「あらぁ、ロメオ。広場のこんな外れまで来るなんて、随分珍しいじゃないか」


 声をかけてきた少年へ驚いたようにいらえたのは、パン屋の女将・ノーラだった。ロメオ、と呼ばれた少年は、ちら、とヘーゼルの瞳を一瞬彼女へ這わせたかと思うと、逃げるようにぷいっと視線ごとおもてを逸らす。

 何かの感情を持て余すように唇を尖らせ、頬を膨らませているところを見ると、どうやら不機嫌というわけではなく、ただ単に年上の女であるノーラへどう接したらいいのか困っているようだ。


(アレか……オトシゴロってやつか)


 は、と笑いを軽く弾くものの、いまいち自分の中でロメオの感情への共感がしにくいのは、年上どころか超年増のクソガキ・・・・・・・・と生活を共にしていたという異例を経験していたから、という事に尽きるだろう。

 じぶんとは明らかに違う生き物である「女」というものへのありとあらゆる感情が、多感な時期にこの魔女によって植え付けられてしまっているので、率直に言うのならばアリス以上に厄介な存在でないのならば、その言動に動揺するという事がなくなってしまっていた。


「別に……。来たくて来たわけじゃないよ。この兄さんに、呼ばれたからさ」


 典型的な思春期真っ盛りであろうロメオは、口の中でもごもごと声を転がしながら、大きな瓶を両手に抱え、ノーラからの視線から逃げるようにレオニダスの前までやってくる。


「いくらだ?」

「三ルピ」

「おぅ」


 話題を断ち切るように訊ねてやれば、どこかホッとしたような感情が少年の頬に広がった。レオニダスは、唇だけで微かに笑うと、布袋から硬貨を三枚取り出し、少年の手のひらに落とす。

 チャリン、と涼しげな音を立てて、幾分くすんだコインが重なった。


「まいど」


 ロメオが視線でどこに注ぐのかと問うてきたので、アリスから奪い返したカップをレオニダスは一気に仰ぐ。

 音を立てて、少年の喉が原罪の名を持つでっぱりが上下した。

 ピリ、とした苦みが喉元を焼く感覚が、空からの陽射しで乾いた身体に心地いい。

 ぺろりと唇についた泡を舌で拭いながら、空になった杯をロメオへと差し出すと、白い液体がたぷんとそこへ注がれていく。


「ほら、アリス」

「うむ」

「零すなよ」

「たわけめ。迂闊なおんしと一緒にするでないわ」


 隣からそれを覗き込んでいた魔女へ揶揄いながら杯を手渡すと、一度菫色ヴァイオレットめつけられた。けれど、その後、くぴりとそれを飲んだ彼女の珊瑚色の唇は、機嫌良さそうに円弧を描く。


「うむ。程よく甘く、美味じゃの」


 これほど気候が暑くなってくると、レオニダスとしては甘ったるい牛乳なんかよりもエールの方が喉をするりと通っていくが、実年齢の割にお子ちゃま舌なアリスには、どうやらこの村のミルクはお気に召したらしい。


「そうさね。ロメオんちのミルクはここらじゃちょっと評判だよ」

「…………変わんないだろ、どこのも」

「何言ってんのさ。あんたんとこのミルクを生地に練り込むと、甘くっていいパンが焼けるんだから」

「……っ、それは別に、俺んとこの牛乳がいいんじゃなくて……っ」

「あら何だい? もしかして、あたしの腕がいいって言ってくれるのかい? 嬉しいねぇ」


 そう笑いながら、まな板からビスキュイをひとつ手に取ったノーラが、ロメオの口へとぽいっと放る。ころん、と入り込んだ硬いそれと一緒に、天邪鬼な言の葉が咀嚼音に噛み砕かれた。


「ふぅむ。喧しいわっぱを黙らせるおしゃぶりには、ぴったりじゃの」

「こっち見ながら、言うなっつーの」

「ほれ」


 ノーラの持つまな板から、ビスキュイをひとつ摘まんだアリスは、それをぽぉんとレオニダスへと放る。放物線を描いたそれを、やや身体を傾けながら口で受け止めた少年は、口内に広がる香ばしさに、咀嚼と共に口先まで出かかった悪態を飲み込んだ。

