君のおっぱいになりたい

成井露丸

君のおっぱいになりたい

 梅雨の明けない七月下旬、僕は君の胸元でHカップのおっぱいになった。


 クーラーを神経質なほど効かせた病室は、君がガラス細工の壊れ物だって主張しているみたいだ。窓を開け放てば、夏のむんとした熱気が白い部屋に広がって、そんな青春の匂いが君の目を細めさせ、おっぱいとなった僕の肌にも君の汗がじっとりと浮かび上がるのだろう。そんな高校生らしい夏の反応も、今の君には取り戻せない日常なのだ。


 君がベッドで半身を起こす。その肋骨の上で重力に引かれた僕は少しだけ頭を垂れた。Hカップのおっぱいがこれほど所在ないものだとは知らなかった。もし君が放課後の校庭を走り抜けるような元気一杯の少女だったなら、腋の下についた筋肉が僕を優しく支えたことだろう。僕が今こうやって乳頭を俯かせざるをえないことは、君の身体が死に向かっていることと因果関係で結ばれているのだ。


 いや駄目だ。そんな思考じゃ駄目なのだ。

 僕は君を支えたいのだ。君に支えられたいわけじゃない。

 最後の一ヶ月、精一杯君を喜ばせたいんだ!

 だからこうやって僕は君のおっぱいに――


「……慎二くん?」


 甘い声。真上から放たれた吐息に、僕は二つの双丘を以て空を見上げた。

 パジャマの第三ボタンまでを外して胸元をはだけた君が驚いた顔で自分の胸の膨らみ――僕のことを見下ろしていた。Hカップおっぱいになった僕――水島慎二は、その視線から目を逸らさず、少しばかりの気恥ずかしさと共に応じる。


『やぁ、みはる。どうやら気付かれちゃったみたいだね』


 それは彼女――紺野みはるのおっぱいに擬態して三日目のことだった。

 ひっそりと彼女に膨らみを与え、気付かれぬままに彼女とともに在りたいと願ったのだけれど、それは叶わない願いだったみたいだ。


「驚いたわ。本当に、慎二くんだったのね。……最近、慎二くんが学校を休んでいるって聞いたから、もしかしてって思ったけれど」


 彼女はそう言って、僕を支える白色のブラトップを両手のひらで整えるように動かした。柔らかな手の感触が僕をくすぐったく揺らす。


『うん、まぁ友人が自分のおっぱいになるってあまり無い話だから、気付かないのも無理はないよ。自分からは言うつもりはなかったんだ』

「そっか。でも本当に気付かなかったわ。三日間……で合ってるかな?」

『うん、多分三日。でも……僕も逆の立場だったら、きっと気付かないよ』

「何言ってるのよ、慎二くんは男の子なんだから、おっぱいなんてあるわけないじゃない?」

『あ、それもそうか――!』


 そう言って、僕らは笑った。

 しんと静かな病室は、そんな騒がしさを許してくれなくて、僕らは無言へと引き戻される。


「慎二くんが居るなら、音楽でもかけようかな?」

『いいね。何にするの?』

「うーん、あまり大きな音はだめだし、なにか落ち着いたもの?」

『じゃあ、ジョン・コルトレーンで』

「えっと、ジャズだっけ? あるかなぁ……」


 彼女は枕元のスマートフォンを引っ張り出すとプレイリストの中からジョン・コルトレーンの楽曲を見つけ出す。液晶画面を何度かタップすると、やがて有線で繋がれたスピーカーからグルーヴ感に満ちたサックスの音が流れ始めた。


 彼女の仕草一つひとつを両腕の間で感じていた。病室に響くカルテットの演奏は控えめで、僕らだけの空間を作ってくれた。


「ねぇ、どうして吹奏楽やめちゃったの? 音楽、好きなのに」

『――うーん、どうしてだろうね』

「……それと、どうして慎二くんは、今、私のおっぱいになっているの? それもこんなに大きな?」

『――うーん、どうしてだろうね』

「また、そうやって誤魔化すんだ?」

『誤魔化すわけじゃないんだけれどね。ごめんね』


 しおらしく謝る僕に、紺野みはるはゆっくりと首を振った。


「こっちこそごめん。きっと慎二くんは悪くないんだよ。うん、問い詰めるみたいになってごめんね」


 そう言って彼女は両手で彼女自身の乳房を掴んだ。それは僕自身でもある。そして柔らかく、ゆっくりとその膨らみを揉みしだく。きっと僕の頭でも撫でているつもりなのだろう。

