第14話

その日の晩、僕は斎藤さんにメールを打った。色々考えたけど、結局送ったメールはシンプルなものだった。

「偶然ですが、あなたのお母さんがアルバイトをしていた店を見つけることができました。店の人からあなたのお母さんの事やお父さんのことも詳しく聞きました。メールでお知らせすることも考えたけど、ちゃんとお話しした方がいいと思います。その気になったら連絡ください。お会いしましょう」

送信ボタンを押すと、電気の消した部屋の中でそこだけが明るい携帯の画面にハトが現れ封筒のマークを咥えて飛び立っていった。スマホを伏せると、真っ暗になった家で僕はしばらく蹲って膝を抱えながら斎藤さんの返事が来るのを待っていた。けれども斎藤さんからの返信はその夜のうちには来なかった。

夜が明ける前についうとうとしたが、うたた寝から目覚めてもまだ返信は来ていなかった。

 僕は何か間違ったのだろうか?昼前になるとじっとしていられなくなって僕は前田さんの店に足を向けた。まだ早いせいか客はいなかった。

前田さんは僕の腕に巻かれた包帯を見ると、

「いったいどうしたの。大丈夫?」

心配そうに寄ってきた前田さんに、いやちょっと自転車にぶつかってと適当にごまかすとお昼のおすすめパスタを注文して、

「あの女の子のことだけど」

と相談をもちかけた。

「ああ」

前田さんは座っていいかなと眼で尋ね僕は頷いた。パスタは遅くなっても構いやしない。雨宿りに立ち寄った喫茶店がサイトウがバイトをしていた店だったことを話すと前田さんは感嘆したように言った。

「そりゃあ、あの子のお母さんが降らせた雨だね。偶然じゃないよ。そんなことってあるんだなぁ」

僕も頷いた。サイトウの魂が僕らを見ていてときどき僕らの所に降りてきては手助けしてくれている、そして私はまだここにいるよと伝えている、そう思えたのだ。

テーブルの上のトールグラスに挿してあったグリッシーニを一本取ってそれを齧りながら、どうやって彼女の父親の死を伝えるのがいいか相談し始めた時、三人連れの女の子たちが店に入って来た。屈託なさげに座るなり甲高い声で会話を始めた彼女たちの所へ行って注文を取ると前田さんは僕の席に戻ってきて

「まあ、もう少し待ってみるしかないね」

そう僕を慰めるように言ってから厨房に入って行った。

三人の女の子たちはずっと喋り続けていた。まるで話が途切れて訪れる沈黙を怖がっているかのようだった。お勧めのアンチョビ入りのペペロンチーノとサラダを食べ終える頃には更にもう何組かの客が入ってきていて、僕は前田さんとそれ以上話すことを諦めて家に戻ることにした。店を出るなり夏の日差しが容赦なく僕に降りそそいだ。その日も暑い一日になりそうだった。

 家へ帰るその途中でポケットの中でスマホが鳴った。取り出して画面を覗くとハトがオリーブの枝と封筒のマークを咥えて斎藤さんのメールを運んできていた。思わず道に立ち止まりメールを開いていると、前から歩いてきた中年男性が迷惑そうに僕を避けた。道路の端に移動してから僕はメールをゆっくりと読んだ。

「返信が遅くなってごめんなさい。どんな話なのか想像してちょっと時間を頂きました。辛いことだとまた泣いちゃうかもしれないから。でもやっぱり直接会ってお話を伺いたいです。母がアルバイトをしていたというお店の事も詳しく聞きたいです。ご都合のいい時を教えてください」

僕はすぐに返信をした。

「今からではどうですか。この間ランチを一緒に食べた店の近くにいるので」

今度は即座に返信が来た。

「わかりました。三十分くらいしたら行けると思います」

「了解、待っています」

そう返事をして僕は前田さんの店に引き返した。中に入ると、いらっしゃいませ、と言いかけた前田さんが訝しげに僕を見た。

「彼女から返事が来ました。ここで会うことにしていますけど、いいですか」

「あ、そうなの。良かったね。ぜんぜん構わないよ。あの子が来るまでは店を開けておくよ」

前田さんの顔が柔らかく綻んだ。僕はまだ片づけられていなかったさっきの席に戻った。喋り続ける三人組の女の子たちはまだ居たけれど、僕が店に入って十分ほどすると出て行った。小一時間ほどして、最後の客が店を出て行ったすぐ後に斎藤さんはやってきた。ランチのラストオーダーの時間は過ぎていた。