 やはり味はいい。

 が、やはり口の中の水分を取られていく感覚はあまり好ましいものではないし、小麦の質がいいだけに、正直これがパンでないというのは勿体なく感じるのは事実である。

 口内に貼り付くビスキュイの欠片を追いかけ舌を暴れさせていると、傍らの壊れかけた壁の上にちょこんと座るアリスの菫色の瞳と自身の琥珀アンバーがふ、と重なり合った。彼女の小さな手の中には、いまだその重みを残したままであろう杯。

 二度、三度、少女の長い睫毛が、白い頬を叩く。

 しばらくの、沈黙。

 そして――。

 グビ、と一気に、何事もなかったように、アリスがその杯の中身を飲み干した。


「って、おいっ!! わかんだろ!! 何年の付き合いだ!! よこせよ!!」

「わかっておるが、そもそも何で妾のものをおんしにやらねばならん」

「さっき俺のエール盗ったの、どこのクソガキだったか言ってやろうか?」

「過ぎた話をいつまでも……ほんにおしゃぶりが必要な童じゃのぉ」


 渋々といったていで、アリスは空になった自身の杯をロメオへと差し出し、横目で「ほれ。金」と訴えてくる。チャリン、と再び少年の手のひらで歌った三ルピと引き換えにした牛の乳を口へと含めば、流石にそこまで冷えてはいないものの適度な甘さが渇いた口内で溶けていく。


(美味いっちゃ……美味ぇけど、あ~、やっぱエールが飲みてぇ……)


 助けたことへの例とは言え、既にビスキュイにエールを一杯もらっている以上、流石にこれ以上ノーラに集る事は気が引ける。長く共に生きてきた連れである少女が図々しく尊大で我儘な気質であった為か、反面教師のようにレオニダスはその辺り、ひどく良心的に育っていた。


(居酒屋にでも行って、エール頼んでくっかなぁ)


 足を開きしゃがんでいたままの姿勢を、勢いをつけて立ち上がると、視線を周囲へと巡らせた。どうやら昼を求めに来た農夫たちは一通り、注文が済んだのか居酒屋の入口に並ぶ人間の姿は見えなくなっていた。

 テーブルについている人の数も減ってきており、食事を終えた者から各自、畑に戻っているのかもしれない。


(そーいや、ダニエルは……どうすんだろうな。午後はパン屋の仕事に戻んのか?)


 一瞬そんな考えが浮かぶが、直後に「違ぇな」と自身で否定する。

 一時的に農奴をしているという話だったし、戻ってから彼がしている事は竈の掃除であったり整備であった為、もしかしたら、と一瞬思ったが、そもそも小麦粉がないという話なのだから新しいパンは焼けないのだ。

 レオニダスは流していた視線を、居酒屋のすぐ横を走る石畳パヴェに差し掛かったところでぴたりとその動きを止めた。

 そこはそれ以降特に民家もなく、樹木が鬱蒼と生い茂る雑木林へと続く細い暗い路だった。

 そして、その先には――。


「つーかよ、話戻っけど。さっき小麦粉作れないとか言ってたけど、あっこの風車でも壊れてんのか?」


 レオニダスはその路――雑木林のさらにその先にある風車小屋を指さしながら、ロメオへと訊ねた。

 その近くには風通りを悪くするようなものは何ひとつない丘の上でぽつんと建てられた風車小屋は、それなりに羽が大きく、よく風を孕みそうな立派なものだった。

 小麦の備蓄がありながら、小麦粉が作れないという事は、つまり臼が使えない――風車が壊れているという事ではないだろうか。風車小屋は雑木林で仕切られた先にある通り、農村の一部として認識されてはおらず、領主の持ち物としての認識が強いものだ。

 壊れたからといって、勝手に農夫たちが修繕するわけにはいかない場所である。領主としても、そこが税収のひとつである以上、どうあっても直すべきであるとは思うが、時に修理の為の金を出そうとしないクズも存在する為、もしかしたら誰が直すべきかでモメているのかもしれない。

