第13話

駅に戻る途中で心配していた雨が降り始めた。天気予報を信じていたせいで、あいにく傘は持ってきていなかった。小走りに駆けながら雨宿りできる場所はないかと探すと眼の端に喫茶店の低いスタンドが映った。今、東京では絶滅危惧種になってしまった古ぼけた、昔からあるような小さな喫茶店だった。白いペンキが剥がれかけた扉を開け中に入ると、坊主頭で背の低い、蝶ネクタイに年代物のタキシード姿の喫茶店のマスターが、

「いらっしゃい」

とカウンターの向こうから声を掛けてきた。

雨に濡れた服の雫を手で払いながら壁を見るとモーニング五百円と書いた貼り紙が眼に入った。

「モーニングはまだできますか」

そう聞くとマスターは時計も見ずに

「大丈夫ですよ。飲み物は何にします」

と答えた。アイスコーヒーを頼んで、鞄からサイトウの写真を何枚か取り出すと僕は陶器製のテーブルの上にひろげてみた。

サイトウ、君はこの町のどこに住みどんな生活をしていたんだ。斎藤さんの本当の父親はいったい誰で、今何をしているんだ。僕はサイトウの写真に問いかけた。どうしたら僕はそれを知ることができるのだろう。君はきっと僕と同じようにセピア色の記憶を他の誰かに残している筈なのだ。その人たちに会うことさえできれば・・・。警察は何かを教えてくれるだろうか?或いは不動産屋を調べればもしかしたら彼女に部屋を斡旋したところが見つかるかもしれない

水を運んできたマスターがテーブルにグラスを置こうとして、ふと僕がひろげていた写真に眼を止めた。

「あれ、これユキちゃんじゃないか?」

素っ頓狂な声を出して僕を見つめてきたマスターの言葉に僕は思わず席から立ち上がった。重い椅子の脚が浮き上がって、がたんと床にぶつかって音を立てた。

「この人をご存知なんですか?」

尋ねた声が上ずっているのが自分でも良く分かった。

「知っているも何もうちの店でバイトをしていた娘だからね。斎藤由紀子ちゃんでしょう?おおい、母さんちょっと来なさい。ユキちゃんの知り合いの人が来ているよ」

ばたばたと階段を駆け下りてくる足音がしてピンク色のエプロンをつけた小柄な奥さんが店の奥から現れた。

「ほんとうかい」

そう言いながらその奥さんは突進するかのように駆け寄ってきた。

「ほら、この写真、見てごらんよ。ユキちゃんだよ」

奥さんが旦那さんの脇から写真を覗き込む。僕は持っていた残りの写真も鞄から取り出して渡した。二人は次から次へとそれを熱心に眺めた。

「ずいぶんと小さなころのユキちゃんだね。昔から綺麗な子だったんだ。ちゃんと面影があるよ。懐かしいね」

奥さんがそう言うと二人は揃って尋ねるような眼で僕を見た。

「そうですか、サイトウはここでバイトをしていたんですか」

そう言った僕に奥さんが畳みかけるように尋ねてきた。

「ユキちゃん、今、どうしているの。あんなことがあったからねぇ。心配していたんだよ。手紙や年賀状も四、五年くらいは来てたんだけど、ふっつりと来なくなっちゃたし」

「彼女は亡くなったそうです」

僕が答えると奥さんは口を手で押さえて、

「まあ」

と小声で叫んで旦那さんの方を振り向いた。

「まだ若いのにどうして」

僕は二人に自分がサイトウの中学生の時の友達であること、サイトウの娘さんと偶然知り会いサイトウの学生時代のことを調べるためにサイトウが通っていた大学を訪ねたことを手短に話し、最後にサイトウが十年前に白血病で亡くなったことを付け加えた。その間中二人はぴくりともせずに僕の話を聞いていた。

