03 痛み

 部屋に戻ってすぐ、サトルはその場に倒れるように横になった。部屋の奥に置いてあるベッドに入るのも億劫で、硬い床にそのまま丸くなる。着ていた長い黒外套は、部屋に入ると同時についた白熱球の明かりに溶けるように、いつのまにか消えていた。ゴトリ、とポケットに入れていた無線機が音を立てて床に転がった。

 ひどい疲労感が体に伸し掛かる。少しの寒さを感じるが、もう指の一本すら動かしたくなかった。

 このまま眠ってしまおう、と目を閉じる。

 落としていない灯りが目蓋に血の色を透かした。それを遮るように腕の間に頭を埋める。

 起きたら、シャワーを浴びればいい。

 マモルに見つかるとまた怒られるだろうが、食事は面倒だ。

 ただ、眠い。どうしようもなく眠いのだ。

 ゆっくりとほどけた意識が闇の中に落ちていく。甘く柔らかく腕を広げるそれに飲まれる寸前。視界の隅に一瞬、真っ黒な影が差した。

 急速に体の芯が冷える。動くことを拒絶していた体が素早く起き上がった。目は冴えて、頭は五月蠅いほど警鐘を鳴らす。「眠ったら死ぬぞ」と。

 それは長年の路地生活で身についた本能だった。

 気温が下がり野生の獣が活発になる夜に、深く寝入ってしまえば朝はない。見張りを立てたり、皆でくっついて暖をとったり……そうして無い知恵を絞っても、翌日仲間が隣で亡骸になっていることは珍しくなかった。路地に暮らす子どもは明日を迎えるため、おちおち安心して眠ることもできないのである。

 十年以上、そのような環境で生きてきた。

 そこで身についたものが、たかだか二年で消えるはずもない。

 壁にもたれ掛かり、再び目を閉じる。安眠はできずとも体を休めなければ仕事に支障が出る。それは本意ではない。

 怖いという感情は知らないはずなのに、本能というのは厄介だ。

 そんな事を考えながら、サトルは意識の半分を闇に溶かした。


 呼び出されたのは昼時を少し過ぎた頃だった。最下層の訓練室で自主訓練をしていたサトルは、ボスが呼んでいることを名前も知らない構成員から聞いた。自室で簡単に汗を流した後、スーツに着替え、裏のエレベーターで最上階に急ぐ。

 ビルに据えられているエレベーターは全部で四機。そのうち地下に続いているのは一機だけだ。その一機は昼間、地下の各階と地上一階、最上階にしか止まらない。こうすれば、昼の人間と夜の人間が交わらないという訳だ。

 重厚な扉の前に立つ二人の黒服に要件を告げ、ノックする。中から聞こえた「入りなさい」の声に「失礼します」と大きめの声で返答をして扉を開けた。


「やあ、サトルちゃん」


 執務用の上等な革張りの椅子に座り、笑みを浮かべて軽い調子で手を振る男――久月クヅキ郁刻フミトキの前に立ったサトルは、手を後ろに組んで足を肩幅に開き、深く頭を下げた。「顔を上げなさい」という柔らかい声に改めて姿勢を正すと同時に、もうひとつノックの音がする。


「入りなさい」


 入室許可の声に「失礼します」と礼をして入ってきたのは上司のマモルだった。いつも着ている外套はなく、捲られたワインレッドのワイシャツの袖からは細身ながらしっかりと筋肉がのった腕が覗く。彼は特に驚いた様子もなくサトルの右隣に並び、同じように足を肩幅に開いて後ろで手を組んだ。フミトキがそれを見て、「そんなに堅苦しくしなくて良いよ」と苦笑する。


「深い時間まで任務だったのに、またこんな時間に呼び出してすまないね」


 ニコニコと笑いながらフミトキが言うのに、二人は同時に「いえ」と短く返事をした。それに小さく「ありがとう」と返し、彼は言葉を続けた。


「君たち二人には先に知らせておかないと、と思ってね」


 よくない話だ、とサトルは直感した。

 何か根拠があってそう思う訳ではない。

 しかしそれは間違いではないと不思議に確信が持てた。よくない直感というのは、なぜかよく当たる。


「ギルドがねえ、動き出したみたいなんだよ。『月下の悪魔』―― つまり、サトルちゃんを狙って」


 背中が急に冷たくなる。

 ドクリ、とひとつ大きく鼓動が鳴った。

 ギルドが自分を探し始めた。それはそのまま、彼らとの直接対決が避けられないことを示している。敵対組織の中にいる人間を狙うとはそういうことだ。異能力者同士の直接対決を奴らは迷っていない。

 そして日常的に荒事を扱う戦闘と殺しの専門集団を相手に、表向きは平和的組織である組合が直接対決を挑んでくるということは。


「彼ら、海外の支部からも異能力者を呼んでいるみたいだね。もともとうちと違って戦闘に慣れていない人間が大半だから、その分、数を頼みにしようってわけだ」


 何でもないように放たれた言葉に、サトルは胸の奥に空いた真っ暗な穴に心臓そのものが強引に吸い込まれていくような深い痛みを感じた。それがじわじわと全身に染み渡っていく。

