Track.9  一日目 八月十三日終了

「はぁ、今日はなんていい日なんだろう。明日ももっと楽しくなるといいな~」

 ボクは二〇二室の自分にあてがわれたベッドの上で、マリンスポーツセンターのチラシを見ながら、ゴロゴロしていた。

 空はもうすぐ夜色に染まる。

 吊り橋はたつなみペンションからのライトで一直線に照らされているが、その下の岩に砕け散る荒波を知っていると、渡るのはごめんこうむりたいところである。

「あ、兄ちゃんからラインが来ていた」

 時間からすると、僕が桜井先生と呂子お姉さんと一緒に夕食をとっている時だ。

「少し遅くなるから、夕飯、待っていなくてもいいよ……か」

 まったく。

 あの金髪美女と何を話し込んでいるのかね。

 兄ちゃんには兄ちゃんの事情があるとはいえ、未成年を放置するのは勘弁してほしいところだ。

「まぁ、ボクも中学生だからね。ちょっとぐらいならいいだろうけど。八時までには部屋に戻ってよね。かわいい従妹よりっと」

 だから、ボクはスッスと指を動かし、このように返信。

 いくらペンションにいる人たちが穏やかな人たちでも、保護者がいるといないでは大違いなのだ。ボクは兄ちゃんが来るまで、大人しく部屋で明日の予定を立てながら待つことにした。

「はぁ……一人の時間、慣れているはずだけど……」

 粗方用事を済ませたボクは、ふと、心細くなった。

 部屋に閉じこもりすぎたか。

 昼間あれだけ称賛していた部屋の中だというのに、不気味なものに感じる。

 美麗な細工ゆえに、その重圧感がボクにのしかかってくる。この屋敷にふさわしくない者がいると、非難してくるかのような視線さえ感じる。

「っ。頭、冷やそう……」

 ボクは窓を開け、夜空を眺める。

 昼間の肌を焼くジリジリとした熱さと打って変わって、夜は穏やかで心地よい温度でボクを迎えてくれる。

 夜空なので暗いが、されど月と星の光で明るく、影ができるほどだ。

 ボクの生活圏内ではめったに見られない神秘的な静かな光景。

 鼓膜を揺らすさざ波と、鼻孔をくすぐる潮の香りが、この不思議な空間を極立たせる。

「……きれいだけど、なんか、物足りないな……」

 不意にボクは、あの夜……ゾンビ対シャークのことを思い出す。

 あの時、鏡から感じた気配。清らかで重量感のある海の気配。

 外の邪悪な力が力だったので、鏡のソレが余計に頼もしく感じたのかもしれないが、ソレと比べると、たつなみペンションに漂う海の気配は驚くぐらい弱々しい。

 何かにかき消されつつあるのではないかと心配になってしまうぐらい、全体的にキラキラとした空気が薄くなっている感じだ。

 怖い。

 まるで何か悪いことが起こる前触れではないかと、柄にもなく不安になる。

 一人だからこその余計なことを思ってしまうのか。

 ボクがさらに意識を遠くに飛ばしかけた時だった、

「あ、唯愛! 空気の入れ替えかい?」

 吊り橋から。

 愛翔兄ちゃんがボクに気がついたのか、声を上げる。

「へ~。あれがウワサの愛翔の従妹か。けっこう愛翔に似てかわいいな」

 そして、隣にはあの金髪美女。

「そりゃ、私たち従兄妹(いとこ)だからね」

 イチャイチャとまではいかないが、親友以上の関係が見て取れる。

「初めまして、オレの名は東海林沙良。気安く沙良と呼んでくれ」

 ……兄ちゃんと比べても遜色もない美貌の持ち主だが、性格はかなり大らかで、親しみやすい感じだった。

 確かにこんないい人なら、待ち焦がれてしまうだろうと思う。

「あ、はい……ボクの名は……睦月唯愛、です」

 月並みな自己紹介でおもしろみがなくて、すまない。

 今まで意識が孤独の暗闇の中にいたのだ。

 待ち望んだ光が現れても、おっかなびっくりして、飲み込めない。

 気の利いたセリフを思い浮かべる余裕なんかなく、普通の、礼儀作法と覚えた定期文を言うだけにとどめるだけ。

 ボクと沙良との会合は至極あっさりしたものだった。


 ……だけど、これでよかったのかもしれない。


 ボクは……沙良に嫉妬している。

 愛翔兄ちゃんをあんな顔にさせ、取り乱せる、魅力的な女性。

 マーメイド、セイレーンさながらの美貌の持ち主でなければ、納得できなかったぐらいだ。現実にそれほどの美人がいるわけないと思っていたが……いた。

 東海林沙良。

 彼女はボクが今まで見てきた中で、一番憎たらしいほど、きれいな人である。

(それでなくても……)

 ボクは愛翔兄ちゃんに視線を向ける。

 兄ちゃんはもともと万人を魅了するような営業スマイルを浮かべるのが得意だ。探偵として人好きのする顔立ちは利点の一つだし、あの麗しい顔を惜しみもなく見せてくれるのだから、普通ならそれだけでも大満足だろう。ペラペラと兄ちゃんの望み通りの真実を包み隠さず、白状しても仕方ないって思うよ。

 だけど、いつもの笑みはあくまでも営業スマイルだ。心の中は冷静沈着。

 氷とまではいわないが水のような涼しげな表情なのだ。

 だが、沙良と再会してから兄ちゃんの表情は変わった。

 ほほを珊瑚色に染め、愛情と執着を混ぜ合わせ限界まで煮詰めたような、甘い、甘い声で彼女の名を呼ぶのだ。

 かなわないって白旗を上げたくもなる。

(ふぅ……これが、完敗ってことなのかな)

 ボクは素直に負けを認めた。

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