「お店の方は大丈夫ですか」

気になってそう尋ねるとマスターはちらっと後ろを振り返った。窓際で一人の学生が熱心に漫画を読んでいたがそれ以外に客の姿はない。

「大学が休みだからね。ほとんどお客さんも来ないんだ。あ、でもそう言えばあなたの注文をまだ作ってなかったね」

慌ててカウンターの奥に戻っていったマスターがモーニングセットを用意している間、奥さんは僕の隣の席に座ってサイトウの写真を手に取って今度はゆっくりとめくりながらしみじみとした口調で呟いた。

「そう、ユキちゃん亡くなっちゃたんだね。だから連絡が来なくなっちゃったんだ」

しばらくしてマスターが持ってきたプレートにはゆで卵とバターを塗ったトースト、それに緑色をしたジャムのようなものが添えられていた。トレイに一緒に小ぶりのサラダとアイスコーヒーがのっけてある。

「悪かったね、遅くなって」

そう謝ると旦那さんは僕の真向いの席に腰を掛け最後まで話を聞くぞ、と言う態勢を取った。

「ユキちゃんがいたときは休みでもユキちゃん目当てにけっこう学生さんたちが来たもんだけどね」

奥さんはがらがらの店の中を見回して残念そうに言う。

「人気者だったからなあ、ユキちゃんは」

「あんなことになっちゃってね」

あんなことというのはなんだろう?

「サイトウにいったい何があったんですか」

二人は顔を見合わせた。

「じゃあ、ご家族の方にも話していなかったんだね」

「僕の知っている限りでは家族はご存じないと思います」

そう答えるとマスターはふっと溜息をついて奥さんを見た。

「そうかい、話しにくかったんだろうね」

奥さんはちょっと目を伏せて、そうだね、と小さく呟いた。

「食べながらでいいから聞いてあげてよ、ほんとうに可哀想だったんだよ」

プレートに添えてあったジャムのようなものはピクルスを細かく刻んで蜂蜜に漬けたものだった。バターを塗ったトーストによく合っていて思わず、これおいしいですねと褒めると夫婦は悲しそうだった顔に漸く小さく笑みを浮かべた。

マスターが促すと奥さんが話しはじめた。サイトウはこの店で知り合った同じ大学の学生と一年生の秋に付き合い始めた。彼は経済学部の学生でやはり地方から横浜に出てきた学生だった。サイトウとその学生が付き合い始めたことを知っていたのは、喫茶店の夫婦が知っている限りでは自分たちだけだったそうだ。

「相手が店のお客さんだったから私たちに話したんだろうけどユキちゃんは秘密にしていたがっていたし、うちもユキちゃん目当てで通ってくる人をがっかりさせたくなかったんだ。でも気づいた人はいたかもしれない。彼が来るとユキちゃんの顔が眼に見えて明るくなったからねぇ」

マスターは苦笑いをしながら頭を掻いた。

「一度だけ、本牧でユキちゃんが相手の男の子と二人で歩いている所を見たことがあった。お似合いの二人だったよ。名前は確か・・・原口亮平君と言ったかな」


奥さんが、ほらあんたが続けてお話しよ、とマスターの方を見て言った。あんたの方が良く覚えているじゃないか。あたしゃ、相手の名前なんて忘れちまっていたよ。 マスターはもう一度頭を掻くと、そうか?と奥さんをじろりと見て、

今でこそ横浜なんていう洒落た所に住んでいて気取ってるようだけどもとは東京の浅草界隈で育ったもんだから長い話をすると地が出ちゃうけどね。じゃあ、あたしの方が話しますか。十七年も前のことだからね。細かいところは良く覚えていないし、違うところがあったらお前も言っておくれよ。

最後に奥さんにそう念を押してからマスターは話し始めた。


あれはもう十月も終いの頃だったかな。天気のいい日だった。あたしはいつも六時には起きるんだけどその日は寒くていつもより早く眼が覚めたんだ。店の前を掃除して、モーニングセットの下拵えをしている時に電話が鳴って、こいつ、といいながら奥さんを指さした、が電話に出たんだ。