 ただ、やっぱりそれは彼女のおっぱいそのものであり、紺野みはるはちょっと頬を赤らめて吐息を漏らした。


『それで、どう? ……おっぱいが大きくなってみた感想は?』


 なんだか上から目線だなと思いながら、彼女のことを下から見上げるHカップになった僕。


「うーん、最初は驚いたし、戸惑ったけれど嬉しかったかな? ここに来て念願叶ったって感じ? ……ずっとおっぱいが小さいのはコンプレックスだったし」

『うん、知ってる』


 あけすけに言う僕に、彼女は「もうっ」と頬を膨らませた。


「でも、ちょっと大きすぎるかな〜? どのくらいの大きさなんだろう? 新しいブラを買うのもお母さん任せにしちゃったし。もうデパートに行って服を選ぶ機会も無いのだろうけれど……」

『……Hカップだよ』


 僕がそう答えると、彼女は「Hカップ!?」と驚いて、その谷間に視線を落とした。


「どうして、慎二くんが知っているの?」

『だって、自分のことだよ? そりゃあ知っているさ。僕はHカップのおっぱいだからね』


 そう言って肩をすぼめて見せると、彼女は「あっそっか」と照れくさそうに笑った。


 ☆

 

 僕――水島慎二と紺野みはるの出会いは小学校三年生に遡る。


 特別な出会いがあったわけではない。ただの小学校のクラスメイトだ。新学期が始まったときに座席が隣同士だったから、「よろしくね」「こちらこそ」みたいな会話で始まった関係性。


 小学生の頃は恋愛感情なんて無縁だったから、僕らは普通の友達同士で、男の子と女の子で別れがちなクラスメイトの中でいくつか存在した性別間の架け橋みたいなものだった。

 そういう存在は、やれ黒板の上に相合い傘と共に名前が書かれたり、その気もないのにカップル扱いされたりするのが小学校高学年で起こりがちな現象だけれど、幸か不幸か、僕らにそういう事件は起きなかった。


 その理由の一つには、当時の紺野みはるが男子からそういう話題の対象になるような女の子ではなくて、もう少し地味というか大人しいタイプの少女だったことがあるだろう。あと僕が小学生時代にクラスメイトから意外と一目置かれていたこともあるかもしれない。


 中学半ばになってそのバランスは崩れた。中学生になって第二次性徴期を超えた紺野みはるはどんどん女の子らしくなっていった。次第に友達も増えて、男子の視線も集めるようになって、彼女は女子のなかでもそれなりの位置を占めるようになった。それなりに男子から「紺野さん、いいかも」みたいな好意を集める、そんな風な女子になった。


 僕がそんな彼女を異性として認識したのは、一緒に入った吹奏楽部でのワンシーン。中学二年生の夏だったろうか。コンクールに向けた練習の最中、彼女がフルートから離した唇が薄っすらと開いて、赤い膨らみが中途半端に温かく見えた。

 どうしてだかそこから目が離せなくなって、僕はそこから覗く口腔に吸い込まれそうな心臓を何度も拍動させた。やがてその鼓動の意味を、自分自身で認識したのである。


 それでも小学生時代からの紺野みはるとの関係性を壊す気にはなれなかった。だから、僕は彼女に告白なんてしなかった。それに日々の仕草から、紺野みはるが僕のことを異性として見ていないことは明々白々に思われたのだ。


