Track.8 憧れの作家との夕食
──たつなみペンション。
ボクは荷物を部屋に置いた後、急に何か飲みたくなったので、部屋を出て、自動販売機がないか探している時だった。
見覚えのある似合わない茶髪が、目の前を通り過ぎようとしていた。
「呂子お姉さん?」
そんな大きな声を上げるつもりはなかったが、勢いというものは恐ろしいものだ。
先ほどボクの声は愛翔兄ちゃんに聞きとられなかったのもあってか、いつもよりも腹に力が入ったのもある。
声が廊下に響き渡る。
「……唯愛、ちゃん」
呂子お姉さんはボクが誰だか思い出すのに時間がかかったようだ。
今日あったばかりだし、そんな長い間一緒にいたわけではないので、覚えていてもらっただけでも、ありがたい。
「おやおや。これはかわいいお客さんだね」
壮年の男性の声。
呂子お姉さんの隣にいる男性といえば……ボクはある可能性を考え凝視する。
桜井英長。
夢寐委素島乱戦記の筆者であり、呂子お姉さんのお相手。
著者の写真は見たことがある。夢寐委素島乱戦記を読み終えて、これでネタバレも怖くないと、仲間を求めてインターネットにダイブしたとき、閲覧した。
中肉中背。全体的に感じのいい眼鏡をかけたおじさんといった風貌だった。
その桜井先生と思われる方が、今ボクの目の前にいる。
写真よりはややラフな服装だが、そこはプライベート時間なのだ。格式ばったお高いスーツを着るような時間でも場面ではない。
「私の名は桜井英長。作家だよ」
はい、本人、確定しました。
自己紹介、ありがとうございます。
「……ボクは、睦月唯愛……です。桜井先生、お会いできて光栄です! 夢寐委素島乱戦記、最高でした!」
緊張でどもってしまった。恥ずかしい。ボクの中では今一番尊敬している作家の前で醜態を晒すようなことをしているのか。
しかも、厚かましくも、握手を求めて両手を出す始末。
普通は右手だけ。そして、目上の人から握手を求めるのがマナー……いや、ボク女性だから。男性から女性に握手を求めるのはよろしくない、ということをどっかで聞いたことがある。
この場合どっち!
「ああ。君みたいな若い読書者もいるなんて。こちらこそ、うれしい限りだよ」
握手会でなれているのか、桜井先生は嫌がるそぶりもなく、ボクの両手を包むような握手を返してくれる。
感激である。
胸のときめきが止まらない……。
今のボクは、恥ずかしさと照れと憧れがごっちゃになって、茹ったトマトのように赤くなっていることだろう。
「あの……お客様……」
おそるおそるというべきか。
オーナー代理の津久井さんが遠慮しがちにボクらに声をかけてくる。
「恐れながら、他のお客様のご迷惑になりますので、廊下で長時間話し込まれるのはご遠慮ください」
まったくもってその通りですね。
「す、すみません。つい声をかけてしまって……しかも、廊下で立ち話なんて……申し訳ありません」
ボクは自らの非を認めて、津久井さんや呂子お姉さん、そして桜井先生に謝る。
はしたないと思われたら嫌だなっとは思うけど、そのものズバリなので否定はできない。
「ああ。私もつい長話をしてしまったね。睦月君、よかったらこれから一緒に食堂に行かないかい。あそこならゆっくり話せるだろうし、美緒君の迷惑にもならないだろう」
桜井先生は穏やかな笑みを浮かべる。大人の余裕と懐の広さが麗しい。
これはこれでカッコイイ……。
やっぱり、人間、年齢によって磨かれる渋さもまた魅力的なのだ。
ボクはそのことを再認識したのだった。
──たつなみペンションの食堂は穏やかなオレンジ色の電球の光に包まれていた。
好きな本の作家さんとの食事。
ボクは緊張しつつも椅子にもたれかかる。心の中は感激と至福によって心が大きく揺れ動いている。
その高揚を少しでも抑えるため、、食堂の装飾を一通り眺めることにした。
柱や壺のところどころに青波様、もとい龍をモチーフにしたらしい、装飾が施されている。
額縁の絵には珍しく龍が描かれていないが、朝日を浴びた壮大で神秘的なこのペンションの姿が描かれている。
(はぁ……本当に、すごいペンションだな。兄ちゃんはともかく、ボクまで無料で泊まるのが心苦しくなるよ。でもまぁ、食事代は自腹だけどね)
そう、生前の八重柏さんと結んだ契約によると、宿泊費は無料だが、食事代は有料である。
リゾート施設が立ち並ぶ夢寐委素だから、食事処もたくさんある。こういう契約内容になったのも、食事は自由にとりたいという愛翔兄ちゃんの要望があったからだ。確かに、町の方にいくと目移りしてしまうぐらいおいしそうな食べ物がたくさんあった。屋台をはしごして食べ歩くのもいいだろう。
