弐 悪魔が生まれた日

01 それでも、生きていた

「待て! クソガキ!」

 

 喧噪の中を走り抜けながら少女は背中で男の怒声を聞いた。

 ボロボロのカバンを強く抱きしめ、同じくらいボロボロの裸足で地面を蹴る。人がひしめく大通りを少女は小さな体で駆け抜けた。

 敢えて大きな通りを抜けることを選んだのは、大人に追われる場合、それが最善であるからだ。子どもの小さな体であれば大人の間をすり抜けて走ることができる。道を空けてもらわなければ走れぬ大人をくのは容易だ。

 後ろの怒声が小さくなる。

 少女は横目に後ろを確認し、素早く体を路地に滑り込ませた。大きなゴミの影に身を隠し、じっと大通りを窺う。しばらくすると大声を出しながら、男が通りを走り抜けていった。それを見届けて少女が立ち上がる。小さく息を吐き、路地の奥に向かって歩き出した。


 少女には親がなかった。名前もなかった。

 生まれた場所も、自分の歳も知らなかった。

 自らの何ひとつを知らず、しかしこの世界の暗い所だけは誰よりも知っている。少女は、そんな貧民街に生きる孤児のうちのひとりだった。

 庇護のない孤児が生きることは、大人が生きるよりも難しい。

 食料も満足にない。住む場所もない。着る服もない。当然、金もない。

 衣食住やそれを得る術、そのすべてが欠落したこの無法地帯では、大人だって簡単に死の淵から転げ落ちる。善悪になど構っていられるはずもない。職を得ることのできない子どもたちなら、なおさらだ。

 そもそも教える者が誰もいないのだから、大半の子どもは「善」と「悪」の区別すらついていない。

 彼らは生存のために群れ、他者から奪い、崩れかけたマチの隅に蹲って生きている。少女も例外ではなく、他の五人の孤児とともに身を寄せ合い、時に大人たちから奪い、時に奪われながら、必死に生きていた。

 しばらく土の地面を歩き、小さな廃倉庫の前で少女は立ち止まる。そっと周囲を見回し、外れかけて軋む扉を開けた。


「おかえり」

「おかえり、どこまで行ってたんだ?」

「大通り」

「何か盗れたか?」

「カバンひとつ」

 

 中にいたのは留守番の子ども三人だ。どの子も少女より年嵩に見えるが、同年代で何不自由なく暮らす子どもに比べれば身長も小さく、手足は枯れ枝のようだった。少女が地面に鞄を置くと、それぞれに手を伸ばし、中身をその場に撒き散らす。ほかのものには目もくれず財布を開くのは、いつものことだ。


「二千円か」

「まあ、ここの大人なんてそんなもんだろ」

「お札が入っていただけマシ」

 

 口々にそう表する三人を尻目に、少女はカバンの中から転がり落ちた黒いものから、目が離せなかった。


「どうしたの?」


 聞いてきたのはリンカだった。子どもたちの中では二番目に年嵩で、よくケンカをするほかの男の子たちを叱る、姉のような存在だ。

 少女は黒光りする「それ」を拾い上げ、リンカに見せた。


「これ、なんだろう」

「何だろう? 棒?」

「ここ、外れそう」


 片側についている蓋のようなものを引っ張って外そうとするも、びくともしない。少女とリンカが二人で首を傾げていると、財布に夢中だったカイトとリョウが寄ってきて、手元を覗き込んだ。


「なんだそれ」

「わかんない」

「でも、確かにそこ、外れそうだな。貸して」


 差し出されたリョウの手にリンカが「それ」を乗せる。彼は最初、少女やリンカのように端の部分を引っ張っていたが、「わかった」と呟くとおもむろに蓋のような所を回し始めた。するとそこは簡単に外れ、ポトリと落ちる。カイトが落ちたものを拾ってリンカに手渡した。


「……なんだこれ?」

「さあ……?」


 出てきたのは、金色の尖った何かだった。

 文字を書くために大人が使っている、「ペン」という物に似ているが、先の形が違う。同じように使う物なのか、それを確かめようにも紙がない。 

 よくわからないまま首を傾げ、しばらくするとリョウとカイトが興味を失ったように離れていった。リンカが「どうする? これ」と少女に聞く。 

 少女はなぜかその「何か」から目が離せなかった。売れるとか売れないとか、そういうことではなく、何か強い引力のような物が少女を惹きつけて止まなかった。先の金色が、僅かに倉庫に入り込んだ光を反射する。一瞬の輝き。


「……私が持っていてもいい?」


 少女の言葉に、リンカが頷いた。そっと外した蓋のような物をつけ直し、少女の手に握らせる。そして柔らかく微笑んだ。

 その瞬間だった。


『――ト、……ライ』

「え?」


 頭の中に突如、声が響く。

 水の底に置き去りにされたような、冷く凍えた男の声だ。


『――リ……ト…………イ』

「……とろい、めらい……?」

 

 呟いた瞬間。

 手の中に収まった黒いそれがひとつ、脈を打った気がした。



「こンの、コソドロがっ」

 