 彼女はいつも他に好きな男性がいた。中学時代から高校時代に至る、幾度かの彼女の恋。ただし、その全ては実らなかった。残念な限りだけれど。


「なんで、私の好きになる人は――おっぱいが大きな女の子が好きなのかなぁ〜?」

「知らないよ」

「――慎二くんもおっぱいの大きな女の子が好きなの?」

「――うーん、どうだろうね」

「なに〜、私相手に誤魔化すの? いいじゃん、教えてくれても」


 そう言って屋上の手すりに両手を掛けて体重を掛ける彼女のスカートを揺らす夏風。その横顔を僕は眺める。向こう側では青空の上に入道雲が泳いでいた。


「誤魔化しているんじゃないよ。分からないんだ。まだそんなにいろいろな女の子のことを好きになったわけじゃないからね。自分の好きな女の子の傾向なんてわからないよ」

「ふ〜ん。慎二くん……好きな女の子――いるんだ?」

「――どうだろうね」


 そう言って僕は彼女の質問を受け流した。


 そっと視線を斜めに落として君の胸元を覗き見る。そこには第二次性徴期を超えてもなお目立った膨らみは無くて、穏やかな地形が平和な広がりを見せていた。


「あ〜! 私もおっきなおっぱいが欲しいっ!」

「ちょっと、みはる。声が大きいよ」


 常識人な忠告に、夏の放課後の彼女は唇を尖らせる。


「大丈夫よ、屋上からこのくらいの声。誰にも聞こえないよ〜」


 小学生の頃はおどおどしがちだったのに、高校生になった彼女は随分と綺麗で、そして明るい女の子になっていた。


「じゃあ好きなサイズのおっぱいを神様がくれるとしたら、どのくらいのおっぱいが欲しいんだい?」


 僕のそんな質問に、彼女は頬に人差し指を添えて小首を傾げた。


「――Hカップくらい?」

「大きいなっ!」


 そんなツッコミに悪戯っぽく笑う君の表情を見ながら、僕はおっぱい好き男子たちの罪深さを呪わずにはいられなかった。

 僕はおっぱいの小さな君でいい。

 でも君が望むなら、おっぱいの大きな君でもいい――。


 ☆


 高校二年生になった君は高校三年生のトロンボーン奏者――金村先輩のことが好きになった。先輩たちの噂によると、やっぱり金村先輩もおっぱいの大きな女の子が好きで、故に紺野みはるに望みは無いようだった。


「――そっか。金村先輩もおっぱいの大きな女の子が好きなんだ。男はみんなおっぱい星人なんだね」

「みんなじゃないよ。小さなおっぱいが好きな男子だっているよ」

「――慎二くんは、どうなの? おっぱい好き?」

「うーん、どうだろうね」

「――慎二くんは、……私のこと、好きなの?」


 何気ない話の流れで、彼女は問う。僕は突然の質問に面食らう。

 でも極力表情を変えずに、遠くの空を眺めてみせた。


「――どうなんだろうね。考えたこともないや」

「そうやって、誤魔化すんだ!」


 紺野みはるはそうやって冗談っぽく笑った。同調して僕も笑った。無邪気でさわやかな青春のワンシーンみたいに。


 好きだったよ。好きだったさ。紺野みはるのことが好きだったさ。でも、君はいつも他の男を見ていて。僕に君の恋人になる可能性がないことは明白だった。だから誤魔化すしか無いじゃないか。

 僕は君のおっぱいが大きくても小さくても構わない。そんなことは問題じゃないんだ。小学生の時から近くに居た君が、今も近くに居てくれて、これからの人生でもずっと近くにいてくれたら、それでいいんだ。だから! ――誤魔化したんだよ。


 それからしばらく経って、君の金村先輩への恋は進展しないまま、君に病気が発症した。突然倒れた君は病院で長くない余命を告げられて、やがて死へと向かうだけの入院生活が始まったんだ。


 その報を聞いた僕が流した涙の量だとか、叩いた壁に残った凹凸だとか、そういうことは今更どうでもいい。

 時間は限られているからこそ、手を伸ばすべきものがあるはずだ。上げるべき視線があるはずだ。なすべきことがあるはずだ。


 これから短い時間しか残されていない君に、僕が見せてあげられる夢はなんだろうかと考えた時に、奇跡的な閃きが瞬いた。そしてその瞬きは神様の奇跡を呼び出して、――僕は君のおっぱいに擬態した。そう――Hカップのおっぱいに。


 ずっと君が欲しかった、君の恋の鍵穴を開く鍵。

 君が好きになる男の子はみんな巨乳好き。だから僕が君のおっぱいになる。僕が君のHカップのおっぱいに擬態して、君の人生最後の恋を叶えるのだ。

 僕の大好きな君が、人生の最後を笑顔で終われるように。


 ☆


「――紺野……体調はどうだ?」


 ノックされた病室の扉が開いて少年の声がする。やがてカーテンが開かれると少し長めに髪を伸ばした男子高校生が制服姿で立っていた。みはるの胸元から僕はそれが誰であるのか察知した。