「いらっしゃい。まだ大丈夫ですよ」

背をかがめて不安そうに入ってきた斎藤さんに前田さんが優しい声を掛けた。

「あ、どうも。遅くなって済みません。本当ならもう閉める時間ですよね」

斎藤さんは申し訳なさそうにしながら前田さんに挨拶をした。前田さんは、外に出て行って閉店の札を掛けるとハハハと笑いながら戻ってきて斎藤さんを僕の席の方に誘った。

「前、会った時より元気そうだね」

「そうですか。でも・・・西尾さんが私のせいで・・・」

そう言いかけた斎藤さんを目で制し、

「写真を撮ってきたんだ、店の」

と僕はスマホを彼女の前に置いた。店を出るときに撮ったマスター夫婦の写真と帰りがけに撮った建物の写真を斎藤さんは熱心に覗き込んだ。

「可愛いお店」

そう呟くと、斎藤さんは視線を上げて、ふと呟くように

「父は亡くなっていたんですね」

と言って僕を見た。僕は目を瞠り、前田さんは居心地悪げに、

「じゃあ、水を持ってくるね」

とそそくさと厨房の方へ引き上げて行った。

「なんで・・・」

問いかけた僕に彼女は悲しそうに微笑むと、

「メールを見てなんとなく分かりました」

と答えた。

「ごめん、分かるような書き方をしてしまったんだ」

「そんなことありません。西尾さんには本当にお世話になっちゃって。それに父のことは、本当のことが分かればそれでいいんです。亡くなっていたというのはちょっとショックでしたけど、でも産まれてから一度も会ったことのない人でしたからあまり実感が湧かなくて」

「そう、そうかもしれないね」

「でも、少し嬉しかったこともあるんです。西尾さんのメールを見て、その事が分かったこと・・・。きっと西尾さんならこういう書き方をするんだろうな、って分かったこと」

「・・・」

「お話、聞かせてください」

斎藤さんは黙り込んだ僕を見つめると静かにそう言った。

「うん、わかった」

僕はサイトウが通っていた大学を訪れ事務室で話を聞いてきたことから話し始めた。その帰り道で雨に降られて立ち寄った喫茶店でお母さんの写真をテーブルに置いていたら店の人が気づいたんだ、というと斎藤さんも驚いたようだった。

「そんな偶然ってあるんですかね?」

「さっき前田さんともそう話していたんだ」

と言って厨房の方を指さすと、前田さんが軽く手を振って肯った。

それからマスターから聞いた彼女の父親の事故の話をした。ただ事故のあとでサイトウがもし子供が流れたら仕方ないと思うと口走ったことは伏せておいた。斎藤さんはときおり頷きながら、僕の話を目を真っ直ぐに見ながら聞いていた。

「君のお父さんは原口亮平さんと言う名前だ。その人のことはまだ調べられると思うし、もしかしたらその人のご両親、つまり君の父方のおじいさんやおばあさんにあたる人はご健在かもしれない。どうする?」