ただし、今たつなみペンションで食事すると、通常の料金から三割引きしてもらえる。お得である。厚い恩情、ありがとうございます。
ボクは感謝の意を込めながら、八重柏さんがいるであろう空を見上げた。
(黙とう終了。では、さっそく、メニューを確認、確認。なになに……今日の気まぐれメニューは白身魚のトマト煮……)
トマトという言葉に赤を連想して、またボクは赤面してしまう。
思春期特有の不安定で豊富な心情は、何気ない日常だというのに過剰に反応するのである。
(落ち着け、唯愛。意識を違うところに持っていけ……そう、例えば、メニューの魚、魚……魚ぁ……)
海が近いからか、メニューのほとんどは魚である。
予想していたが、こうも魚ばかりだと、五日間、食べ盛りの中学生であるボクは、飽きずに食べ続けられるだろうか。
少し不安になる。
「ああ。今日の気まぐれメニューは私の好物だね。わざわざ用意してくれたのかい、美緒君」
「それはご想像にお任せしますわ、桜井先生」
津久井さんはそっけない素振りを見せるが、その視線は熱い。
こんなステキなおじさまだもの。あこがれ以上の感情を抱いても仕方ない。
それに、名前で呼んでいるところから、浅からぬ縁なのだろう。
「先生と美緒さん。本当に仲がよろしいですね」
クスリと笑う、呂子お姉さんの顔には嫉妬とかそういう負の表情はなく、小動物がじゃれ合うような、ほほえましいものを見ているよう表情を浮かべている。
「ああ。美緒君は私の紹介でこのペンションで働くようになったからね」
「はい。先生が保証人になってくださったので、今は亡き八重柏オーナーとの雇用契約がスムーズに進められました」
職場のあっせん……。
確かに、これなら敬愛と恩義の感情が結ばれる。
疑うことから始める不倫の調査もやってのけた探偵である愛翔兄ちゃんでも、これなら納得の回答である。
「当時の私は井の中の蛙で、生意気だったのですが……あ、失礼。この話は私にとって恥ずかしい思い出なので、私の心の内だけにさせてくださいませ」
津久井さん、昔はやんちゃだったのかな。
清楚な美しさを持ち、人懐っこい笑みを頬に浮かべてている今の彼女から想像がつかないが、女は化粧一つでかなり変わるからね。中学生のボクでも、なんとなくわかる。
というわけで、勝手に想像してみた。
セーラー服に長いスカート、スケバン……田舎でもさすがにもう生息していないか……。
日焼けマシーンでムラなくきれいに、昔、渋谷に生息していたというガングロコギャル……配色的に、2Pカラーだ。格闘ゲームに出てきそう……。
まぁ、今はマイルドなヤンキーが主流だから、見た目は変わっていない可能性が高い。
見た目は普通、中身は小生意気。仮装(ツッパリ)は成人式などのイベントのみ!
……これが現代の不良である。
「とにかく、今の私は先生のおかげであります。感謝していますよ、先生」
津久井さんはそう話を区切ると、オーダーをとり、キッチンへと下がる。
そして、持ってくるものは三人分の白身魚のトマト煮。
桜井先生の好物。ファンの心情的に食してみたいと思ったのだ。
「皆さん、料理を持ってきましたよ。温かいうちに召し上がってください」
津久井さんはテキパキと配膳。
赤い煮込みスープからはホカホカの湯気が立っていて、見るからにおいしそうだ。
「いただきます」
見た目通りというか、それ以上に白身魚のトマト煮はおいしかった。これなら、魚嫌いの子供でも喜んで食べそうなぐらい、食が進む。
ご飯にもパンにもあうおかずに、舌鼓を打ちながら、完食。
こういう魚料理なら、五日どころか、毎日でも飽きないのかもしれない。
特に桜井先生はお代わりをして、思う存分平らげていた。
「ふぅ、おいしかったです……」
食事中の会話は他愛のないものばかりだったが、自分の記憶に焼き付けることに熱中。
ボクの心の中に大事に保管しようと思う。
「今日は本当にありがとうございました。また機会があったら、よろしくお願いします」
「いやいや、こちらこそ。君と話せて、有意義だったよ。ありがとう」
「私も楽しかったわ、唯愛ちゃん。おやすみなさい」
社交辞令でもうれしい言葉が返ってくる。
いい夕食だった。
そんなささやかで楽しい夕食会が終わると、ボクは桜井先生と呂子お姉さんとわかれ、宿泊室に戻ることにした。
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