 満つることを知らない少女の腹にボロボロのゴム靴の先がめり込んだ。生きるために必要な栄養すら得られない場所で育った、普通よりもずっと小さな細い体はいとも簡単に吹き飛び、硬い土の上を無抵抗に転がった。吐き出される咳が治まるのも待たずに、何度も何度も大人の足が振り下ろされる。 

 少女は抵抗しなかった。

 ただ急所を守るように丸くなり無抵抗に蹴られ続ける。下手に抵抗をするよりもこの方が早くことが済むと、わかっているからだ。

 そのうち、周囲にいた無関係な大人たちも数人そこに混ざってくる。日頃の憂さを晴らすように、彼らも一緒になって前から後ろから少女の体を殴り、蹴飛ばした。何度宙を舞っても、地面を転がっても、少女は泣くどころかうめき声ひとつ上げない。ただ、世の混沌を詰め込んだ真っ黒な目で虚空を睨み付ける。それが唯一の抵抗だった。

 弱い者を守るという思考は所詮、守る余裕のある人間にしか通用しないことを少女は長年の貧民街生活で悟っていた。そのような人間が、このどん底の世界にいるはずもないことも。

 本来であれば親に庇護され、周囲に見守られ、腹いっぱいに食事をし、学校に行って勉強をし、友人と遊び、温かな布団で眠り……命の心配などすることなく暮らしているはずの年齢だ。社会の何たるかも知らず、人間の汚さを知ることもなく、自らの将来に思いを馳せる。そんな年齢。

 そんな年齢で、少女は奪われ、虐げられ、大人たちに蹂躙じゅうりんされる存在だった。守ってくれる者など、どこにもなかった。

 生きるために奪い、生きるために痛みを受け入れた。そうしなければ自分の命を守ることもできない。

 世界から見放されたどん底では、弱い者は搾取の対象でしかないのだ。


「けっ、相変わらず気味の悪いガキだ」


 抵抗しない少女を散々になぶった大人たちは、少しは気が晴れたのかそんな言葉を残して次々と去って行った。やっと終わった、と徐に立ち上がった少女は痛む体を引きずってねぐらに戻る。何も得られなかったことを告げると、先に戻っていた仲間たちは残念そうな顔をした。


「仕方ない。川に行くか」


 仲間たちの中で一番年嵩のヒロキがそう言って立ち上がると、ほかの子どもたちも頷いてあとに続く。どうやら今日は、ほかの仲間もことごとく失敗したようだった。そもそも、成功するときの方が少ないのだが。


「ほら、行くよ」


 リンカが少女の右手を取って歩きだす。少女は何も言わず、促されるままに倉庫を後にした。

 川に行けば水がある。

 水があれば、少なくとも喉の渇きは癒やせる。

 無論、生水であるので病気の危険性は多分にあるが、限りなく細い綱の上を渡り辛うじて生きている状態の貧民街の子どもが、そんなことに構っていられようはずもない。残念なことに体の丈夫でない少女は川の水で何度も腹を壊し、動けなくなったこともあるが、それでもこの水を飲まねばならぬのだった。


「ヨモギがあるよ!」

「ダンゴムシもいた!」


 夕暮れの河原に着くと、皆それぞれに水を飲んだり食料を探し始める。リョウやカイト、仲間たちの中では一番幼いハナはきゃあきゃあと言いながら元気に河原を駆け回り、雑草をむしっては口に運んでいた。彼らと同じく年少の部類に入るであろう少女は、それを横目に見ながら草の根をかき分けていた。そろそろと歩いているワラジムシを一匹つまみ、そのまま口に放り込む。硬質な背中をかみ砕き、飲み込むと土の味が口いっぱいに広がった。美味いとは思わない。しかし美味い、不味いなどは二の次で、栄養を摂取するためにはどんなものでも食べるしかない。

 少女はふと、川の下流へと目をやった。

 大きな橋にいくつもの高いビル。走る車の窓は日に照らされて眩く光っている。その中心都市を囲うように家々の屋根が立ち並び、そこには人間という生物の正常な営みがある。

 彼らは薬で安全に仕上げた水を飲み、管理して作った食物で命を繋いでいる。安全で、清潔で、命を維持するためには困らない世界。人間のための世界。

 住人たちは、虫や草を道端で調達して食べるなど、考えもしないだろう。

 人間という生物は優越感でできている。

 自分が苦しくとも、さらに下を見て「あれよりはマシだ」と安堵して生きている。

 だから、底辺にいる者たちが必要なのだ。清潔な人間たちが生きていくために。

 そのために見捨てられた街と住民。

 そこに手を差し伸べる者はない。

 真っ暗などん底を見つめる好機の瞳はいくつもあれど、その視線が少女たちを捉えることはない。


「あ、ミミズ!」

「バッタ捕まえた!」


 少女は街へ向けていた視線を騒ぐ仲間たちの方へ戻した。

 清潔な街と同じ空気とは思えないほど淀みきった空気を、夕焼けの赤が照らしている。その中を仲間たちが駆け回る。

 どこかで虫が鳴いている。

 いくつも聞こえる音色は空気の淀みを裂くように美しく、夕焼けの赤を深く彩った。もうすぐこの辺りの草も枯れ始めるだろう。

 今年の冬は、生きて越すことができるだろうか。

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