「まあ、ほんとうなの?うん、じゃあ今日は休みなさい。何かあったら電話をするんだよ」

話す調子で相手がユキちゃんだって分かったよ。

「ユキちゃん、何かあったのかい」

こいつに声を掛けたら

「なんでもユキちゃんのボーイフレンドがオートバイで事故を起こして病院に運ばれたそうだよ。警察から電話があったらしいよ」

「それでけがはどんな様子なんだい」

あたしは相手の男の子が店のお客さんだし、心配でそう聞いたんだけど、

「ユキちゃんが病院に行けば分かるんじゃないかい」

ってこいつが口答えをするからちょっとムッとしたんだ。どんな事故かを全然話さないっていうことがあるかいって、そう思ったんだよ。悪い予感はしたんだ。バイクの事故っていうのは車と違って生身の事故だからただじゃ済まないだろう。それに時間が早い。スピードが出せる時間帯の事故は大きいものだからね。

ユキちゃんが来ないと人手が足りないから、その日は忙しくなるのを覚悟した。代りに来てくれる子なんていなかったからね。だから取り敢えず心配は脇に置いておいていつもより手早く準備を済ませた。何にしろ連絡くらいあるだろう、くらいに思っていたんだよ。

だがお昼を過ぎてもユキちゃんから電話は来なかった。

「どうしたんだろうね」

だんだんと心配になって来たんだろう、こいつがそう言うから

「何かあったら連絡があるだろう。バイクの事故だからな。骨折かなんかで手術くらいは覚悟しなけりゃならないし、付き添っているんじゃないか」

って答えたことを覚えているな。でも、それはあたし自身を安心させるためのものだったんだよ。

その頃は携帯電話なんて言うのは今みたいに普及はしていなかったけれどその代り病院みたいなところには必ず公衆電話があったから電話が来ないっていうのも変だなとあたしも思っていたんだ。


ユキちゃんがいないと知ると学生さんたちはさっさと店から帰っちゃってさ、現金なもんだと思っていたけど、ほらあの化粧品屋のユウコさん、ユキちゃんがよく行っていたあのお店のユウコさんが一時半ころに店に来たじゃないか。

「あら、ユキちゃんは」

って聞くから、

「友達がバイクで事故を起こしたみたいで、今日は休みだよ」

ってあたしは答えた。そしたら、ユウコさんが右手の小指を動かして

「友達って・・・これ?彼氏?」

って尋ねた。いやらしい指の動かし方だって思ったけど黙っていた。

「バイクだったら男の子だよね」

「まあそうなんじゃないか」

「そりゃあ、心配だね」

どっちが心配なんだ、事故のことなのか、ユキちゃんのことなのか、って思ったね。

「ユキちゃん、美人だからね」

ぼそっとそう言ったから、事故のことを言ってるんじゃないな、と分かった。あたしがユキちゃんのことを自分の娘のように可愛がっているのを知っていてそんなことを言うから業腹だったんで覚えているけどね。

夕方も過ぎて、夜になっても電話が来ないんでさすがにあたしも本気で心配になってきた。

「どこの病院か言わなかったのかい」

って聞くとこいつが

「聞いておけばよかったね」

悔やむように言ったから、間が抜けてやがると思ったけど我慢したんだ。ユキちゃんの家にも何回か電話を掛けたんだけど出なかった。最後には大家にも電話を掛けて確かめてもらったんだけどユキちゃんは戻っていない様子だって言うんだ。

結局その日はユキちゃんと連絡が取れなかった。よそよそしいじゃないかと思ったり、事故とは別にユキちゃん自身に何かあったんじゃないかって心配になったりした。けど、ユキちゃんにはユキちゃんの考えもあるんだって呑みこんで、その日は寝ることにしたんだ。あんまり寝つきはよくなかったね。何か思いもかけない悪いことがユキちゃんの身の上に起こったんじゃないかって、悪い想像ばっかりが頭に浮かぶんだ。こいつもベッドに入ってから寝返りばかりしていたからおんなじ気持ちだったんじゃないかな。