「あ、金村先輩――」


 みはるが身体を起こして触っていたスマートフォンを枕元に置く。

 凛々しい顔立ちでに清潔感のある雰囲気。僕も悔しいかな、みはるが金村先輩のことを好きになってしまった理由をなんとなく理解してしまう。いい男だ。


 だから先輩との恋が何らかの満足感を君にもたらせば良いなと思う。僕には与えられない幸せを、この男が君に与えてくれるなら、僕は甘んじてHカップのおっぱいとして君の胸骨の上に鎮座し続けよう。


 お見舞いの花束を「金管パートの皆からだよ」と窓際に置くと、先輩はみはるに促されるままベッド脇のパイプ椅子を引いて腰を下ろした。


 やがて先輩の凛々しい顔の上で目が泳いで、ちらちらと僕のことを見る。視線が合う。びっくりするくらいに彼が僕のことを見ていることがわかる。ちなみに忘れることなかれ。僕とはHカップのおっぱいである。

 僕も今回おっぱいに擬態してみて初めて知ったのだけれど、おっぱい好きがおっぱいを見てしまう視線の動きは、斯くもあからさまなのである。全おっぱい星人はもう少しこの種の視線の動きに関して意識的になった方がよい。


「吹奏楽部のみんなは元気ですか?」

「ああ、まあな。みんなコンクールに向けて頑張っているよ。紺野は――残念だったな。その……頑張っていたのに」


 そう言って金村先輩は気まずそうに視線を逸らす。その言葉に彼女はゆっくりと首を振った。


「いいんです。私のことは。でも今年こそ、コンクール突破したいですよね! ――あ、何だか私が抜けてコンクールで金賞取るっていうのは、なんだか私が足を引っ張っていいたみたいで悔しいですけれど」


 わざと冗談っぽく健気なことを言うみはるに、金村先輩は真剣な顔で首を左右に振った。


「そんなことはないよ。誰もそんなこと思わない。フルートのみんなも紺野の抜けた穴を埋めようと一生懸命だよ」


 そうやってみはるの心情に配慮する金村先輩はやっぱり基本的には良い人なのだ。でも先輩がそうやって真摯な思いと共に訴える間にも、彼の視線が無意識に僕の方をちらりちらりと向くのはなんだろう。本能的なものなのだろうか。おっぱい好き男性の性。


「コンクールを見に来ることは……難しそうか?」


 そんな先輩の質問にみはるは無言で頷いた。「そうか」と、金村先輩。


「でも、同じフルートの子が、録音を後で聞かせてくれるっていうんで、楽しみにしています。頑張ってくださいね! 先輩! 絶対、金賞で!」


 そう言って彼女がガッツポーズを作って見せると、先輩は破顔して「ああ」と頷いた。みはるは先輩が彼女の声援を好ましく受け取ったのだと思っているだろう。純粋に。でも、みはるは一つ見落としている。ガッツポーズを作ったその瞬間に、その二の腕で僕というHカップのおっぱいが挟まれて強調されていたのだという事実を。そして金村先輩の視線が一度、僕の下へと降りて、そして君の表情へと戻ったということを。


 それからしばらくの間、金村先輩とみはるは他愛もない会話をした。

 これまで遠くから眺めてきた幾つもの会話の中で、今日の二人の会話は一番盛り上がっているように思えた。金村先輩からの歩み寄りと会話を引っ張る努力が凄い。

 気を許したような空気の中で、制服姿の先輩が躊躇いがちに口を開いた。


「――なあ、紺野。ちょっと後輩が話しているのを聞いちゃってさ。その、お前がさ……俺のことを」


 膝の上で手を組んだまま切り出した金村先輩の言葉に、みはるが弾かれるように顔を上げた。彼女の心臓がその拍動を早めるのを僕はおっぱいの下で感じている。釣られて僕もその大きな乳房を白いブラトップの中でたわわに揺らした。


 ――さあ来た。来たぞ。おっぱいに擬態した僕が呼び込んだ未来が!


 乳頭の先に緊張感を集めながら、僕は思う。余命幾ばくもない友人が、最後の恋を実らせる。そのために僕は――君のおっぱいになりたいと思ったのだから!