 けれど。


「壊れてるんじゃないさ」


 荷台に瓶を戻しながら、ロメオはぼそりと言葉を落とした。その横顔は、元より感情豊かというわけではなかったが、一層色のないものとなっている。


「壊れてんじゃねぇなら、普通に使やいいだろ? あ、使用料が値上がったとかで、風車小屋の人間と――」

「違う」


 少年に短く質問を叩かれ、軽く面食らったレオニダスに、ノーラが苦笑を滲ませた瞳を向けてくる。


「風車は特に問題ないはずだし、値上がったわけでもないんだよ。兄さん」

「じゃあなんで……」

「ずっと風が、吹かぬからであろ」


 壁に腰かけていたアリスが、ぴょん、とそこから飛び降りる。

 常ならば、豪奢な巻き毛の黒髪が空気を孕み、ふわ、と宙へと踊るような様が見えるはずだが、今日はどうにも流れるようなそれがない。上衣コット外衣シュールコーの裾も、翻る事なく彼女の足元へまとわりついている。

 まるで、透明な風によって、「動」を封じられたかのようだ。


「おや。アリスちゃん、アンタ気づいてたのかい」

「風通りのよい立地と季節と言うに、これほどまでに無風ならばな。気づかぬ方が、よほどの阿呆じゃ」

「……って、そりゃ俺の事か!」

「ふん。他に誰がおる。暑い暑いと弱音ばかり言うておった故、とっくに気づいているとばかり思っていたがのぉ」

「いや、初めて来た場所だし、仮に気づいたとしても今日はこんなもんか、くらいにしか思わねぇだろ!」

「妾は気づいたぞえ」

「あのな、てめぇと一緒にすんな!」


 この魔女が!

 内心で毒づくが、流石にこの一言は人前では言えるものではない。


「つか、いつからだよ? そりゃ自然相手のもんだし、吹かねぇ時もあるだろうけどよ」

「もうかれこれ、半年は吹いてないかねぇ」

「はぁっ!? 半年!?」

「まぁ実際、粉、引けなくなったのはここ一、二か月くらいだよ」

「そうそう。流石にこのままじゃ飢えるってんで、人力で風車動かしてた事もあったんだけどねぇ……」


 ノーラの話では、村の人間が持ち回りで風車を回して粉を引いていたが、元より風車小屋の番人は領主への税を掻き集める立場であり、農夫たちとの関係があまりよくない。人力で風車を回さねばならないと言うのに、使用料は当然のことながら今まで通り徴収されていく。

 その事に不満を持った農夫たちが、ならば風車は金輪際使わないと言い捨て――そして、現状に至るというわけだ。


「風車、使わねぇって言い捨てた奴、さっきのドニってやつらだろ?」

「あはは。正解」

「てめぇたちで小麦粉作れねぇ原因作っといて、パン屋に文句言ってくるって、結構なクズだなおい」

「まぁノーラさんたちに文句言うのは筋違いだけどさ。でも実際、風車小屋が粉を引けないってんじゃ、そもそもの原因はそっちにあるって話にもなるだろ」


 やはり、もう少し痛い目を見させておいた方が良かったか、と呟くレオニダスに、冷や水でも浴びせるようにロメオが先ほどよりも温度の下がった榛色の瞳を向けてくる。


「ロメオ……、アンタそれは……」

「何だよ。だって、事実だろ……。風車小屋が、仕事してないから、ノーラさんたちだって困ってんじゃないか」

「けど、それは……ユーリエが、ユーリエだって……悪いわけじゃないだろ……」


 勝気そうなノーラが、眉根を軽く寄せ、その表情を軽く沈ませた。

 その声と、おもてに、気まずそうに逸らされた少年の横顔には、自身の発言を悔しがるかのような色があった。


「ユーリエ……??」

「話の流れからすると、あの風車小屋の番人じゃろうな」


 丘の上で、呼吸を忘れた風車小屋を見つめるレオニダスの隣に、黒髪の魔女が並ぶ。

 日頃、僅かな空気にふわりふわりと踊るその黒髪は、今日は少女の小さな背にさらりと流れるばかりだった。


「んじゃ、そこ行ってみっか」

「いつから行き先を決められるほど、おんしは偉くなったんじゃ」


 そう言った幼い魔女の革靴ブーツは、その第一歩を風車小屋へ向ける。

 けれど。

 レオニダスの琥珀の瞳は、アリスの大きな瞳を彩る長い睫毛が、風車小屋ではなく、そのさらに先にある領主館へと向けられている事を捉えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

朝焼けの獅子と夜明けの魔女 笠緖 @kasaooooo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