次の朝もまあ、六時には起きて店のシャッターを開けたんだ。そしたらシャッターの向こう側にユキちゃんが膝を抱えて座っているじゃないか。驚いたね。

「どうして、入って来ないんだ」

そう叱ったら、まだ起きていないんじゃないかと思って、と言って膝を抱えたままでユキちゃんは答えた。そんなの気にするなってまた叱ったんだけど、もう朝晩はコートが必要な時期だ、いつからそこに座っていたのか知らないけど手を取った時にずいぶん冷たかった。それで暖房をつけるとユキちゃんを毛布にくるんだ。

「ごめんなさい」

ユキちゃんは謝ってばかりいたね。

「それで、どうしたんだ、事故の方は」

ユキちゃんは俺とこいつのことを見ると、涙を一つぽとんと落とした。あんなに大粒の涙ってそれまで見たことがなかったね。

「彼、死んじゃったんです」

「えっ」

あたしはそれしか言葉が出なかった。こいつも目玉が飛び出そうな顔をしてユキちゃんを見ていた。それからユキちゃんの手を取ると優しく言った。

「どんなだったんだい。話してごらん」

女なんてのはすぐに現実に寄り添えるもんだね。

ユキちゃんの話では警察から電話で大きな事故だって分かったそうだ。俺はこいつを睨んだね。ユキちゃんの話し方一つでそんなの気が付きそうなもんじゃないか。でもそんなことを女房と言い争ったって仕方ない。ユキちゃんの恋人は何かを避けようとしてハンドル操作を誤った。ガードレールに衝突して全身を地面に打ちつけて頭と首を強く打ったのが致命的だったんだ。警察からはユキちゃんと大学に連絡があったんだそうだ。彼とユキちゃんは互いに連絡先にして手帳に書いておいたんだね。

御両親には大学から連絡が行ったんじゃないかな。仙台に住んでいた御両親がついたのは臨終ギリギリだったらしい。御両親がついてからは愁嘆場だったらしくて、まあ、それはせっかく苦労して育てた子供が自分より先に亡くなっちゃったんだから仕方ないね。ユキちゃんは悲しんでいる暇もなかったらしい。ユキちゃんのことをご両親はたまたま居合わせた人かなんかと勘違いしたんだろうね。さっそく息子の亡骸を仙台まで運ぶ手配をしてそのまま一緒に乗って仙台まで帰っちまった。ろくろく挨拶もできなかったってユキちゃんは言っていた。

取り残されちゃったユキちゃんは警察に場所を聞いて事故の現場に行ってみたそうだ。海沿いの一直線の道路でね、事故のあった場所は片づけられていたけど、ガードレールはひん曲がっていて小さな花束が置いてあったそうだ。ユキちゃんも駅のそばの花屋で買った花束をそこにおいて、ガードレールを何回も触ったっていっていた。そしたらどっかから小さな白い子猫が寄って来てね、足元でみぃみぃ啼いたんだそうだ。もしかしたら彼はこの猫を避けようとしたんじゃないかってユキちゃんは思ったそうだ。邪険にもできないけど、頭を撫でる気にもなれなくて辛かったって言っていたよ。家に帰る気にもならずに日が暮れるまでそこに居て、それからずっと歩いて店まで来たんだって言っていた。泣きながらずっと歩いてきたんだろうね。ずいぶんと距離もある。電話をかけてくれれば車で迎えに行ってやったのにさ。本当に悪い男とかと会わなくてよかったよ。

でもあたしらがほんとうにびっくりしたのはユキちゃんが、

「わたし彼の子供がお腹にいるんです」

って言った時だった。まさかそんな関係になっているとは思ってなかったし、ユキちゃんはどちらかというと奥手だと思っていたから事故の後じゃなかったらあたしは叱っていたかもしれないし、がっかりしたのかもしれない。つわりでもありそうなものだけど女房も全然気が付かなかったって言っていた。でもあの二人は結婚を考えていたんだろうね。ユキちゃんは人生を真面目に考えている女の子だったからね。