「もう〜、誰ですか。そんなことを言ったのは? 懲らしめないといけませんね。……でも、そうです……正解です。……私はずっと前から先輩のことが好きだったんです」

「紺野――」


 パイプ椅子の上から金村先輩が真剣な表情を、彼女に向ける。白いブラトップの中で、Hカップの胸――つまり僕が締め付けられた。


 君の夢を叶えるのは僕で、君という存在を失うのは僕なのだ。

 でも違う。どちらにせよ僕は、もうすぐ君を失う。

 だったら僕に残るのは君の夢を叶えることが出来たという事実だけで――だから僕には得るものしか無いんじゃないかな。


「――先輩。でも駄目なんです。私、もう一ヶ月しか生きられないみたいなんです。死んじゃうんです。こんな私に先輩のことを好きになる資格はありません」

「……そんなことないよ、紺野。俺はそうは思わない。たとえ君の人生があと少しで終わるのだとしても、それは君が恋愛をしてはいけない理由にならないんだよ。そして俺が君のことを好きになってはいけない理由にも」

「――金村先輩」


 みはるの瞳が潤んでその上で光が揺れる。一つ年上の男の眼差しが彼女に向けられ、その双眸を捉えた。

 嗚呼、これが主人公とヒロインの恋が叶うシーンなんだろうなぁ、と恋愛映画の観客みたいに見つめ合う二人を見上げる僕。


「紺野――好きだ――」

「先輩――。ずっと好きでした――」


 金村先輩の上体がベッドの上に移動して顔が近づいてくる。

 みはるも吸い寄せられるように上体を起こす、そしてその先輩を迎え入れるように顔を向け、そして目を閉じる。彼女の身体の筋肉は強張り、緊張が全身を覆う。僕もその一部として彼女と共に在った。


 でも彼女の一部として感じるのは、想像していたような悦びではなくて、寧ろ戸惑いにも似た緊張感だった。恋愛とは安らぎを与えるものだと思っていたのだけれど。彼女は今本当に幸せなのだろうか?

 自分が望んだ二人の恋の成就だったけれど、痛いほど願った未来は――僕の胸を締め付けていた。


 上空で二人の吐息が混じり合い、そして口付けが交わされる。大好きな女の子と知らない先輩が引き合おうように繋がっている。やがて離された唇から小さな声が漏れる。「紺野――」「先輩――」。ベッドの端に突いていた先輩の右手が白いシーツから離れる。そしてそれはゆっくりと僕に近づいてきて――


「……先輩?」

「紺野……好きなんだ。……わかるだろ?」


 その開かれた指先が僕の左側を捉えた。擬態した全身が金村先輩の指先を受け止める。電撃みたいな感触が走り抜けて、それはきっとみはる本体にも伝わった。先輩の五つの指が僕というおっぱいの表面に沈み込む。いつもはトロンボーンを扱う彼の右手には収まりきらない乳房は、その骨張った右手から溢れ出していた。


「金村先輩――! ちょっと、ここ病室だし」

「……大丈夫、誰も来ないよ」


 先輩の声に興奮気味な吐息が交じる。その視線はもう、紺野みはるではなくて、そのHカップのおっぱいであるところの僕を見ていた。――怖気が走る。

 その時だった。


「駄目っ――!!」


 紺野みはるは力いっぱい、金村先輩の肩を両手で押して突き飛ばした。


 好きだったはずの金村先輩のことを突き飛ばしたのだ。

 思わずバランスを失い、パイプ椅子を巻き込んで地面へと尻もちをつく先輩。その顔は突然の変化に何が起きたのか分からないという様子だった。


「……紺野? どうしたんだ? あ、少し焦ってしまったかな。ごめん」


 ゆらりと立ち上がり顔を上げた先輩に、みはるは首を振る。


「違うの。違うんです。――先輩」

「違うって……何が?」

「私、嘘をついていました。私が好きなのは、先輩じゃ、ありません。ううん、本当は好きだったかもしれないけれど、やっぱり違うって気づいたんです。だから――」


 病室は白くて、先輩の顔は呆けていて、みはるの顔は毅然としていて、僕は彼女の胸元で状況を把握出来ないままにたわんでいた。


「――だから、今日あったことは無かったことにしてください。それから、吹奏学部の皆によろしくです。あと、私が死んでも先輩はちゃんと私のことを忘れて、ちゃんと別の恋人を見つけてくださいね!!」


 紺野みはるは白いベッドの上で吹っ切れたようにそう言った。

 彼女は向日葵みたいな笑顔を咲かせていた。

 そういえば――もうすぐ夏だ。



 それからのことは仔細に語る必要も無いだろう。意気消沈した先輩は、なんとかぎりぎり爽やかな笑顔を浮かべて「お大事にね!」と形ばかりの言葉を残して白い病室を出ていった。

