第2章 目覚め

 あれからどれぐらい経ったのだろうか。眩しい光を浴び、目を覚ました。息を吸うと消毒の独特な匂いが鼻を掠めた。目の前で電球が煌々と僕を照らしている。僕は真っ白なベッドに寝ているようだ。身体を起こそうと首を上げると右腕に違和感を覚えた。見れば、暗い茶色のロングヘアーの女の人が僕の右手をしっかりと握っていたのだ。


 女の唇がわずかに動く。「雫……」どくん。その呟きに反応するかのように僕の心臓が高鳴る。女の人はそう呟くと、右手を掴む力が心なしか強まったように感じる。


 途端に時間が止まったような気がした。それはまるでボタン1つで場面が切り替わるテレビくらい一瞬かもしれない。

 はたまた地球が太陽のまわりをぐるっと回るくらい長くてゆっくりとした時間だったかもしれない。


 どうにか重い身体を起こそうと動かすと女が目蓋を開けた。まだ焦点の定まらない瞳が必死にこの現状を認識しようとしている。何度も繰り返えされる瞬き。見え隠れする瞳の下にハッキリとある隈が、あまり寝ていないであろう状態を示している。日頃から手入れされているのであろうか。肌の艶が光を反射させている。その艶に相反する目元の皺が女の優しさを表しているようだった。綺麗だと思った。その肌をよく見ると、おでこのあたりに赤い吹き出物があった。疲れが溜まっているのだろうか。

くっきりとした二重に少し低い鼻。唇はうすく赤に染まっている。少しずつ焦点を合わせる瞳は髪の色よりも明るい栗色だった。


 瞳が定まると同時に、目元の皺がより濃くなる。そして右手を掴む力を強めた。

「雫なのね。よかった……。雫の目が覚めてくれて。雫が生きててくれてよかった。本当に」

どくん。また心臓が強く高鳴る。


 どう答えていいのか、わからなかった。しかしその強い眼差しから目を背けることができなかった。何もできない僕はただこくん、と一度頷いてみせた。

 女は安堵の様子を見せると、僕の腕から手を離し、枕元にあるボタンをそっと押した。      

ピーッと小さな機械音が鳴らされた。普段ならこの音に気付くことはないような小さな音だった。しかし沈黙が流れるいまこの場所では、その音は綺麗に響き渡った。


 バタバタバタと、またもや白衣を身に纏った男女がニ、三人やって来た。一人が代表して色々と質問をしてきた。どうしてここにいるのか、何があったのか。色々聞かれたが何もわからなかった。

「何か覚えていることはあるかい」

覚えていること。じゃあ僕は何かを忘れているのか。


 まだすぐには動かない頭を回転させる。僕は何も覚えてないんじゃないかと。そうだ、何もわからない。自分の名前すらも覚えていなかったのだ。

「どこか痛いところはないかい?」さっきまで話し掛けてきた声が聞こえる。白衣を着た背の高い、黒い短髪の男がが言った。僕が何も答えずにいると、白衣の人達は顔を見合わせ、何か話している。その内容までは聞こえない。僕の隣の女の人はその様子を心配そうに眺めている。そして時折、僕の方を見ては微笑みかける。内心それどころではないのだろうか。その微笑みは少し歪で違和感を覚えた。僕に心配掛けぬよう、強がっているのか。

 しばらくして、白衣の人達は部屋を出て行った。僕に話し掛けてきた男の人、一人だけを残して。また、男の人よりも背の低い、ショートカットの女の人もここに残った。男の少し後ろに佇む。時折、男性に何か耳打ちしている。左手にバインダーのようなものを持って、僕の方を見ながらペンで何かを書き込んでいる。多分、看護師だろう。笑顔など見せることなく、ひたすらバインダーと向き合っている。


 「身体の調子はどうかな?」

また声を掛けられた。その声が今度はすんなりと僕の中に落ちてきた。言われてみれば全身がズキズキする。身体を起こそうとするとあちこちに痛みが走った。その痛さに思わず起き上がるのを躊躇う。

すると、僕の横にいる女の人が背中を支えてくれた。そしてベッドにある、さっき押したのとは違うボタンが付いたリモコンを取り出す。ボタンの一つ、矢印のイラストが付いたものが押された。ウィーンッとベッドが音を立てる。微かな振動が身体に響き渡る。そして、あっという間に僕の背中にベッドが当たった。そのまま身を預ける。上体が起こされ、部屋全体が見渡せる丁度いい角度になった。白衣の人達とも、しっかり目が合う。

 身体を見渡せば所々に小さな擦り傷がある。あちこちには包帯が巻かれていたり、大きなガーゼが貼られていた。

そして右手が格段に痛い。女がずっと掴んでいたからなのか。そこに意識を持っていった途端、ダムが崩壊したかのようだった。、右手の掌の中から一気に熱が湧き上がるように熱くなった。熱いのはわかるのに、どこか感覚がない。

 痛い。熱い。痛い。どうにかしてくれ。

「み、右手が……」

そう呟いた時、そこにいた全員が顔を見合わせた。

女の人は掴んでいた右手を離し、自分の両手と交互に見た。

「こっちの手が痛いのかい?」

医者が僕の右手を指差して尋ねる。こくりと頷く。

「じゃあ、こっちの手は?」

逆の手を差して尋ねてきた。不思議に思いながら首を左右に振った。

「……。そうか」

医者は少し間を開けて答えた。腑に落ちないかのように、顔をしかめていた。女の人も不思議そうにこちらを見つめてくる。


 なんだ。何がそんなにおかしいんだ。熱く疼くのは右手であって、その辛さはあなた達にはわからないのか。医者のくせに。みんな僕よりも長く生きているくせに。こんな時に相手に同じ痛みを与えられる力があればいいのに。ふとそんなことを思った。


 僕の左側に目をやると、ぐるぐると全体を包帯で巻かれた手があった。そして右を向くと、細長い指が目に入った。何かがおかしい。両手を上げ、目の前に持ってくる。


 痛いのは右手なのに、包帯が巻かれているのは左手だ。違和感の正体はこれなのか。だから医者達は腑に落ちない顔をしたのか。驚くほど早く、そのことに気づいた。

「少し手を見せてくれ」

そう言って医者は僕の両手を優しく掴んだ。右手と左手を交互によく観察した。そしてまた右手を凝視した。右手を両手で掴み、マッサージするかのように掌の中央を親指で軽く押した。不思議なことにだんだんと熱が引き、感覚が戻ってきた。

「まだ痛むかい?」

首を左右に振る。医者は少し考え混んでから、とにかく安静にしているようにと伝えた。

「お母さん、少しいいですか」そう言って女の人と共に部屋を出て行った。看護師も何かを書き終えてからお大事にと僕に言い残し、この場を去っていった。



 誰もいないがらんどうの部屋でもう一度両手を見比べる。先ほどの痛みが嘘かのようになくなった両手を。ファサッと木々が揺れるのを窓ごしに見つめる。僕は一体何者なのか。何があったのか。考える。


 がらんどうのこの部屋の窓から。

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