斎藤さんはゆるやかに首を横に振った。

「母もその人たちのことに私のことを話さなかったんです。きっと理由があったんだと思います。だから私も会おうとは思いません」

「でも・・・もし、会いたくなったら、協力するから言ってね」

そう僕が言うと、斎藤さんはにっこりした。

「そうします。でもそんなことが分かったら向こうの方々もびっくりするでしょうね」

「ご飯は食べたの、何か頼もうか?」

「いただいてもいいですか」

斎藤さんの言葉を聞いて、厨房にいた前田さんを呼ぶと前田さんは彼女にパーフェクトな笑顔を向けて、

「何にします。なんでも作るよ」

と尋ねた。

「デザートだけでもいいですか。お昼はメールを読んだときはもう済ませていたんで」

「もちろん」

「じゃあ、このカタラーナと紅茶をください」

「いいですね。うちのカタラーナはおいしいですよ」

前田さんは恭しく斎藤さんからメニューを受け取ると、

「暇があったらうちでバイトしてみないかい?その喫茶店でお母さんがバイトしてお客さんが増えたって聞いたからさ」

「え・・・いいんですか」

「もちろん。もしかしたら食材探しの旅行でイタリアに連れて行ってあげれるかもしれない」

「素敵・・・でもシチリアに西尾さんに連れて行ってもらうことになっていますから」

「え、もうそんな約束があるの?」

前田さんは驚いたように僕を見ると、チッチと舌を鳴らして

「こんな仕事もしていない男より僕の方が贅沢をさせてあげられるよ」

と嘆くように言った。

「仕事をしていないわけじゃないよ。まだお金にはならないだけだ」

そう言うと前田さんは人差し指をたてて左右に振りながら

「お金にならない小説を書いているのは仕事じゃないよ、趣味だよ」

とがっくりするようなことを言った。反論できずに思わず口を閉ざした僕を面白そうに眺めると今度は斎藤さんの方を向いて

「西尾くん、唯一の友達だった女の子が外国に行っちゃったんだよ。可哀想な奴なんだ。しばらく付き合ってあげてね。社会復帰ができるまでで構わないからさ」

と、更に余計なことを付け加えた。

「そうなんですか」

斎藤さんは紅茶のカップをかたりとソーサーに戻して僕を見た。

「うん、この間ねヨーロッパに行っちゃった。しばらく帰ってこないみたい」

斎藤さんは僕がテーブルの上においたスマホをじっと見た。そこにひまわりの花が咲いていた。

「待受けの画面を替えたんですよね。前はその人の写真だったでしょう?」

「あ、そうだけど」

「綺麗で明るそうな人だな、って思っていました」

「うん・・・見たんだ・・・」

「この間東京駅で西尾さんが電話を取った時に見えちゃったんです」

「そうか」

僕は呟いた。

「ごめんなさい。覗き見しちゃって」

「いや、いいんだ」

「淋しいんですか」

「彼女とは友達だったからね。淋しくないって言ったら嘘になるけど。でも人はいつか飛び立っていく」

そう言ってから、あ、そうだ、と僕が喫茶店の店のカードを渡すと斎藤さんはそれを両手で大切そうに受け取った。

「この店で母は働いていたんですね」

「小さいけど感じの良い店だったよ。君のお母さんもお店の人たちにも大事にしていてもらっていたようだった。君の本当の父親のことも知っている」

「そうですか」

「お父さんの事はこれではっきりしたね。亡くなっていたのは残念だけど、でもちゃんとした人だった。良かったね」

僕の言葉に斎藤さんはしっかりと頷いた。

「病気の事はまだ気になる?」

「それはお父さんに話してお医者さんに診てもらいました。本当に遺伝する病気ではないみたいです。念のため検査してもらいましたけど大丈夫だって。将来のことは分からないけど、時々検査を受けることにします」

そう言うと斎藤さんは僕に向かって深々とお辞儀をした。長い髪が揺れ、顔を上げたときに斎藤さんは両方の髪を束ねるようにしてくるりと右手で結んだ。そこに現れた耳の形を見たとき僕の心は思いがけず強く揺すぶられた。

「やっぱりわかるんですね」

斎藤さんはため息をついた。

「母と違っているでしょう。ほくろだけじゃないんです」

サイトウと寸分と違わない目鼻立ちなのにただ一つ、耳の形だけはサイトウと違っていた。サイトウは楕円形のどちらかというと縦長の耳だった。それは今でも目に焼き付いているし、写真でもいつもピンで留めた髪の横で耳を出していた。

 でも・・・。斎藤さんの耳は蝶の半翅のような美しい形をしていた。薄い部分が薄く桜色に透け貝殻のような色をしている。

「耳だけが母に似なかったんです」

斎藤さんは小さな声で言った。

「いつも耳は隠しているんです。そこだけ母に似ていないのが却って恥ずかしくて。たぶん実の父に似ているんだと思うんですけど」

「うん」

「がっかりしました?母と同じ方が良かったですかね」

僕がじっとその耳を見つめていると、やがて斎藤さんははにかんだような笑みを浮かべて髪をゆっくりと手から離し美しい耳を隠した。


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