよ。さ、そんなところにおらんで中にお入り。」


そうして一度足を踏み入れたあの居城は、あぁ、なんということだろうか。至るところに書物、書物、書物。視界はほぼすべてが書物に埋め尽くされていたのだった。

この城の主は何食わぬ顔で我らを手招きし、奥へ奥へと誘っていく。不安な心持ちもあらわにしながらふたり、足を踏み入れていったのだった。


九龍城改め菰田さん宅は恐ろしき書物量だった。この家はこの書籍たちで支えられているのではないかと見まごうほどの蔵書数。古い書籍の少しかび臭い臭いに包まれていく。

歩きながら説明をされたのだが、菰田さんはよく篠塚教授から依頼を受けて建築科の学生をこうして受け入れてきたのだそうだ。その多くは今回のこの男と同様に単位を落としかけたものたちで、ここでとある課題を菰田さん監督のもとさせるのだという。その課題とは


「えっ、この家を、ですか・・・・・・」

「うん、そう。この家の見取り図を頑張って書こうね。期限は明日の朝8時まで。それまでに僕のチェック印を貰って、午前中に篠塚のところへ提出できれば単位をあげるよ」


読者諸君、簡単そうだなどと思ってはくれるな。この菰田家は、本棚は可動式で3層にも連なっているし、足元も本、本、本。それが3階建てで、増改築を繰り返しているときた。容易にクリアーできるものではないとすぐに知ることができたこの哀れな男は、愕然としながら


「この家を・・・・・・一晩で・・・・・・」


そうつぶやいては「そう、一晩で」と念押しされていた。

それからは血眼で課題にとりくむ男を、菰田から「書物整理くらいなら手伝っても大丈夫だよ」と確認を取ったうえで手伝った。

その中、あまりにも途方もない書籍量に、つい菰田さんに尋ねずにはいられなかった。


「菰田さん、なんだってこの家はこんなに書籍で埋め尽くされているんです。図書館かなにかですか」

「うん? 僕はね、ただただ新しい本を仕入れないと落ち着かないんだ。それだけ」

「はぁ、新しい本を、ですか」

「うんうん。本というのは、それはもう大量に新しく出ているだろう。人々の思考をつまびらかにしたその物体がだ。そりゃぁもう、集めずにはおられないんだよ」

「はぁ・・・・・・」


こちらが答に窮すると見てとった菰田さんは、喜々として言葉を続けていく。


「だってね、君、ひとのこころなんぞというものは複雑怪奇なものだ。それが整理され理解しやすくパッケイジングされたものが並んでいるんだよ。人に興味関心のあるものならこころ揺さぶられないはずないだろう」


わかるような、それでいていまいち掴めないようなことを言う。本とは人のこころをパッケイジングしたものなのだろうか。浅学だからか、いまいいわからない。困っていると菰田さんは


「ふふふ、いまいちわからないという顔をしているね。きっと君もいつかわかるよ」


「ここは放流されている世界を集めたものだ。毎日それを補充しているんだよ」そんなことを言って、笑うのだった。


這う這うの体で友人が設計図を書き上げると、菰田さんは


「うんうん! まあ及第点といったところでしょう。篠崎に見せておいで、まあなんとかオーケイは貰えると思うよ。」


さあさ、刻限も迫っている。行ってきたまえ。菰田さんはそう柏手を打って僕らを急き立てた。友人はそのままに駆け出していってしまったが、僕はあまりに名残惜しくて駆け出せずにいた。


「うん? どうかしたのかい。ご学友は行ってしまったよ」

「……菰田さん、僕はまたお邪魔してもいいですか。蔵書を読ませてほしいのです。」

「君は、文学を研究していたのだったかな? 」

「……僕は、現代美術を。」

「あぁ、そうだったね。」


菰田さんは少し悩んだのち、にっこりと笑んで言った。


「なら、魅かれるのも無理はない。いつでも来るとよろしい。ただし、蔵書の補充に言っている間だけは僕は留守にするから、そのときばかりは呼び鈴を鳴らしても出られないからね、悪しからず思ってくれたまえよ」



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