その時ふっとユキちゃんの結婚式の姿が目に浮かんだんだ。招待されているってわけじゃないけど、もう見られないんだなぁ、なんて思っているとこいつが

「じゃあ、あんた夜中歩いたりしてそんな無理をしちゃだめじゃないか。いったい何ケ月なんだい?」

って尋ねるんで、ますます女は現実から物事を考えるんだって思ったな。男にはできない芸当だよ。

「三か月目です。もし、この子が流れちゃうならそれが運命だって思ったんです。それなら私、きっぱり忘れてしまおう、でもちゃんと生まれてくれればいつまでもこの子を一人で守って行こうって思ったんです」

こいつがユキちゃんを抱き締めてそれからユキちゃんのお腹をさすっていた。

「そんなことしちゃダメじゃない。大丈夫なの」

涙を湛えたまま頷いたユキちゃんを抱き締めてこいつも泣き出したんだ。

それでも一人で子供を育てるなんて大変だ、自分のご両親にも向こうのご両親にも話した方がいいんじゃないかってあたしらは言ったんだけど、ユキちゃんは向こうのご両親には話す気はなかったみたいだった。何か病院であったのかもしれないし、子供を取られちゃうかもしれないって思ったのかもしれない。そこんところは話してくれなかったな。新潟のご両親には叱られるだろうけど話すって言っていたからまあ、それでいいかとあたしらは納得したんだ。

とにかくその日はうちに泊めた。しばらく泊まっていきなよって勧めたんだけど、翌朝ユキちゃんは一度田舎に帰りますって言った。天気予報で北陸は嵐って言っていたから一日待ちなよ、と止めたんだけどユキちゃんはどうしても帰るって言って聞かなかった。アパートも引き上げるっていうから、もう帰ってこないのかいって尋ねたら、ユキちゃん首を振って子供が生まれるまでは休学します。お世話になりました。急に辞めるんでご迷惑を掛けますって、まあその時はユキちゃんはにっこりとして言ったんだ。とんでもないって答えたんだけど正直なところなんだかがっかりしちゃったな。

学校に戻ってきたらまたここで働きなよってそう言ったんだけどね、結局ユキちゃんを見たのはそれが最後ってことになっちまったんだ。故郷に帰るときはどんな気持ちだったんだろうね、ユキちゃんは。それを思うと可哀想で仕方ないよ。


大きなため息と共にマスターは話を終えた。

「それから一度も会えなかったけど、暫くはときどき手紙が来てたんだよ」

奥さんは涙をハンカチで拭きながらそう言った。

「子供が生まれたときはうれしそうなはがきが来たのだけど」

「その子供が僕が出会った聡子さんという子です」

と僕が言うと二人は眼を見合わせ

「そうそう、聡子ちゃんと書いてあったねぇ。名前の通りで賢そうな赤ん坊だった」

と頷きあった。

「彼女はいま東京に住んでいます。彼女にも今聞いたお話を聞かせて貰えないでしょうか」

もちろん、と二人は首を大きく振って頷いた。

「良かったら会いたいね。ユキちゃんにそっくりなんだろう。懐かしいよ。ぜひ会いたいものだね」

そう言って奥さんは眼を輝かせた。お昼時になって四人のグループが店に入って来たので席を立って仕事に戻ったマスターは立ち去り際に

その娘さんに来てもらってよ。店のカードを持って行ってくれれば場所もわかりやすいと思うよ」

そう言ってレジを指でさした。手作りの紙箱の中に入っていたカードを一枚ポケットに滑り込ませ、勘定はいいという二人に押し付けるようにして支払を済ませると僕は店を出た。雨は嘘のように止んでいて、雲の間から再び現れた太陽は地面を蒸すように照りつけていた。

後にしてきたばかりの古ぼけた喫茶店を僕は振り返った。サイトウの大学時代がこの店にはいっぱいに詰まっているのだろう。それを斎藤さんが知ることで何がどう変わるのかは僕には分からなかった。でも彼女はきっと知りたいに違いない、いや知るべきなんだろう。そしてきっとその事実を呑みこむことによって彼女は一歩進めるに違いない、そんな気がした。

雨上がりの地面からゆらゆらと陽炎が僕の眼の前に立ち昇っていた。



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