 やがてまたジョン・コルトレーンのサックスが病室の中で軽快に流れ始める。


 彼女は止めていたパジャマのボタンを一つ二つ外すと、またHカップのおっぱいであるところの僕に視線を落とす。

 健康的なブラトップが作る豊かな双丘も、今となっては何のことはないただの道化だ。


『――良かったのかい?』

「あんな会話を盗み聞きするなんて、慎二くんも随分と悪趣味になったのね」

『――僕の趣味が良趣味だったことなんてあったかな?』


 戯ける僕に彼女は二つの拳骨げんこつをぐりぐりと押し付けた。

 やめてくれ、ただでさえ狭いブラトップのカップの中で変形させられるのはたまらない。


「それで、慎二くんは満足なのかな? 私と先輩をキスさせて。私のことをドキドキさせて」

『――さて、なんのことかな?』

「白々しいわよ。あなたが私のコンプレックスを知っていることだって、金村先輩のことを好きだったって知っていることくらい――わかっているんだから」

『――そして、先輩が巨乳好きだってこともね』

「やっぱり、そういうことなのね。……本当にしょうがない人。小学生の時からずっとそう……」


 そう言って彼女はベッドの上で目を細めた。

 懐かしい昔の日々を思い出すように。


「ねえ、慎二くん。私、一つ気付いちゃったことがあるの。――だから、お願い、一度、あなたの擬態を解いてもらっていいかな?」

『――わかったよ』


 突然のお願いに戸惑ったけれど、そもそも彼女のための擬態だった。彼女に本心で乞われれば解かないわけにはいかない。


 僕はそしてHカップのおっぱいである擬態ををやめ、君のベッドの端へと腰を下ろす。

 彼女はそんな僕の姿を見て可笑しそうに笑うと、急にぶかぶかになったパジャマのボタンを一番上までとめて、布団から足を引き出した。そして僕の隣に座る。


「ありがとう、慎二くん。私の願い事を叶えてくれようとしたんだよね? それはそれで嬉しかったんだよ? ――でもね、それはちょっぴり見当違いだったんだ」


 そう言ってみはるは隣で足をぱたぱたさせる。

 僕はそんな彼女のこと隣から眺めた。


 君の胸元にはやっぱり目立った膨らみは無くて、穏やかな地形が平和に広がっている。

 それはこの上なく平和に。

 よもや一ヶ月先に彼女の死が迫っているだなんて思いもよらないほど平和に。


「ねえ、――慎二くんは、……私のこと、好きなの?」


 そうやって悪戯っぽく僕の向日葵が微笑む。

 それは梅雨の明けない七月下旬のこと。

 未来が打ち止められた現在。もう誤魔化す理由なんて、どこにも無かった。


「――ああ、好きだよ。僕――水島慎二は紺野みはるのことが世界で一番好きさ」


 黄色いはずの向日葵が、仄かに赤く色づいた。


「……今日は誤魔化さないんだ」

「――もう、誤魔化せないよ。ううん、誤魔化したくない」

「そっか〜」


 みはるはベッドへと背中から倒れ込む。そして言ったのだ。


「私も――私も水島慎二くんのことが好きだよ。だって、ずっと一緒に居たじゃない? 小学生のころからずっと。そりゃ恋愛対象としては先輩に憧れたりとか、いろいろしたけれど。やっぱり、慎二くんと居ると落ち着くし、そして、なんだかんだで私のこと大切にしてくれているって分かるし。だから、――ありがとう!」


 彼女は真っ直ぐ天井を見たまま、涙を浮かべていた。


「――どういたしまして。紺野みはるの人生の中できっと一番長い時間一緒にいられて、それに最後にこんな風に言ってもらえたのは僕なんだ。だから、それだけで僕は、世界一の幸せものだよ」


 それは本心だった。僕の向日葵はそんな僕を見て、素敵に微笑んだ。


 それから一ヶ月。僕とみはるは残された時間を一緒に過ごした。

 そして夏が始まり、僕にとっての向日葵の花が散った。

 やがて夏が終わり、君のいない高校二年生の秋が始まる。


 これからどれほど月日が流れても、僕は紺野みはるのことを忘れない。

 そして君と恋人同士になれたこの短い夏を思い出すだろう。

 きっかけをくれた奇跡と、それを引き出した僕の荒唐無稽な願いごと。

 

 僕は――


 ――君のおっぱいになりたい。

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