 理解を超えた得体の知れない感覚。

 そしてそれを置き去りにして暴走する脳は、悪い結果ばかりをはじき出す。

 組合と直接対決となれば、当然大規模な抗争になる。

 海外の人間も入ってきているなら人員的にはかなりの数の異能力者を揃えてくるはずだ。この組織にいる人間たちがいくら戦闘慣れしているとて、一般人が異能力者に勝てるとは思えない上に、数少ない異能力者にも犠牲が出る。そうまでして組織が自分を擁し続ける理由があるとは到底思えない。

 そう考えたとき。

 この組織にとって、最良の選択は――。

 そこまで考えて、サトルは足元が崩れていくような感覚を覚えた。咄嗟に下を見るが当然床に変化はない。


「そこまでして……なぜ今更?」

「うーん……恐らくだけど、二年前に君がサトルちゃんを連れ帰って来た時。あの時点で、ギルドは一度彼女を追うのを辞めた」

「『月下の悪魔』の被害が途絶えたから?」

「それもあったろうけど、大きいのはうちに取られたことだろう。向こうには〈地図〉の使用者がいる。見つけようと思えばいくらでも見つけられた」

「なるほど。手が出せなくなったからですか」

「そういうこと」


 暴走を続ける思考の外でサトルは二人の会話を聞いた。

 いつ「切り捨てる」という言葉が出るのかと考えながら、しかしその言葉が出ないことをどこかで願っていた。

 もし「切り捨てる」と言われれば自分はここにいられない。ここ以外に生きられる場所もない。また貧民街の片隅に、ひっそりと戻るしかないだろう。それが一番現実的だ。

 可能性を並べ立てながら、サトルは無意識に、冷たくなっていく指先を握りしめた。

 その間にも二人の会話は流れてゆく。


「君はサトルちゃんに人間としての生活を教える所から始めた。ちゃんと暮らせるようになってからじゃないと、任務にも連れて行かなかった。そこに一年半をかけたから、今なんだよ」

「半年待ったのは、本当にサトルなのかを確認するため、ですか」

「多分ね。うちにいるとなったらより一層慎重にならざるを得なかったんだろう。報復が怖いってことは、四年前の〈革靴〉の男の件でもわかっているだろうしね」

「だから、こちらの動向を窺いながら、水面下で手勢を招集してるってことですか……」


 そこで会話が途切れた。

 毛足の長い絨毯を革靴の底が撫でる音がする。

 マモルの驚く気配がした直後、下げたままのサトルの頭に温かいものが乗った。それはゆっくりと頭の上を動き回る。


「大丈夫。大丈夫だよ。見捨てたりしない。君のことは組織を上げて守る。だから、君はいつも通り任務をこなしてくれればいい」


 柔らかな声に顔を上げる。

 フミトキのヘーゼルの瞳が、目尻を下げてサトルを見ていた。温かな光がそこにはある。「大丈夫」と彼の赤い唇が繰り返した。唇だけでそれを追うと、暴走していた頭の中が不思議と落ち着いた。胸の深い痛みは消え、体が温度を取り戻す。

 父親とはこういうものなのだろうか。

 笑いながら頭を撫で続けるフミトキにされるがままの状態で、サトルは密かに考える。こんな風に頭を撫でられたことが遠い昔にもあったのだろうか、と。覚えてはいないのだが。


「ボス……今は俺たちだけですが、ほかの奴らの前では、あまり甘やかさないでくださいね」

「いいじゃない。小さいときに甘えられていない分、多少強引にでも甘やかしてあげた方が、情緒の発達にはいいと思うんだけど」


「ねえ?」と子どもにするように聞いてくるフミトキに、サトルは小さく「はあ」とだけ返す。そういう接し方はなんだか居心地が悪い。こんな風に言葉をかけられた記憶が無いからか、どうしたらよいのかわからないのだ。


「確かに、そこはもう少し育ってもらわないと困るところではあるんですけど……」

「でしょう? まあ、君の言いたいこともわかるよ。私があんまり構い過ぎると、君の直属の部下の座を狙っていた子たちの嫉妬を集めて、サトルちゃんの肩身が狭くなっちゃうもんね」

 

 最後にひとつ、ゆっくりとサトルの頭を撫で、フミトキは満足そうに執務机に戻る。革張りの大きな椅子に腰掛けると、鋭い目を二人に向けた。

 そこにいるのは、〈夜鷹ヨダカ〉のボスとしてこの北の港湾都市を裏側から支配する、文字通り鷹のような目をした男だった。

 

「『月下の悪魔』は渡さない。全面戦争に備えよう」

「「はい」」


 背筋を伸ばして答えた二人にフミトキは一度大きく頷き、「後で構成員全員に周知する」と固い声で言った。冷徹な覚悟の滲んだ声だった。

 深く頭を下げ、マモルが部屋を出て行く。それに続こうとしたサトルをフキトキが思い出したように呼び止める。


「ご飯はちゃんと食べないとダメだよ」


「お見通しだ」と笑ったフミトキに、サトルは釈然としないものを抱えながらも「わかっています」とだけ返した。そしてもう一度深く頭を下げ、今度こそ部屋を後にした。




 

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